犬が戦えるようになったら

阿部 梅吉

犬が戦えるようになったら

※本作は2019年文学フリマに出品し、またAmazonで電子書籍化された『色彩合同短編集』掲載短編のうちの1つです。


※本記事は予告なく削除することがございます。予めご了承ください。




 


 何度だって演じよう。何度だってプロポーズしよう。どんな真実を抱えていても、その気持ちごと抱きしめよう。覆いつくして侵食され、超えられないほど壊れてしまう夜なんか、もう訪れないようにしよう。照らす光は心躍って輝くものだけにしよう。暗くなりかけたときに帰ってくる場所は、今はまだ未熟だけど、いつかちゃんと大きくなると約束するこの腕の中にしよう。

 そもそもの初めっから君の犬なんだし、ね。




 まったく、高校に入って一か月しか経っていないのに、俺はすでに有名らしい。

「海藤君だ」

 いつもどこかで誰かが俺のことをひそひそ話している。直接言えば良い。そう言いたいけど、誰が喋っているのかもわからない。そんな騒ぎ立てることもないのに。

 親元離れて東京の学校で憧れの寮生活。なはずなんだけど、ごめん既に限界。寮なんて実際ストレスの塊だ。意味の分からない規則と規律と常に監視されているような誰かからの視線。もううんざりだ。静かにしてくれ。

「反吐が出るね、委員長」

俺は相部屋の男に言った。常に冷静で、顔の整った男だった。

「何が?」彼は学校指定ジャージの上を羽織いながら言った。

「いろいろ。委員長、夜の点呼の時間。よくやるよな。こんな囚人みたいな生活、ばかばかしくないのか?」

「さあ。そうかもしれないけど、誰かがやることだし」彼は表情一つ変えない。

「ふうん、すごいね」

「なんで?」彼はこちらの方を一瞥もせずに言った。

「なんとなく」

 彼は消灯前の見回りに言った。俺はそのままベッドに横になった。


 高校に入ってから一カ月。毎日目を瞑るたび、未希姉と寝るプランを考えている。実際それくらいしか楽しいことが無い。ミキ姉は俺の実家の隣の家の子で、俺より十歳年上。彼女は都内で保育士をしている。週末は姉ちゃんと会う約束をしているから、プランニングはめっちゃ重要。寮に姉ちゃんは入ってこれないから、俺たちが寝る場所は姉ちゃんの部屋に限られる。どこかホテルに泊まってもいいけど、そんなことを姉ちゃんが許してくれそうにもない。

 毎晩姉ちゃんの上に俺が乗っかる姿を想像する。想像上の姉ちゃんは俺がキスすると目を丸くしてびっくりする。顔を真っ赤になって、だんだん目を潤ませる。俺は優しく頬にキスをして、そのまま一晩中姉ちゃんを抱きしめる。姉ちゃんの服の中に手を入れてみるけど、その先は正直未だよくわからない。想像上の姉ちゃんの胸は枕みたいな、マシュマロみたいな感触がする。


「理人(りひと)は部活どうするの? 中学ではテニスで全国行ったんでしょ?」若干髪を茶色にした後ろの席の女子が話しかけてきた。

「うん。でもどうしようかな、稽古もあるし」

「仕事が忙しいもんね」

 そう、何を隠そう、俺は仕事をしている。初めて仕事を貰えたのは十二の時だった。ドラマの仕事。小学一年生の頃、子役あがりの俳優が営む演劇レッスンスタジオに通い始め、六年間みっちりしごかれた。上のクラスの子の中にはドラマやCMに出ている子もちらほらいたが、俺の場合は六年間鳴かず飛ばず。そんなわけで、十二の時にドラマでちょい役を貰えた時はかなり興奮したのを覚えている。


 全ての始まりは、ミキ姉だった。

 俺がまだ六歳のころ、ミキ姉は俺の家をしょっちゅう遊びに来ていた。彼女は俺の顔を見るなり、親父に言ったのだ、

「この子は可愛いから俳優になったらいいんじゃないのかな」、と。

 普通の親ならお世辞だと受け取ってそこで終わる話だ。しかし自分で言うのもなんだが、俺は容姿に優れていたし、俺の親父は冗談の一つも本気に受け止めてしまう性格だった。その奇跡のコラボが、俺の運命を百八十度変えた。

