第1話 

 いつからだろうか。


 繰り返される日常に、目の前を通り過ぎていく時間の流れに、自分が生きるこの世界の全てに失望し、興味を失い、情熱を損なってしまったのは。


 目標もなく、生きがいもなく、生きる喜びすらも感じられない。


 そんな屍みたいな存在になってしまったのは、“惰性”という言葉が似合うようになってしまったのは、いつの日からだったろうか。




 PM:9:35。


 非常口の明かりに小蠅が群がる営業所の屋上で、俺はタバコを吹かしながらそんな事を考えていた。


 忙しない日々の中で、ふと、何もかもがどうでもよくなってしまった時。


 俺はこうして屋上でタバコを吸いながら半生を振り返り、自分が生きる意味を模索する。


 学生の頃は、こんな哲学的な疑問を抱く機会は少なかったと思う。


 特別何かを頑張っていたわけではないけれど、強く明確な目標を持っていたわけではないけれど、それでも、根拠のない全能感と漠然とした希望を胸に秘め、これからの人生もそれなりに楽しく生きていくんだろうなと、そう、毎日笑っていた。


 けれど、現実はそうではなくて。


 俺が思い描いていた大人のイメージと、実際の大人の姿はまったくの別物で、その二つの間に生じる溝は果てしないほど深かった。




 おそらく、肩書としての“大人”になってからだと思う。


 何事にも興味を持てず、全てがどうでもよくなってしまったのは。




 社会人としての生活を一言で言い表すのならば、“生き地獄”という言葉が最も相応しいと俺は思う。


 特に一年目、働き始めた頃は本当に大変だった。


 やりたい事がなかった俺は、適当に就活をして今の会社に巡り合った。


 うちの会社は食品トレーを販売する業者で、当時の俺は“食に関わる仕事なら食いっぱぐれる事はないだろう”みたいな安直な理由で、今の会社に就職する事を決意した。


 けれど、それが間違いだった。


 良く調べずに入社した会社は、ブラックすれすれのいわゆるグレー企業というものだったのだ。


 サービス残業は当たり前、忙しくて昼飯も食べられないような業務量。


 客には怒鳴られ、胸ぐらを掴まれたような事も多々あった。


 まぁ、一応完全週休二日制だからまだブラックという域には達していないのかもしれないけど、それでも、あまりにも理不尽過ぎると感じる部分が多い弊社。


 そんなブラックではないけれどホワイトでもない環境下での労働は、着々と俺の精神力を削り取っていった。


 プライドを抉られ、無力感を植え付けられ、自分は吹けば飛ぶようなちっぽけな存在なのだと洗脳され続ける毎日。


 何よりも一番辛かったのは、自分の仕事に興味や情熱を持てない事だった。


 ただ何となく与えられた仕事をこなす日々。


 誰かに決められた目標を死に物狂いで達成しようとする滑稽な自分の姿。


 それがこの先何年も、何十年も続いていくのかと考えてしまうと、発狂してしまいそうなくらいに辛かった。


 それくらいに、俺は働いている自分の姿が、“大人”という肩書を背負った自分の姿が嫌いだった。




 世の中には、自分がやりたいと思える仕事に就いている人間がどれくらいいるのだろうかといつも考える。


 世の中には、自分の現状に満足している人間がどれくらいいるのだろうかといつも考える。


 少なくとも俺はそうではなくて、俺の周りにもそんな人間は誰一人だって存在しなかった。


 世の人間はみんなそうだと、何かを犠牲にして、何かを我慢して生きているのだと、そう信じて疑わなかった。


 お世辞にも良いとは言えない労働環境も、理不尽な仕打ちも、生きがいのない人生も当たり前。


 それが常識で、それが普通なのだと、そう思っていた。


 それが、俺が社会に出て学んだ事だった。




 ちなみに、もう一つ社会に出て学んだ事がある。


 それは、世の中には子供みたいな大人が意外と多いという事だ。


 機嫌で態度が変わる人間。


 自分勝手な人間。


 誰かに依存する人間。


 何も考えず、宙に舞う桜の花びらのようにプラプラと生きる人間。


 図体だけがデカくなった沢山の子供達が、この世の中には蔓延っている。

 

