心臓のない女
阿部 梅吉
心臓のない女
「『友達』の申請、無視しているの?」と旦那が聞いた。
「うーん、なんとなくね。ちょっと。」
「ふうん。」
旦那は一瞬考えたが、それ以上は考えないと決めたらしい。「友だち申請」とは、SNS上で繋がりたいと思った人に送る申請のこと。私は小学生の頃の友達から「申請」が来てるけど、ずうっと気づかない振り。
彼は自分の携帯に目を落とした。彼の「友だち」は三百人以上いる。彼の仕事が、あるいは人柄がそうさせるのかもしれない。彼はフリーランスのインテリアコーディネーターで、人とのつながりや宣伝活動がそのまま仕事に直結することもある。こういったSNSへの書き込みやチェックは仕事の一部なのだ。実際、彼は結構有名な人と繋がっているし(私ですら名前の聞いたことがある人だ)、一度仕事を受けたお客さんが旦那の名前を検索したりする。彼もすぐに「友達申請」するから、そう言ったお客さんとはSNS上で繋がる事も多い。彼はパソコンが大好きで、新しい技術やアプリにはすぐに飛びつく。
私とは正反対だ。
私はどちらかと言えばメールより電話が好きだし、電話より手紙が好きだ。メールの文章は大事な要件を伝えることに向いているかもしれないが、だらだらと友達と電話したり、旦那にこっそり手紙を書いているときの方が楽しい(ちなみに彼は全く手紙を書かない。彼に限らず男の人って全く手紙を書かない。どうしてだろう?)。
そんなわけで、私のSNS上の「友だち」は二十人ちょっと。同世代の子に比べたら圧倒的に少ないけど、特にこれで不満も無い。メールアドレスさえあれば、SNSをやっていなくたって、生活に支障が出るわけではない。まあ、殆ど旦那にやってもらったのだが。
「あたしの友達ね、お化けが見えたの」
私は思い切って彼に話してみることにした。
「お化け?」
「うん。」
「幽霊ってこと?」
「そうだと思う」
「その友達って……この子?」
彼は私の携帯の画面を指さす。私は軽く頷く。
「そうなんだ。本当に見えたの?」
「まさか」
彼は混乱したみたいだった。一点を見つめて動かなくなる。次の言葉を探そうと努めているのだろう。
「要するに嘘だったのよ、ただの演技」
彼は肩をすくめ、ため息をついた。
「わからないね。その子の気持ちと言うか、動機がさ。子供の頃はそういうものが見えていたのかもしれないし、あるいは幻覚みたいなものだったのかも」
「そうね、確かに。でも周りはコロッと騙されたのよ。私もその一人」
「注目を浴びたかったのかな、その子は」
「どうなんだろう、本当のことはわかんない。でもきっとそうかも。それか、一度幽霊みたいなものが見えて、それが本当は違うとわかったあとでも、もう取り返しがつかなかったとか」
「在り得るね」
「あなたは周りから注目を引きたいと思ったことある?」
「殆どないね」
「でしょうね」
空気がほっと柔らかになった気がした。外は晴れていて、季節は冬だった。地面は白いが、空は青い。
「君もないだろ?」
私は頷く。
彼女は学生時代、割とおとなしい子だった。リーダー気質ではないし、何かの集まりがあっても、意見をさほど口に出すタイプではなかった。成績だってずば抜けて良い訳ではなかったが、悪くもなかった。要するに彼女はそんなに目立つタイプの子ではなかった。
でもだからこそ、彼女が発言をたまにする時は皆、真摯に彼女の意見を聞いたし、彼女が嘘を言っているとは誰も思わなかった。彼女の嘘も、まあ、結構これがうまいのだ。徐々に皆に信じ込ませていく。
「あそこに何か白いものが見えない?」
彼女は何気ない日常の中に嘘を織り込ませる。とても自然に。当然、私は見えない、と言う。しかし彼女は「絶対に見える!」と声を荒げたり、騒いだりなんかしない。
「ああ、やっぱりそうなんだ」と言わんばかりに、堂々とした、しかしとても自然な態度を取る。あくまでこちら側から興味を持つように仕向けるのだ。
こちらが質問をしてまったら最後、彼女の思うつぼである。彼女は静かに、しかし満を持して、予め用意していた答えを言う。
「私ね、実はたびたびなんか白い物とか、白い人とかが見えるの。他の人には見えないんだけど……」
今だったら少しは怪しむかもしれない。しかし私たちは当時小学生だった。人を疑うこと自体、発想になかった。
周りの子たちは当然のことながら、彼女の話に釘付けになった。しかし当の私はさほど興味を持てず、なんて返答をするべきなのか頭の中で思い巡らせるだけだった。
「それで、なんで彼女の嘘がわかったんだい?」
暗い部屋の中で旦那の声が響いた。彼の声はよく通る。私たちは同じ布団の中にいた。
「嘘だったんだろ?」
「彼女、私を騙したから」私は淡々と答える。
「へえ?」息の多い声だった。
「彼女が幽霊を見ることができる、って告白してから半年くらいだったと思う。それくらいの時に、彼女は周りの友達に言ったの。自分自身ではなくて、私、この『私が』幽霊を見える、って嘘ついたの。私に責任を被せてきたの」