 自分で言うのもなんだが、俺は昔から女に間違えられる程度には可愛かった。睫毛だって長いし目も大きい顔も整っている。近所では割と評判だったし、小さい頃は女子学生のグループが通り過ぎるたびに持て囃された。

「王子様みたいだね」と、そのうち誰かが俺に言った。

『王子様』の意味が分からなかった俺は、ミキ姉にそれの意味を聞いた。彼女はただ笑って、

「とっても『きれい』だ、ってこと」とだけ言った。『きれい』をことさら大きく、ゆっくり発音して。

「……かっこいいってこと?」

「うん、それもあるね」それ『も』、と彼女は付け加えた。

 翌日、幼稚園で王子さまは「お姫様と結婚できる」と聞いたので、早速夕方にミキ姉のお迎えが来るなり、

「ミキ姉はお姫様?」と聞いたら、ミキ姉は声を出してあはは、と笑い、

「ありがとう」と言って俺を抱いた。

 幼稚園を卒園する、ほんの数日前のできごとだった。


 小学生に上がってからは割と辛い日々だった。いきなり六歳の時に演劇スクールに放り込まれ、わけがわからないまま稽古漬けの日々が続いた。まずスクールに来た子どもにはいきなり笑えとか泣けとか言われるのだが、ご想像の通り、とても苦労した。悲しくもないのに涙なんか出ない。しっかし、子役の卵とはすごいものだ、みんな講師が泣けと言ったら本当に泣くのだ。周りの子たちは本当に涙を流していた。泣けないやつも何人かいたが、少数派だった。俺はよくわからなかったが、みんなが泣いていると少しだけ悲しい気持ちになった。それでも泣けなかった。

 俺は講師に怒られた。もっと悲しんでと言われたが、当時俺には特に悲しいことなんてなかった。だから特に泣けもしない。講師は俺に悲しいことを想像しろ、と言った。

 俺はミキ姉がどこかに行くところを想像した。誰か男の人といて、永遠に遠くに行ってしまうところを想像した。ミキ姉の甘い声も腕の感触もすべて誰かの者になってしまうところを。

 講師は初めて、「やればできるんじゃないか」と俺を褒めた。


その日の帰り、俺はミキ姉に褒められた。

「先生が褒めてたよ。理人も成長したって」

 俺はあの時の帰りを未だにはっきり覚えている。当時俺たちは電車を乗り継いてスクールに行っていた。

 ミキ姉と乗る電車はすごく好きだった。土曜日の夕方、人々は思い思いの行動をしている。買い物に言ったり好きな人と会ったり仕事をしていたり。電車の中は幸福と不幸、退屈と充実が入り混じっていた。電車の外から見える家々だって、思い思いのことを話していた。ああまた晴れだね洗濯物干せるよ、釣りの調子はどう、なんで土曜も仕事かなあ、お、野球勝ったな、早く帰ってこないかしら。


「今日、初めて涙が出たんだってね」

 タタン、タタン、と電車の揺れる音がした。ミキ姉の言っていることを理解するのに数秒かかった。

「……、うん」

「先生に聞いたよ。すごいじゃん」ミキ姉はなんら混じりけのない、世界の温かさをそこに凝縮したような笑顔を俺に向けた。俺は未だこのとき六歳で、何を伝えようとしても、見えない透明な壁に阻まれていた。壁の中で俺は叫びたかった。

 だって、ミキ姉のことを考えたんだ。

壁の中の俺は言う。

 ミキ姉がどこかに行くことを考えたらさ、自然と、自然と涙が、

 だから、お願い、ミキ姉、どうか、どうか、


「うん」と俺は言った。ミキ姉は俺の頭を撫でた。

「ねえ、アイス食べたくない?」ミキ姉は唐突に言った。

「うん」

「……何味がいいの?」

「……ジャモカコーヒー」

「いいの?それで」

「うん」

 電車を降りた先のアイスクリーム屋さんで、ミキ姉はそれを二つ買ってくれた。

「ん」俺は何も手を付けていないアイスを差し出した。

「……いいのに」彼女が笑う。

「一緒に食べたい」

「じゃあ一口ね……」そう言って彼女は髪をかきわけて自分の頭を俺の頭へと近づけた。ゆっくりと彼女はそれを舐めた。俺は意味も分からず苦しくなった。

 彼女が口をつけたアイスは、半分だけ俺の胃の中でどろどろに消化された。


 俺はミキ姉と手を繋いで帰った。大きくなったらいつかこの手も振り払われてしまうだろうと薄々気づいていたから、俺はこの手を余計に離したくなかった。


 子供のころから、打算的だったことは認める。今のうちしかできないからと、ミキ姉にたくさん無茶を言った。


 十歳の時だった。俺とミキ姉と親父で海に行った。当時ミキ姉は東京の大学に家から通っていた。彼女は二十歳で、あらゆる男から視線を浴びてもおかしくない状況だった。ミキ姉は海に来ても水着を見せたくないからとTシャツを上から着ていた。

