りくのうえ

くずき

りくのうえ

 抱えた我が子の確かな重みが腕にのしかかる。小さな口は何を食べようとしているのか、パクパクと動く。

「何食べてるの」

 動き続ける口。頬を指で突っつくと、口元が緩く弧を描いた。

「かわいいね」

 かまわず、パクパク何かを食べ続けた。

 話せるようになったら、何を話すだろうか。好きな子ができたら、私に相談してくれるだろうか。けれど、男の子だから、そんな話はしてくれないのかな。何を好きになって、将来はどんな大人になるんだろう。

 こんなに小さい子が、本当に大きくなるのだろうか。

「大きくなったら、私みたいになっちゃ、駄目だよ」

 いつもパソコンに向き合って音楽を作って。わがままだと、未だに言われるような大人は、心底苦労する。

「なに言ってんの。秋菜ほどいいお母さんいないでしょ」

 顔を上げると、両手に湯気が立つマグカップを持った、由奈が微笑んでいた。

「ありがとう。ダージリン?」

「ううん。アールグレイ」

「え、それ、賞味期限切れてたかも」

 由奈はマグカップを置く動作を止めた。

「……ま、紅茶だし、大丈夫だよね」

「賞味期限ぐらい見てよ」

「逆に言うけど、ちゃんと捨てて」

 由奈は呆れたように肩を落とし、隣に腰かけた。

「だって、子育て忙しいし」

「違うでしょ。めんどくいからでしょ」

 由奈はこちらを見ると、寝ている陸の頬をさするった。陸はうっとおしいように、首を振る。

「うるさいおばさんだって」

「秋菜の方が三か月おばさんだよ」

「こまか」

 由奈は紅茶をすすって「香りがしない」と、文句を垂れる。

 手をのばして紅茶を飲んでみると、なるほど、ほぼお湯だった。

「おいしい紅茶、買ってこよ。由奈が休みの日」

「そうね」

 由奈は前のめりになった。テレビの横にかかっているカレンダーを見ているのだろう。

 カレンダーには、大きく丸してある日付。あと二週間で産休が終わる。

「ああ……明日の夕方なら、仕事帰り空いてるけど」

「じゃ、明日ね」

「陸くんは? おかあさん?」

「そう」

 ほんの少し、スーパーに行く間だけなら、母さんに頼んでも迷惑にはならないだろうし、陸が泣き出すこともないだろう。

 由奈は陸の顔を見つめる。その顔は、十年間ずっと一緒にいるが、初めて見る母親の顔だった。

「なんか、由奈までお母さんになったなあ」

「君があまりに情けないから」

「どこが」

 確かに、由奈よりは頼りない自覚はあるが、それは由奈が出来すぎているからだ。

 由奈が差し出した指を、陸はぎゅっとつかんだ。由奈はそれに顔をほころばせる。やはり、由奈は美人だった。

「そういえば、秋菜は産休終わったら、どうするの」

「どうするも何も、いつも通り。ずっと家にいるし、陸の世話はできるし。まあ、パソコン使うときとかはブルーライトが心配だから、長時間は使えなくなるけど、他に方法はあるから。それに母さんも、由奈も手伝ってくれるでしょ?」