 嘘みたいだけれど、嘘であってほしいけれど、それは、俺がこの目で見てきた紛れもない真実で。


 かくいう俺もその一人であるのだから、それは覆しようのない事実になってしまうのだろう。




 けれど、それなら“大人”とは一体何なのだろうか。


 何をもってして、“大人”として認められるのだろうか。


 何が人を“大人”だと定義するのだろうか。


 自分がやりたいことも分からずに、ただ悪戯に人生を消費するだけの図体のデカい子供の事を何と呼べばいいのだろうか。


 ずっと考えて悩んでいたけれど、俺には分からなかった。


 というか、一生、死ぬまで分かりそうにもなかった。





「あれ? 先輩、まだ残ってたんですか?」




 夜空に浮かぶ春の月を眺めていると、聞き覚えのある声が背中越しに響いた。


 振り返ると、そこにあるのは可愛げのない後輩の姿。




「……おぅ、まぁな。お前こそ随分遅くまで残ってるな? もしかして、今戻ってきたのか?」


「はい。商談、長引いちゃって。けど、おかげで契約取れました」


「ほぉ、ご苦労なこって……やるじゃん」


「いえいえ……営業は足で稼がないとって教えられましたからね。まぁ、先輩の指導のおかげですよ」


「はっ、思ってもないこと言ってんじゃねーよ」


「本当ですってばw」




 このナメ腐ったような態度を取る男の名前は東修二。


 俺の一つ年下で、新人の頃に俺がOJTを務めた職場の後輩だ。


 一見何も考えていないような、能天気なヤツに見える。


 しかし、これで案外しっかりしているというか、要領や物覚えが良い。


 現に営業成績も良く、二年目にして俺と大差ない実績を残している生意気な野郎。


 こいつを見てると悩んでる自分が馬鹿らしくなるくらい、それくらいに東は適当に、割り切って世の中を渡り歩いているように見えた。




「お前はいいな、いつも楽しそうで」


「え、何がですか?」


「いや、明るく前向きでいいなって思ったんだよ。小さな事で悩んだりもしなさそうだし……」


「何言ってるんですか。こんなクソみたいな企業に勤めてるんですから、将来が不安で仕方ないですよ」


「嘘こけ、思ってないくせに」


「本当ですよ~信じてください~」




 猫撫で声を挙げながら、東がこちらに近寄ってくる。


 そんな東に対し、俺は暑苦しいと言い放ち、しっしっと手を振り払った。


 ビルの光が疎らに散る夜の街に、俺と東の笑い声が木霊する。




「なぁ、東」


「何すか?」


「“大人”って、何だと思う?」


「はい?」




 背広の胸ポケットから煙草を取り出し、旨そうに吹かしている東にそんな質問を投げかけてみる。


 当然東は困惑し、怪訝な顔つきでこちらを覗いてきた。




「何ですか、突然」


「いや、最近分かんなくなってきてさ」


「えぇ……大丈夫ですか本田さん……相当ストレス溜まってるんじゃないですか? 今から飲みにでも行きます? 明日も仕事ですけど」


「いや、遠慮しとく」


「マジで断らないでくださいよ……かわいい後輩の誘いを……」


「いや、可愛くないし」


「えぇ……ひどいな……」




 引き気味にそう言う東から視線を逸らし、再び夜空を見上げる。


 しばらく無言のままそうしていると、タバコを吸い終えた東が真面目な声のトーンで話し始めた。




「まぁ、何が正解なのかは分かりませんけど、自分で自分をコントロールできる人は大人だと思いますね」


「コントロール?」


「はい。誰にも依存せず、誰にも影響されず、自分らしく生きれる人ってすごく大人だと思います」


「ほぉ……」




 東の語る大人の定義は思いの他的を得ていて、思わず納得してしまう。


 確かに、揺るがない自己同一性を持っている人間は、それだけで立派に見えるような気がする。


 “自分勝手”とは違う、内なる自分への自信や信頼。


 自分が生きる毎日を自分で決定して、自分が正しいと思う道をただひたすらにひた走る。


 誰にも頼らず、誰にも左右されず。


 強固で頑固、なおかつ柔軟性のある、ある意味矛盾している精神性が人を“大人”たらしめるのではないかと、そう思ってしまった。


 そういう人間は、往々にして余裕があって落ち着いているのが定石だ。


 逆に、それができないから俺みたいな人間はいつまで経っても“大人”になれず、幼稚な子供のまま成長できないのかもしれない。




「なので、自分はまだまだガキなんですよ。欲望とか感情とか、全然コントロールできてないから」


「大丈夫だ。俺だってそうだし、何だったら世の中の人間の大半が自分をコントロールなんてできてないぞ」


「そうですか? 本田さんは結構大人に見えますけどね。落ち着いてるし、あんまり感情むき出しにしたりしないし」


「隠してるだけだよ。腹の中じゃいつもイライラしてるし、余裕もないし自分もない」


「そうなんですか?」


「おぅ」


「じゃあ、仲間ですね。ガキ仲間」


「……お前、俺一応先輩だからな?」


「知ってますよw」




 俺が確認すると、東は笑った。


 一瞬ぶん殴ってやろうかと思ったけれど、コンプライアンスに引っかかりそうなのでやめておく。


 あぁ……こいつが会社にまったく関係のない立場の人間だったら遠慮なくぶん殴ってたのにな……残念……


 と、そんな事を考えながら、俺は硬く握った拳の力を抜いた。




 東と話していると、たまにこいつが会社の人間だという事を忘れてしまいそうになる時がある。


 まるで部活の後輩と話しているような、そんな気軽さが東にはあった。


 ……まぁ、悪い奴ではない。


 なんやかんや言っても可愛い後輩。


 それが、俺にとっての東修二という存在だった。




「まぁ、あんまり考えすぎるのも良くないかもですね。完璧な人間なんて存在しないんですから、適当でいいんですよ、適当で。仕事も人生も、大抵の事は謝れば何とかなりますから」