 俺はむりやり、遠くまで泳ぎたいと駄々をこねた。親父は泳げなかったから、ミキ姉が俺について行くことになった。彼女はもう仕方ないなあ、と諦めたように水色のTシャツを脱いだ。

「本当は太ったから見せたくないんだけど」

太ったなんて嘘だった。ミキ姉の胸は確かに数年前より大きくなっていたかもしれないが、多くの男性を虜にしてしまうであろう肉体がそこにあった。俺はなんだかちぐはぐな気持ちになった。ミキ姉の水着は見たいが、他の奴らもこれを見ていると思うとなんだか少し変な気分になる。

「ねえ、泳ごう」海の中に入れば、誰もミキ姉を見ないだろう。

「うん」ミキ姉は俺の言葉をすんなり受け入れる。いつも純粋に。

 ずっと泳いでいればいいんだ。俺たち。俺は、泳いだ。ずっと泳いでいたかった。


 ずっと泳いでいればよかったのかもしれない。でも現実はそういうわけにはいかない。声変わりを体験し、眠れない夜にはミキ姉の服の中を想像することを覚えた十二の時、初めてドラマの話が俺に降ってきた。学校のシーンで、子役は他にも何人か出る。全話に出るわけでもない。しかしミキ姉と親父はめちゃくちゃおれを担ぎ上げた。

「理人がドラマに出る」と親父は周りに吹聴しまくり、ミキ姉は五年ぶりに俺を抱きしめた。その時、俺の時空は止まった。柔らかい胸の感触が俺の首の下を伝い、いつも暗いはずのミキ姉の家の部屋もその日は明るく、俺の脳内でその時流行りのJポップが流れた。頭の上から声が聞こえる。天使がいたら、ああ、こんな声なんだろう。

「ねえ、ほんとすごい」


 すごいよ、ほんと。それは認める。姉ちゃんに言われて、姉ちゃんに褒められたかっただけでここまで来たんだ。本当はね。


 初めてのドラマの現場は煌びやかで刺激的で、とてもめまぐるしかった。ただひとつ、結局俺の役は俺でなくても誰かがやったということは、なんとなく理解した。スタッフの大人たちはみな忙しそうで、時間はないけどクオリティは求めてくる、本物のプロの連中だった。たまたまそういう現場にいただけかもしれないが、できなければその場で無視され、忘れられ、作品は知らぬ間にできている。そんな感覚がいつもどこかにあった。

 その中でも主役級の俳優たちは、「この人にしかできない」と思われている節があった。選ぶのではなく、選ばれる立場なのだ。俺は自分と彼らとの間に、まざまざと実力差を感じた。

 それでも、誰かが、神様の情けかもしれないが、誰かが俺にこの役を与えてくれたんだと思うと、少し心が安らいだ。誰でもいいかもしれないが、その中でも敢えて俺を選んでくれたのだ。