 由奈をちらっと見ると、「まぁ、いいけど」とは言いつつ、笑顔を見せる。

「陸くんの顔を一日中見れるなら、毎日育児してもいいぐらいだもん」

「私は?」

 わざと顔を近づけると、由奈はめんどくさそうに、眉を寄せた。

「なんで秋菜が出てくるの。もう見飽きたって」

「なあんで、そういうこと言うかね、おばさんは」

「秋菜よりは若いから」

 腕の中で動く気配に、陸を見ると、また口をパクパクし始めていた。

「ええ、かわいい」

 由奈の甘えたよな声。細い指が、頬をつっついた。

 陸はまた、同じくそれに笑って、少し首を振る。

「ほっぺ、くすぐったいのかなあ」

 さっきも、頬を触ったとき笑っていた。

「なのかな? 頬っぺたすべすべでうらやましい」

「いっても、由奈もまだ現役でしょ」

 由奈の頬に触れると、どう手入れしているのか、もちもち肌だった。私など、人に会うことも少なく、手を抜いてしまっている。

 由奈は眉を寄せて困ったように微笑んだ。

「秋菜は……」

「なに?」

「一人で大丈夫?」

「急になに」

 いきなり、一人で大丈夫とはどういうことだろうか。

 由奈は首をかしげる。

「なていうか……私が、一緒に住もうか?」

「どうしたの?」

 由奈の肩を捕まえると、由奈は視線を外した。

 一緒に住むということは、子育てを手伝わなければならないだろうし、由奈の自由は減る。

 あれほど結婚したいと言っていたのに、なんの気の迷いだろうか。

「陸くんの顔見てたら、かわいくて」

「由奈?」

 下を向いてしまった由奈の顔を覗き込むと、由奈は首を緩く振った。

「ごめんね。秋菜の仕事、ただでさえ大変なのに、育児も重なって、あまりに大変そうだったから」

「私はありがたいけど、結婚したいって言ってたじゃん」

「もう、三十路も過ぎるし、いいかな」

「まだ三十路だよ」

 まだ三十路、それは由奈自身の口癖だった。

 合コン行ったり、かわいい服で出かけたり、由奈は楽しそうだった。

「ねえ、由奈。もし、私がシングルマザーだってことを気にしてるなら、それは間違いだから。私が決断して、シングルマザーになっただけ」

 妊娠したとき、“あの人”が笑ってくれなかったときから、シングルマザーになろうと決めていた。なにも、トラブルも何もなく、ただ書面にサインをしただけで、あっさり関係は切れた。何も抵抗を見せなかった“あの人”の態度に、どこか孤独を感じていたが、それを忘れてしまうほど、由奈がそばにいてくれた。

「由奈がいてくれるのは、本当に助かる。けれど、由奈が我慢する方が、嫌だよ」

 由奈はゆっくり顔を上げた。どこか、疲れたように眉が下がっている。

「我慢なんか、一つもしてない。陸くんの手伝いをさせてほしかったの」

「本当に?」

 由奈は下唇を噛んだ。

「本当だって。ほんと、無神経」

「なんでそんなこと言うの」

「なんにも、わかってないところが」

「何でも言って」

「わかんなくてもいいよ。けれど、本気だから」

 そう言ったきり、由奈は、とうとう肩を揺らし始めた。

 その頭を引き寄せて、肩に置くと、「ごめんね」と、由奈は震えた声でつぶやく。

「なんで謝るの」

 何も、答えてくれなかった。

 視線を下ろすと、こんな状況でも愛らしく寝息を立て続けている。

 結婚も、おしゃれも、何もかもいらないから、陸を命がけで守りたいと思った。“あの人”があげなかった愛情を私が何倍にもして、陸にあげたい。

「……ねえ、私が妊娠したときのこと、覚えてる?」

 話しかけると、静かに由奈の頭がうなずいた。

「あのとき、由奈が喜んでくれたの、本当に嬉しかった」

 “あの人”が嫌な顔をしたとき、周りがやけに静かになった。

 おそらく、シングルマザーになると言ったら、母さんや父さんは、私のために多くを尽くすだろう。自身の人生を投げ打ってでも、私の味方につくであろう。

 裕福な家庭でもないから、私とこの子を守るために仕事を増やしたり、私が緊急のときは、誰にどんな顔をされても仕事をわざわざ休んだり。

 幼いころからそんな両親を見ているから、はっきりとわかる。

 そう思うと、何も言えなかった。実家に、帰れなかった。

 お腹が目立つようになって、由奈と会ったとき、由奈は驚いた顔をした。それから、おめでとうと言って、泣いてくれたのだ。それから、実家に帰れない話をしてから、定期的に家に来てくれるようになってから、突然、母が訪れた。由奈は両親に私の話をしてくれていたのだ。

 あまりの衝撃な出来事に、私は何も言えなかった。

「由奈がいなかったら、私ずっと一人きりだった。だから……本当に迷惑じゃないんだったら、一緒に住もう」

 由奈の体が揺れ動き、背中に腕が回った。

 由奈の泣く声が大きくなる。

 この子の誕生を一緒に愛してくれたのは、由奈だったから。

 腕に収まる小さな我が子の重みと、肩にのしかかる重みが、いっそう、愛おしくてしかたなかった。

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りくのうえ くずき @kuzuki

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