桂女アリス

増田朋美

第一章

桂女

第一章

暖かい日だった。こんな日は、何かを始めるときにはちょうどいい日なのかもしれなかった。寒すぎず、暖かすぎず、こんな日は本当に、数日しかやって来ないのかもしれないけれど、何かを始める記念日にはいいのかもしれない。

その日、蘭と杉ちゃんが買い物に行って帰ってくると、いつも外出ばかりして出かけていることが多い、アリスが先に帰宅していた。蘭が、おいなんだお前、いつもなら帰ってこないのに、と言いながら家に入ると、アリスは、あら蘭お帰りなさいと返事をした。彼女はテーブルの上で、赤い色の総絞りの着物を広げて、大きさなどを確認したりしていた。

「あら、総絞りの着物じゃないか。しかも、京鹿の子絞りの、一級品だ。こんなもの、何処で手に入れたんだ?」

と、杉ちゃんが言う。確かにその通りだった。総絞りという、着物全体を絞りで染めた、ほかの着物よりも手間のかかる、染色方法で染めてある着物である。

「ええ、まさしくそうなのよ。産婆には必須の着物よね。あたしはこれから、この着物で仕事に行きますから。よろしくお願いします。」

アリスはあっけらかんといった。

「はあ、助産師には必須って、お前、今の助産師が着物で仕事するのは、戦前でもない限りないと思うけど?」

と、蘭が聞くと、

「ああ、そうだねえ。確かに、桂女と言われる、地域を放浪していた助産師のような女性たちの間で流行したのが絞りという説はあるよなあ。」

と、杉ちゃんが言うと、

「そうなのよ。まさしくそれよ。日本で生活しているんだから、郷に入ったら郷に従え。これで私も、日本の産婆らしくなれるかな?」

と、アリスはにこやかに笑った。

「日本人になるなら、日本国籍をとっくにとったんだから、もう其れでいいじゃないか。」

「いいえ。まだ駄目よ。日本人らしくなるには、日本らしい服装をしなくちゃ。そのためには、ちゃんと、日本の伝統的な着物というものを着こなせなくちゃだめだわ。それに、日本では身分に応じて、着物を使い分ける文化があったっていうじゃない。其れもちゃんと守らなきゃダメでしょう。」

「あのなあ、そういうことは、江戸時代までの事なんだけど。」

と、蘭は、あきれた顔をしてアリスに言った。

「そうだけど、江戸時代であろうが、いまであろうが、日本の着物は洋服とは違うってさんざん言ってたのは蘭でしょう。現に、お医者さんだって、十徳というものを着てやっているのよね。」

「まあ、そうなんだけど、今の医者はそうじゃないよ。今の医者はちゃんと、洋服を着て。」

蘭はまたそういうと、

「そうなんだけど、着物と洋服は違うわよ。影浦先生は、十徳を着て診察しているじゃないの。あたしは見たことあるから、ちゃんと分かるのよね。」

と、アリスはにこやかに笑った。確かに、桂女という職業は江戸時代にはあるのだが、今は助産師という名に変わっている。それに、着物で仕事をするなんて、どう見ても時代錯誤である。

「いや。いいんじゃないか。昔ながらのやり方で、出産を手伝ってやることだっていいと思うよ。日本の文化は最近見直されてきているしね。着物もその一つだよね。だから、その通りにやっていけばいいと思うよ。」

と杉ちゃんはにこやかに言った。

「そうでしょう。杉ちゃんよくわかってる。あたしはね、無理に西洋化しなくても、良いと思っているのよ。江戸時代の女性がしていたことだって、悪いことじゃないこともあると思うの。それが復活したっていいと思うわ。あたしは、それをやって行くつもり。」

「はあ、なるほどね。つまり桂女を復活させようということか。」

と、杉ちゃんが言うと、アリスはまさしくそれよ、といった。

「でもお前、桂女というのは決していい身分じゃないんだよ。絞りの着物が格が低いのはね、その桂女の身分が高くなかったからという説もあるんだ。お前は外国から来てるから、日本の歴史の事はあまり知らないんだろうね。日本の歴史というのは決して華やかなことばっかりじゃないんだよ。」

蘭は、水穂さんの事を思い出しながら、そういうことを言った。

「まあ、いいじゃないの。悪いところがあったとしても、あたしはいいところだけ継承すればいいと思ってるわ。日本は、良いことも悪いことも、全部消し去ろうっていうところがあるから、それはいけないと思う。」