 誰かが。


 演技とは不思議なものである。作り物の中に真実をどこまでも追究するこの不思議な仕事に、俺は徐々にのめり込んでいった。

 もっと演技を学びたいと思った俺は、自然と芸術コースのある、家から少し離れた高校に通うことを選んでいた。


 ミキ姉とは今、週末だけに、会える。


 ミキ姉は近所の保育園で保育士をやっている。昔からりっくんの面倒見てたから余裕だよ、と彼女は笑う。

「りっくんは最近仕事忙しくないの?」

「レッスンが相変わらずある」と俺は言った。場所は都内のファミレスだった。俺は何を注文しただろう。ミキ姉はオムライスを頼んでいた。彼女は二十五歳だった。

「本当はさ」と俺は白状した。

「アイドルグループからの打診があったけど断ったんだ」

「へえ?」ミキ姉はオムライスを掬ったスプーンに三回息をかけた。

「なんとなく、やりたいことと違ったから」

「りっくん、イケメンさんだもんね」

姉さんだって、と言いたい。姉さんだって、どんなアイドルとか女優なんかより数倍、数千倍、数万倍かわいい。

「ねえ、それ、一口欲しい」と俺は言った。

「ん、いいよ」彼女はオムライスの皿を俺に向けた。俺は自分のスプーンでそれを掬った。


 帰りの電車はお互い別々の方向だった。土曜日の夕方は相変わらずいろんな人がいる。

「今度、いつ会えんの」

「うーん、りっくん次第だよ。だってまたお仕事あるんでしょう?」

「ん……でもさ、俺の学校、寮生活だし、携帯すら日曜日とか深夜じゃないと使えないし、早めに決めておきたいんだよね」

「じゃあ、りっくんのお仕事の後にまたお祝いしよう」

「家で?」

「うん」

「俺さ、そしたら姉ちゃんの行きたいとこ、連れてくよ、お金だって入るしさ」

「そう?」

「うん」

「じゃあ、犬のいるとこ」

 相変わらず純粋な笑顔。ほら、まっすぐに俺を見る。

「わかった」と俺は笑う。


 苦しいよな。これはこれで。





「理人、ちょっと購買行かね?」

 いきなり加瀬に声をかけられてびっくりした。彼は俺と同じ芸術コースに所属していて、某有名タレント事務所のアイドルグループに入っている。

「お前、ホモじゃないよね?」

 昼の購買で人が揉みくちゃになるどさくさの中で、不意にそれは発せられた。俺は言葉の意味を理解するのに数秒かかった。

「なわけないよ」

「理人、お前誰とも付き合ってないらしいじゃん」

「そうだけどさ」

 俺は入学してから五人(くらい。たしか)の女に告白されたが、どの子にもピンとくるものは感じられず、全員断っていた。

「お前、ホモ説出てるぞ」

「別に好きな子じゃないと付き合いたくないだけなんだけど」

「事務所の縛りとかあるの?」

「ない。お前と違ってね。でも、してたら見下される。演劇より恋愛にかまけてる、って」

「そっちもそっちで色々あんのね」と言って彼はカレーパンの封を開けて食べた。アイドルの卵もカレーパンを食べる。

「おまえが食べるとカレーパンもすごい高いものに見えてくるな」俺は思ったままを口にする。なんだか加瀬と数百円のパンの組み合わせはチグハグに感じた。

「食べる?」と彼は一口大にちぎってくれたが、

「いらない」と俺は断った。

「理人が食べても結構様になるよ」

「……お前は恋愛なんかしてないだろな?」

「してないと言うとウソになる」俺はどきりとした。

「事務所ではNGじゃなかったのか?」俺は声のトーンを落とした。知られたらちょっとまずいことになる。

「うん。でも、心の中まで制御できなくね? 別に付き合っているとか、そういうわけじゃないからセーフ」彼はもくもくとカレーパンを食べる。

「なんだ」と俺は安心した。

「片思い?」

「……」彼は何も答えなかったが、

「お前は?」と聞いた。

「お前が白状するのが先」俺はその手には乗らない。


 夜寝る前の妄想は、だんだんストーリーを帯びてきていた。俺とミキ姉は二人、バイクに乗っている。勿論俺が前。白黒のイカしたやつ。ミキ姉の腕と胸と、たまに太ももの感触を気づかれないように、感じる。俺は何も言わない。ミキ姉も何も言わない。どんな表情をしているのか知りたい。

 海に着いたら、ひとしきり二人で砂浜を歩く。誰もいない。もうみんな家に帰ってしまったから。日が暮れようとしている。

 石か何かに足をぶつけて、転びそうになるミキ姉の腕を、

 掴む。そのまま抱き寄せる。

 波の音が聞こえる。全身で俺はミキ姉の感触を覚えようとする。誰もいない。なんだってできる。俺はそのままミキ姉をお姫様抱っこして岩の影に連れて行き、砂浜の上に寝かせる。彼女は白いワンピースを着ている。それを肩から脱がして、

 キスする。唇に。

 熱いのは、ミキ姉の唇だろうか。それとも、

 俺?