「ん……」
旦那が寝返りを打ってこっちを見た。
「否定できなかった。何が起こったのか初めはわからなくて。混乱してたし、彼女に言いくるめられた」
旦那は黙っていた。
「『あそこに何か見えない?』って聞かれた。その日は天気の良くない日だった。霧がかってたから、私はうん、って答えた。それが運のツキね。次の日には私は幽霊の見える子として噂になってた」
「うん……」
「初めは、嵌められたとは思わなかったけど……」
「うん……」
彼は私の額を撫でた。
暗闇の中で彼の声がこだました。
「もうそれは昔のこと?」
「たぶん」と私は言う。そうだ、きっと昔のことなのだ。彼と会うよりもずっとずっと昔のことなのだ。たぶん。
私は聞く。
「ねえ、昔のことって、覚えてる?」
旦那と出会ったのは四年前だ。私は小さな出版社で婦人向けの雑誌を作っているのだが、あるインテリアの特集記事で彼にお世話になった。最後の打ち合わせの日に、彼の方から食事に誘ってきた。その辺の記憶は曖昧だ。仕事が終わったお祝いで確か焼き肉に二人で行ったはずだが、正確ではない。他に誰かいたかもしれないし、ステーキの店だったかもしれない。ただそれが、6月の晴れた日の夕方だったことは確かだ。
私たちはお酒を飲んだかもしれないし飲んでないかもしれない。彼はその日車には乗っていなかった。私も電車を乗り継いで来ていた。場所は赤坂だったと思う。
その後私たちは、何回か二人で食事した。夜に会えなければお昼だけを共に過ごすこともあった。お互い仕事があるから、そんなに頻繁ではない。二週に一度くらいのペースだったとは思うがそこも確かではない。そんな関係が半年続いた。
覚えているのは、彼と創作ダンスの舞台に行ったことである。彼の友人があるダンスサークルで講師をしており、そのツテでチケットが余っているから、と私を誘ってくれた。初め私は仕事の都合上行かないつもりだったが、彼は開始時間に間に合わなくても行こう、と言ってくれた。車で迎えに行く、と彼は言った。
舞台はとても興味深い内容だった。学生やアマチュアが殆どの舞台だったが、クオリティは決して低くなかった。誰一人として、手を抜いている者はいなかった。私はすっかりその世界に魅了されていた。旦那は何人かの知り合いが出ていたので、それを目で追うのに精一杯だった。
「すごく面白い」と私は言った。
「それは良かった」
彼は私ほど内容を楽しんでいたわけではないようだ。その言葉はどこか他人行儀なところがあった。
「来た甲斐があった」
「ありがとう」
「いえいえ」
彼は車を出した。
「さて、どこに行く?」
私たちはホテルへ向かった。
……ねえ、メニューに金額書いてないけど…。大丈夫なの?……そんな、良いのに……まあそうだけど、そうね、一年に一度くらいなら……。ねえ、これ一万円は超えないわよね? ……大丈夫だよ、何も気にすることなんかないんだから……お金は下ろしてきたし……それに僕、このままだとお金なんかたまる一方だよ……ほら遠慮しないで食べて……君細いよね……もっと食べた方がいいよ……ほら、食べていると、君、すごくかわいい……
「覚えている? 出会った時のこと」
返事はなかった。私の声は暗闇に消えた。彼は寝ていたが、私は構わなかった。
「記憶が曖昧なの」
返事はなかったが、私は話し続けた。
「あなたの事が好きだったし、今も好きだと思う。保証はないけど、多分これからも好きだと思う。」
相変わらず部屋はしんとしていた。微かな息だけが彼の方から聞こえた。
「私、信じることにしたの。あなたの事もそうだし、あなたを選んだ自分自身もね。結局ね、あれこれを選びとっているのは自分自身だし、誰も責任なんて取ってくれないから」
しんとしていた。時計の音さえ聞こえなかった。
「本当はこの世なんて不確かだし、何かあれば誰かのせいにしたいし、誰かに依存したいって思う。正直。でも、私は信じることにしたの。私自身を。あなたを選んだ私自身を。だからあなたは……」
何も聞こえない。私は耳を澄ます。
彼の心臓に耳を近づけると、微かに音が聴こえた。彼は生きている。少なくとも彼はこの世に生きている。それは確かだ。この世に何がいようといまいと、彼は今ここにいる。
私は明日の朝、何事も無かったかのようにあなたを送り出すだろう。朝食を作り、あなたを見送ってから皿を洗い、簡単に部屋を片付け、仕事に向かう。他人から見れば何でもない日常に見えるかもしれない。でも私にとっては、これを繰り返すことが私を救う唯一の方法なのだ。
彼の寝息が聞こえる。今は私も眠ろう。全ては明日、彼が起きてから始めることになるだろう。
心臓のない女 阿部 梅吉 @abeumekichi
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