「いや、何かあった時謝りに行くのは俺とか上司なんだけどな……」


「あっ、そっか……その時はよろしくお願いします」


「お前……」




 前言撤回。


 こいつ、全然可愛くない。


 というか、今の発言で可愛さ余って憎さ百倍だ。


 社会というものをあまりにもナメ過ぎている。


 どうしたものか。


 とりあえず、ここらで少しヤキでも入れておいた方がいいだろうか。


 割と本気で迷ってしまう。




「でも、考え方次第だと思うんですよね、本当に。義務感とか、辛い思いをしながら何かをするよりも、少しでも出来たら万々歳って思った方が断然生きやすくなると思いますよ」


「まぁ、確かにそうだな」


「あと、適度な息抜きも重要ですね」


「趣味とか遊びとかか?」


「ですね。あ、でも自分は……」




 互いの人生論について語っていると、不意に、東の携帯が鳴った。


 すいませんと、そう謝りながら東は携帯の画面をスライドする。


 そうして画面を確認すると、東は少しにやけた顔を見せた。




「……彼女か?」


「違います。でも、彼女になるかもしれない女の子ですね。明日、ご飯食べに行く約束してるんですよ」


「あぁ、この前言ってた子か」


「いや、その子とは別の子ですね、はい」


「えぇ……え、この前の子はどうなったんだ?」


「この前の子……あぁ、サキちゃんですか? 実際に会ってみたら性格合わなそうだったので切りました。明日はミサキちゃんとデートです」


「えぇ……そんな節操のない……。お前すごいな、どこで探してくるんだよその子達」




 そう言う東に、俺は思わず呆れてしまう。


 それと同時に、本当にどこで出会っているんだろうと疑問を抱いた。


 社会人になると、極端に出会いが減る。


 理由は至極単純。


 何故なら、日々の時間のほとんどを仕事に奪われてしまうからだ。


 弊社のようなグレー企業に勤めていればなおさらだろう。


 人生の基本が仕事になり、人生のための仕事が仕事ための人生になる。


 プライベートな時間なんてほんの僅かしか残されない。


 おまけに、同じ会社に勤め続けれていれば人間関係は固定されてしまうので、新しい出会いなんて物は皆無。


 だからこそ、学生と社会人では、恋人を作る難易度が雲泥のように跳ね上がってしまうのだ。


 なのに……それなのに……こいつは次から次へと……




「マッチングアプリですよ」


「……マッチングアプリ?」




 ケロンとそう言う東に、俺は首を傾げた。


 マッチングアプリ……聞いた事がある。


 確か、ネット上で異性との出会いを探すとか何とか。


 気軽に他人と繋がれる分、それが原因でトラブルに巻き込まれることも多いとニュースで言っていたような、言っていないような。




「嘘だろ……お前、大丈夫か?」


「何がですか?」


「いや……トラブルとかに巻き込まれてないのかと……」


「大丈夫ですよ。今時、マッチングアプリなんてみんなやってます」


「ほんとかよ……」


「というか、先輩もやってみませんか? 彼女でもできれば仕事にも生活にも張り合いが生まれるかもしれませんよ? 俺、やり方教えますから」


「いや、いいよ俺は……」


「もー、騙されたと思ってやってみてくださいよ! これでも俺、先輩の事心配してるんですからね? 一生独身なんじゃないかって!」


「よ、余計なお世話だ!」




 ツッコミを入れている隙に、東はベンチに置いてあった俺の携帯を奪い取り、ピコピコと操作しはじめた。


 返せと伸ばした俺の手を掴み、人差し指を使ってロックを解除、おまけにアプリダウンロードの承認まで済ませてしまう。




「はい、チーズ」


「おい」





 そう言って、勝手に俺の写真を撮る東。


 恐らく、アプリのヘッダー画面に使う写真を撮ったのだろう。


 手際の良さに軽く引いていると、東が笑顔で俺に携帯を返してきた。




「はい、設定完了です。プロフィールも作っておきましたから、後は近場で好みの子でも探してください」


「マジかよ……」


「ちゃんとやってるか、後でチェックしますからね。じゃ、お疲れ様です」




 そう言って、屋上を後にしようとする東。


 入口のドアに手を掛けながら、振り向き際にダメ押しのような講釈を垂れる。




「人生には刺激も必要ですよ。傷つくくらいが丁度いいってもんです」




 そんな言葉を残して、東は帰っていった。




 屋上に取り残された俺は、何が何だか自分でも良く分からないまま携帯の画面を覗き見た。


 見知らぬピンク色のアプリのアイコンが、見慣れたホーム画面の端に追加されている。


 恐る恐るそれをタップし、プロフィール画面を確認してみる。




『本田 蒼』




 …………あいつ、本名で登録しやがった。

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