「お前はさ、黙っていりゃ割といいのにな」

 加瀬が階段の踊り場で言った。昼休み、三階の奥へ通じる階段には俺と加瀬以外に誰もいなかった。

「その言葉、そっくり返すんだけど」

「お前はさ、見た目は結構、なんていうか、少女漫画にいそうだろ?」

「少女漫画なんかわかんねえよ」

 嘘。ちょっとだけ知っている。ミキ姉の部屋に数冊あったから。でもそれも、ガキの頃に読んだきり。

「髪もふわっとしてるし睫毛長いし細いしさ。俳優っていうよりかは王子様アイドルじゃん」

「しらねえよ、そういうのは」

「そういう口の利き方さえしなければなあ」

「お前だってそうだろ、つうかてめえ好きな人だれだよ」俺は突っかかる。

「真知子」

「え?」

「だから、真知子。国語の」

「は?」俺は一瞬固まった。国語の伊藤真知子先生のことか?

「めっちゃエロいんだ、あの人。普段はちょっと地味にしているけど」

「ふうん?」これ以上聞かない方がいいような気がしてきた。

「要するにお前は恋愛禁止のグループにいながら恋愛してて、ついでに先生が好きだってこと?」

「だって好きになったら、止められないし」

「お前ドラマの見過ぎじゃねえの?」

「それは職業柄」加瀬が突っ込む。

「それ、本当に好きなわけ?」

「うん」と彼はぼんやり笑いながら言った。その言葉は今も宙に浮かんだままだ。

「てかさ、本当に好きか好きじゃないかって、どうやったらわかるわけ?」




 次にミキ姉と会ったとき、もう冬が回っていた。

「誕生日、過ぎたね」と彼女は言った。相変わらず二人で安いファミレスにいた。三時過ぎの窓辺の席で、強い日差しが彼女の横顔を射した。

「うん」僕はコーヒーを飲んで、彼女はオレンジジュースを飲んでいた。

「もう十六なんだ」と俺は言った。

「私はもう二十六だよ」

「『まだ』二十六だよ」と俺は言い直す。

「ミキ姉、二十歳くらいから全然変わってないじゃん」

「そう? でももうアラサーだよ。子供たちのきゃぴきゃぴにもだんだんついていけなくなっているよ~」

「うん」

 俺は実のところ安堵していた。今までに何度かミキ姉のところに男が寄り付いたことはあったが、そのたびに細心の注意を払ってきた。今の今まで彼女の口から結婚の文字が出ることはなかったが、いつなんどき彼女がその言葉を口にするかはわからなかった。彼女が二十五を過ぎた今、職場では女性ばかりだし、よっぽどのことが無ければ結婚することはあるまい。