「うん、確かにそうだ。明治以降、日本は良いところも悪いところも消し去って、いきなり西洋化しようとしている。その前にあった日本の伝統だっていいところは決してなかったわけじゃないよ。確かに桂女というのは、物乞いとか、売春とかそういう事もあったかもしれないけど、助産師の役割もしていたわけだからね。まあ、定住しないっていうのもあるけどさ。それは置いておいて、江戸時代までは、結構重要な意味もあったからな。」

杉ちゃんとアリスは、そういうことを言いあっていたが、蘭はなんでわざわざ日本の伝統にのっとって助産師の商売をしなければならないのか理解できなかった。ターゲットにする妊婦さんはインターネットなどで集めるという。その女性の家を訪れて家事を手伝ったり、話を聞いてあげたり。そういうことをしていたのが桂女だとアリスは調べてあったのであった。ただ違うのは、桂女というのは、桶を頭の上に置いて物乞いのようなこともやっていたこともあったが、アリスは定住して蘭の家に住んでいることである。

「まあ、この少子化で、子供を産む人も少なくなっているが、やってみたらいいさ。きっと、何か見つかるよ。」

蘭はそういうが、アリスは女性であれば、一度や二度は子供を産みたくなるといった。其れは、何処の国の女性でも同じことだという。それを聞いて蘭はちょっと、嫌そうな顔をするが、杉ちゃんに気にするなと言われていうのをやめておいた。

さて、その数日後。アリスは、例の絞りの着物を着て、待っている妊婦さんの家に出かけていった。インターネットにホームページを立ち上げたら、すぐにうちの家事を手伝ってくれという依頼があったのだという。御願いに来た女性は角野理恵さんという女性で、花屋に勤めているという。角野さんの家は、ごく普通の一軒家で、彼女はご主人と彼女の母と一緒に暮らしている。赤ちゃんが生まれることになって、彼女は、一寸不安になっているようであるので、ご主人と母がアリスにお願いしてきたのだった。

アリスは、こんにちは、と言って、インターフォンを押した。

「初めまして。伊能アリスと申します。」

と、彼女が言うと、がちゃんとドアが開いて、ようこそいらしてくださいましたという声がした。出たのは、理恵さんのお母さんにあたる、角野瞳さんという中年女性だった。

「こんにちは。理恵さんはどちらに。」

と、アリスが聞くと、

「ええ。今勤め先の花屋に行っています。」

と、瞳さんは直ぐに花屋をやめてもらいたいという顔をしてそういうことを言った。

「そうですか。でも勤め先を持つ妊婦さんはいっぱいいるじゃないですか。そんな顔しなくてもいいんじゃありませんか?」

と、アリスがそういうと、

「そうですね。私は、娘の事が心配で。」

と、瞳さんはそう答えるのであった。

「心配って、お母さんが娘さんの事を心配するのは当たり前だけど、度を越しても意味はないと思いますけど。」

アリスはそういった。

「度を越してなんかいませんよ。子供ができるのを望んではいましたが、あまりに突然で理恵も困っているようです。」

と、瞳さんはそういう事を言った。

「あら、じゃあ、何かおかしなことでもあるんですか。子供ができるなんて、結婚すれば当たり前のことですよ。そりゃ、多少の事はあるかもしれないけど、基本的には喜ばしいことですよね。突然なんてそんな事をいうことは、生まれてくる赤ちゃんに失礼だと思いますが?」

アリスは明るい顔をして、そういうことを言うと、

「ええ。誰でも、そうというわけではありません。うちの子はちょっと違うんです。」

と、瞳さんが小さな声でいう。

「違うって何が?」

「そうですね。ちょっと精神的に、、、。」

瞳さんが言いかけると、角野家の固定電話が鳴った。

「はい、角野でございます。はい、ああ、花屋さん。いつもお世話になっております。え?そうですか。わかりました。すぐに行きますから、お待ちください。」

と、瞳さんは、直ぐに受話器を下ろして、出かける支度を始めた。

「どうしたんですか?」

とアリスが聞くと、

「ええ。又同じことをしでかして、病院に運ばれたみたいなんです。前も同じことがあったんですけど。」

と、瞳さんは、恥ずかしそうに言う。アリスは、直ぐに分かった。

「つまり働きすぎたということですか。」

「ええ。まあそういうことです。まったくあの子ったら。何を考えているんだろう。もうすぐ母親になるっていうのに。なんでそういうことを忘れて、花屋の仕事に懸命になりすぎているのよねえ。」