「でもミキ姉、まだ子供っぽいし、それに……」

 彼女のまあるい瞳を見る。どうしてだろう、十歳も年上のはずなのに、彼女はまだ、何も知らないような顔をしている。

「……」

「童顔で悪かったねえ」と彼女はけたけた笑った。その純粋な笑い方がまぶしくて苦しい。

「ドラマもお疲れ様。りっくんはすごいねえ」

「ううん、また少ししか台詞なかったし……」

 それからは二人で、ずっと撮影の話をした。その間俺はずっとずっと思っていた。

 かわいい。ミキ姉が、世界で一番。かわいい。でも、なんか苦しい。息が。なんで……。




 帰り道、夕方のチャイムが鳴った。太陽が赤く、彼女の顔を半分照らしていた。

「黄昏って苦手だな」と彼女がぽつりと言った。

「なんで?」

「一番寂しくなるんだ。夜が来るしさ。いや、もう夜が来てしまえば、覚悟はできるんだけど」

「月曜日の朝よりも日曜日の夕方の方が辛いみたいな?」

「ああ、そんな感じ。さすがりっくんだね」

「俺は、黄昏って嫌いじゃな」

「あ、犬だ」彼女はその瞬間、ぱっと顔を輝かせた。犬のことになると彼女は目が無い。

「かわいいなあ、雑種かなあ」

「こんにちは」犬を連れたジャージ姿の男が、むこうから挨拶してくれた。

「こんにちは、雑種ですか?」ミキ姉は犬を連れた人に対してガードがめちゃくちゃゆるい。

「雑種ですよ」と彼は言った。

「ゆっくりなら撫でても大丈夫です」

「ありがとうございます」と言い、彼女はおそるおそる犬の頭を撫でた。

「かわいい」彼女は本当に幸せそうな笑顔で、犬を撫でた。

「こちらこそありがとうございます」と男は言った。

「ありがとうございます」と俺が言った。


 犬を連れた男と別れた後、駅に着くまで犬のことばかり話した。

「ねえ、ドラマに犬は出ないの?」と彼女は言った。

「犬の出るドラマに出たことはないな」俺は正直に答えた。

「舞台って犬は出れるのかな」

「舞台だったら、人間が犬の役をやることの方が多いね」

「そうなの? じゃあ本物の犬は舞台に出れないんだ」

「客に犬アレルギーの人だっているかもしれないだろ?」

「そうかあ」と彼女は心底残念そうにため息をついた。

「犬が舞台に出ていたら、すっごく可愛いと思うんだけどなあ」

「だからさ、人が犬になりきるんだよ。すっごく可愛い犬にね」

「俳優さんはすごいなあ」

「すごいよ。それが、演技するってことなんだ」

「そうなんだ」

「うん」

「すっごいかわいい犬に見える人がいるってこと?」

「すごいところにはね」

「ふうん。でもりっくんもさ、」

「ん?」

「あはは、りっくん、犬の役はやらないのかな?」

「まだやったことはないな」

「そっか。犬の役が来るといいね」

「それ、ミキ姉の願望じゃん……」





 嫌な夢だった。冬が過ぎ、春が来て、だんだんと草花も生い茂ってきたころだった。

 白いシャツを着たミキ姉がベッドに横たわり、その上に誰かが馬乗りになっていた。顔は見えない。そいつはミキ姉の顔をまじまじと見ながら、彼女の胸のふくらみの一番てっぺんを人差し指でなぞっていた。よく見ると彼女は高校の時の制服を着ている。

「感じたら、だめだよ」と、その顔の見えない奴が言った。たくさんの人間が一斉に発話したような、くぐもった声だ。

「そんな性的な子になったらいけないからね。声も出しちゃだめだよ」

 そう言いながら、彼は彼女の胸を円形上になぞった。彼女はかなり辛そうだった。目を閉じて、全身を震わせた。

「頑張ってね……感じたらだめだよ……」

 彼はそう言いながら、彼女のワイシャツの上から彼女の胸に口をつけた。彼女は目を閉じ、口を固く結び、何も言わず必死に首を振った。腕が震えている。その腕をゆっくり、相手の男の頭に移動させ、押した。彼女なりの精いっぱいの抵抗だったのだろうが、男はびくともしなかった。

 男が頭を彼女の体から離すと、彼女のワイシャツの胸の部分が唾液でぐしゃぐしゃになっていた。

「もう、むり」と彼女は小さく震える声で言った。

「どう、無理?」

「限界……」

「感じているの?」

「わかんないけど、限界」

「感じないように、ちゃんと練習しなきゃだめだよ」男はミキ姉のスカートの中に手を入れた。そこで俺はハッとした。考えるより口が動く。

「ふっざ、けん、な!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」

俺はそいつの頭を掴んで、こっちに振り返らせた。

男が、振り返った。

俺の親父だった。






 その日の昼休み、俺はすぐさまミキ姉に電話した。初めのコールには出なかったから、俺はトイレの壁を一発殴った。が、すぐさま向こうから折り返しが来た。

「りっくん?何かあった?ごめんね~今日はまだお片付けがあって帰れていないの」

若干赤ちゃん言葉が入っているのは、おそらく職業病だろう。それに関しては俺は何も言わず、

「こっちは何もないけど、何か最近変わっていることとかない?」と返した。

「え~? 何もないよ?なんで?」

「ならいいんだけど、さ。そういえば、親父は? 隣の家だし最近会ってる?」

「うーん元気だと思うけど? 私も毎日りっくんパパに会っているわけじゃないし。でもなんだか忙しそうだねえ。って、自分から連絡とればいいじゃん。寮生活ってそんなに厳しいの?」