瞳さんは急いで靴を履いた。

「じゃあ、私も一緒に行きます。」

アリスは、彼女と一緒に、病院に行くことにした。二人は瞳さんの運転する車で、病院に向った。病院に行くと、看護師が二人を迎えてくれた。

「どうもすみません。娘が、又同じことをしでかすなんて。」

「ええ、大丈夫ですよ。今回は、花屋の方が、早く気が付いてくれたので、本格的な流産には至らず済みました。もうすぐ、産み月も近いですから、今度こそ、安静にしてくださいね。」

そういう看護師に、アリスは理恵さんという女性がそうなりやすいタイプなんだということを知った。

働きすぎて、流産しそうになってしまうほど、猪突猛進に働いてしまうのだろう。

二人は、彼女が入院している病室へ案内された。看護師は、もう話をしてもいいからと言って、二人を

、病室の中に入れた。理恵さんは横になっていたが、瞳さんはつかつかとベッド脇に歩いていった。そして、理恵さんの右ほほをピシャンとたたいた。

「な、なにをするんですか!」

とアリスが言うと、

「いい加減にしなさい。もうお母さんになるってことを忘れてはだめよ!」

瞳さんは、激して言った。

「ちょっと待ってください。確かに注意することはわかりますけど、娘さんだって、仕事していたわけですし、たたくということはないんじゃありませんか?」

アリスがそういうと、

「こうしなければ、この子はわからないと思ったものですから。」

と、瞳さんは小さく言った。

「ごめんなさい、、、。」

理恵さんはさらに小さくなる。

「花屋さんには、なんて言ってあるんですか。産休とるとか、そういうことですか?」

アリスが聞くと、

「ええ。花屋さんには、臨月に入ってから、休むと言ってあります。それまでは、働かせてもらいたいと。」

と、理恵さんは答えた。

「そうですか。もっと早くならない?」

と、アリスが聞くと、

「本当は、そうさせたいと私も思っているんです。でもこの子ときたら、どうしても働きたいって其ればっかり言うものですから。仕事を続けなくちゃいけないと思い込んでいるみたいで。」

と瞳さんが答えた。

「ご主人はなんて?」

「ええ。卓也さんには申し訳なくて。会社員として一生懸命働いてくれているんですけど。其れで十分だと言っているのに、この子ったら、まだまだ働くと言うばかりで。」

アリスはどうもおかしいなと思った。お母さんの言う通りなら、収入の面では申し分ないはずである。生活がままならないとか、そういうことではないのなら、無理して花屋さんで働かなくてもいいと思うのである。それは、お母さんの瞳さんもわかっているようなのだ。其れなのにどうして理恵さんは、流産しそうになってまで働こうと思うのだろうか。

「確かに、ご主人には申し訳ないという気持ちもわかります。ご主人だって赤ちゃんに会うのは楽しみでしょうし。其れで働きすぎるというのは、一寸おかしいですね。」

アリスは、瞳さんに言った。

「ほら、産婆さんだってそういっているんだから、もう花屋さんでも迷惑をかけないように、仕事は休みなさい。これ以上不祥事を繰り返していたら、生まれてくる赤ちゃんの事だって、大変なことになるかもしれないのよ。」

瞳さんが、お母さんらしく娘の理恵さんにそういい続けるのをアリスは、困った人が居るものだという顔をして眺めていた。確かに、瞳さんの言う通りなのかもしれなかった。今できることは、赤ちゃんに会うための事を、最大限にやるべきなのであるが、理恵さんのしていることは、それに反しようということになっている。

たったったという音がして、若い男性が飛び込んできた。彼こそ、理恵さんのご主人である、角野卓也さんである。

「だ、大丈夫なんですか!」

「落ち着いてください。赤ちゃんは大丈夫だそうです。後は、産み月が来るまで、もう少しの辛抱ですから。」

動転している卓也さんにアリスは急いで彼を止めた。

「あ、ああ。申し訳ありません。」

卓也さんは、会社員らしく、会社の制服に身を包んでいたが、気が動転していたことは間違いないらしく、制服のボタンが外れていた。

「問題は、理恵さんの方です。ご主人もよく言い聞かせてもらえますか。もう流産しかけたのは何回目なのか、ちゃんと勘定してみてください。まったく、お母さんになるんだという自覚が足りなさすぎますよ。こないだだって、言ったじゃありませんか。もう一人の体じゃないんです。それができないのなら、仕事を辞める。其れだって一つの節目になるんです。」

看護師が思わずそういうことを言うとなると、理恵さんは何回も流産しかけているのだなというのが、確定した。

「このままだと、生まれてくる赤ちゃんにも悪い影響を与えかねません。もう少し、お母さんになるんだということを自覚してください。」

「医療関係者の方はそういうことを言いますね。でも、私は働かなければ幸せにはなれないんですよ。」

理恵さんは思わず小さい声でつぶやくと、

「いいえ、あたしだって、ちゃんと言い聞かせたつもりなんですけど。この子ったら、いつまでもその通りにしないんです。」

瞳さんがそういった。

「なんでしょうか。何かずっと働かなければならない理由でもあるんですか?もし、子供さんが生まれたら、お母さんになって、自分の事は全部捨てなきゃならないことだって沢山あるんですよ。そういうことは、当たり前の事として、やらなきゃいけないことだって、たくさんありますよ!」

アリスは、一寸困った顔をして、理恵さんを見た。ご主人の卓也さんが、本当に申し訳ないという顔をしてアリスを見た。

「じゃあ、これから、検査をしますから、理恵さんこちらに来てもらえますか。お母さまにも聞きたいことが在りますので、残っていただきます。」

と、別の看護師が彼女の部屋に入ってきた。こういうことは女性でなければできないことなのかもしれないと思った卓也さんは、

「僕はどうしたらいいのでしょうか。」

と聞くと、看護師たちは、とにかく邪魔しないようにとだけ言った。アリスは、じゃあ私と一緒に庭へ出ましょうと言って、卓也さんと一緒に、病院の庭へ出た。

「本当に申し訳ありません。理恵には、何回も仕事を辞めるようにといったんですけど。なんでわかってくれないのかなあ。僕も正直わからないんですよ。彼女がなんで、あんなに仕事にこだわっているのでしょうか。」

卓也さんはアリスと一緒に、庭のベンチに座った。

「まあ、そうですね。日本の女性は、どうしても、育児で仕事をやめなければならないということはありますけど、それは私は、良いことだと思っているんです。そりゃね、私が若いころは、欧米に住んでいましたから、誰でも働くのは当たり前だったんですけど、でも、その分子供と密着して過ごすことはできなくなりますし。其れだったら、仕事をやめて子供さんと一生懸命過ごすということをやった方が良いわ。私の個人的な考えだけど。」

アリスは、卓也さんを励ますように言った。

「ええ、確かにそうなんですが、彼女はどうしても働かなければだめだと言っているんですよ。其れで、病院のお医者さんからは、子供をつくることを勧められたんです。そうすればもっと、彼女は精神状態が落ち着くのではないかって。仕事熱心ではあるんですけど、一寸情緒が不安定でしてね。其れで、母親として自覚を持ってくれれば、安定するのではないかって。」

「そうでしたか、、、。」

卓也さんの話に、アリスはそう応じる。

「其れなのに、何回も流産しかけて、一体何をやらかしているんだか。生まれた赤ちゃんが、どんな目に会うか、予測がつきませよ。これでは。どうしたら、赤ちゃんを大事に思ってくれるんだろう。」

「まあ、人間ですからね。なかなか変わろうと思っても、変われないと思いますよ。でも、赤ちゃんが生まれたらまた、変わって来ると思います。今は、何回も流産を繰り返すような女性でも、生まれたらきっと変わってくれますよ。それを信じて待つのも、ご主人の務めなんじゃないかな。」

アリスは、にこやかに笑って、そういうことを言った。

「そうですね。働かないと何もできないと言っていたあの彼女が、子供ができたことをきっかけに変わってくれるでしょうか。何だか、心配で仕方ありません。僕ができることも何もないし、彼女はどうしてくれるか、困ったものですよ。」

「ええ。同じ女性ですもの。彼女の事を信じて、待ちましょう。それが一番だと思います。彼女を責めたり、詰問したりはせず、彼女が変わってくれるのを待つのも必要だと思います。女性は、女性ですもの。きっと、何かあれば変わることはできますよ。」

アリスは、にこやかに笑って、そういうことを言った。

「理恵さんは、きっと、変わってくれますよ。彼女はゆっくりだけど、変わり始めてくれると思います。」

卓也さんは不安そうな顔をした。アリスは、その肩をポンとたたいた。



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