「ま、それはそうなんだけどさ。最近どうなんだろう、ってちょっと思って」

「最近は変わりないと思うよ? うん」

「そう。よかった」

「りっくんは、新しい学年になるねえ」ふふ、と彼女が笑う。

「ねえ、ミキ姉、」

「ん?」

「結婚したい」

「ん? 早くない?」

「結婚したいんだ」

「えええ、りっくん、まだ高校生だよねえ?」

「もちろん今じゃないよ」

「ふおー!おめでとう!」

「え?」

「はっはあ。彼女ができたんだねえ? だから電話してきたんだあ」

「そうじゃなくて、俺、ミキ姉と結婚したい」

「え?」

「だから、待っててほしい。俺が十八になるまで」

「ん?」

「あと二年は誰とも結婚しないで。それじゃ」

 俺は電話をそこで一方的に切った。発信音が遠くから聞こえたが、俺は無理やりポケットに携帯を詰めた。



 「……誰だよ」加瀬がトイレの個室から出てきた。

「盗み聞きしてたのか」俺はため息をつく。

「お前が勝手に電話してたんだろ。っていうか、今の電話、何?」

「……宣戦……布告?」

「プロポーズではなく?」

「……そうとも言う」

「いや、そうとしか言わねえよ。だって今、結婚してくれって言ったよな?」

「言った」

「そうだよな?」加瀬が本当に驚いたように大きな声で言う。

「クソださいな、俺」俺は思わず座り込む。

「クソださいな、お前」加瀬が笑う。

「クソ、告白するときは犬と一緒に姉ちゃんに似合う指輪を買って夜景を見る予定だったのに……!!! 姉ちゃんの大好きな犬をペットショップで選ばせてクルージングかヘリコプターで告る予定が台無しになった」

 俺はトイレのドアを殴る。

「……お前、意外とロマンチストなのな?」

「でもまあ、これで先手は打った!」

「は? なんの?」

「だから戦争の」

「わけわかんねえよ」

「取られる前に奇襲したんだ」

「いや意味わかんねえよ。でもさ、お前、ずっと女の人とか恋愛に興味なんかない、って顔してたのにな、印象変わったわ」

 加瀬はなぜだかずっと優しい目で俺を笑っている。いや、その生暖かいにやにや笑いやめろ。

「俺、あいつのことは……」

「お前、意外と人間臭いのな。耳まで赤いぞ」

「黙れよ盗み聞き」加瀬が大笑いした。




 寮に戻る間に一度携帯の画面を開くと、案の定ミキ姉からメッセージが入っていた。


【何かあったの?夜九時以降に時間あったらまた話そうよ】


何度話しても同じだ。俺の伝えたいことは、あれ以上でも、以下でもない。俺は思いのままに、勢いのままに、ただ純粋に、指を動かす。


【何もない。ただ、ミキ姉と結婚したい】


 俺はそれだけを打って、また携帯をポケットの中に入れた。しばらくバイブが鳴り響いたが、それも一分ほどすると、俺の太ももの側で大人しくなった。




 帰りのホームルームで、新入生歓迎会の出し物について話し合った。俺のクラスは簡単な劇をやることになった。芸能コースは普通科コースのやつらよりも良いクオリティを求められていたし、事実、先輩方は毎年いろんな趣向を凝らして新入生を驚かせていた。

「それで脚本だけど、どうする?」と委員長が言った。

「シェイクスピアとか、どうかな?」と眼鏡をかけた女子が言った。確かこの子は映画監督か何かを目指していた。

「ミュージカルとかは?」今度は大物歌手の息子が口を出す。

「もっと、希望が見えるものの方がいいんじゃないかな」と誰かが言った。

「リア王やマクベスだって観たら希望に満ち溢れると思うけど」

「そうかもしれないけど、新入生歓迎会のテーマには少しそれるよ」

「恋愛要素じゃない方がいいよね?」

 侃々諤々、言い終えたところで俺は言った。

「犬が出てくる話に一票」

 みんなが困惑した目で一斉に俺を見た。

「犬が出てくる話。それに一票」




 ミキ姉からのメールの返信はまだ見ていない。きっと彼女は混乱しているだろう。突然のことにどう対応していいのかわかっていないはずだ。きっと彼女にとって、俺はまだ、頭を撫でたいと思うほどに守りたい存在なのかもしれない。

 でも俺は、戦うって決めた。

 この世の誰よりも、彼女の願いを叶えるって、自分に誓ったんだ。

 返信が来ていたら、俺はちゃんと説明しよう。好きって言葉を知る前から、ミキ姉のことが誰よりも好きだったことを。あらゆる黄昏が彼女を襲ってきても、そのたびに俺が朝にすると、そう宣言するんだ。彼女にも俺にも、世界にも、あらゆる彼女を襲う災厄にも、幸せにも。


 俺は犬になろう。彼女が笑ってくれるなら、そんなことはとても簡単なことなのだ。生まれてくる前から、演技しなくてもそうだったのかもしれないが。


「……で、どんな作品?」

 教室の後ろから、誰かが突っ込む。

「犬が出てくる作品って、例えば?」

そういえば、俺、犬が出てくる作品、知らねえ。

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