ショートショート
ち花や
夢遊病
街角の小さな雑居ビル。その三階に、依頼といえば猫探しか浮気調査ばかりの、さびれた探偵事務所があった。事務所の窓際のソファーでは、一人の探偵がたばこを片手に新聞を読んでいる。
しばらくして、コンコン、と入り口のドアが叩かれた。数日ぶりのその音に、探偵はシャツの襟を正しながら、どうぞと呼びかける。
「あの、こちらは探偵事務所で合っていますか。」
入ってきたのは、三十代半ばくらいの、少し頭頂部の寂しい男性だった。
「えぇ、合っていますとも。ささ、どうぞお座りになってください。」
男はどこか落ち着きなく、そわそわした様子でソファーに腰かけた。
「今日はどうされましたか。猫が迷子に?それとも浮気調査?どちらもうちは得意ですよ。」
「いえ、違います。」
男ははっきりと否定した。その並々ならぬ表情に、探偵は少し改まった。
「ごほん、これは失礼しました。それでは、今日はどういったご用件で?」
「実は…、妻を調べていただきたいのです。」
「なんだ、やはり浮気調査ではないですか。」
あきれた様子の探偵に、男はまた、違うのです!と強い口調で否定した。
「では、奥さんの何を調べろというのです。」
男は事のあらましを話し始めた。二か月ほど前から、妻が夜な夜な出かけるようになったという。深夜の零時ごろになると、寝室を抜け出し外出着に着替えて出ていくというわけだった。
「はぁ、それこそ、男のもとに行っているのではないのですか。」
「それが、一時間足らずで帰ってくるのです。早ければ四十分くらいで。
「なるほど。それで、ご主人はあとをつけたりなさらなかったのですか。」
「もちろん、そうしました。でも私と妻とでは体力差がありすぎて、すぐに見失ってしまいましたよ。」
男は興奮気味に続けた。
「そうしたもんで、帰ってくるのを待ち伏せて問いただしたこともあったのですが、妻は出かけたことすら覚えてないと言う始末です。」
「それでは夢遊病ではないですか。ここへ来るより、一度病院へ連れて行ったほうがよろしい。」
探偵は、いいところを紹介します、と名刺を探し始めたが、男が手でそれを制止した。
「ごもっともな意見です。しかし、抜け出した先で何をしているのかがわからないうちは、お医者様にもなんと言ったらいいかわからない。何より、私が気になるのです。探偵さんの言ったように本当に浮気しているのかもしれないし、記憶にないというのも嘘かもわからない。疑心暗鬼で、これでは夜も眠れませんよ!」
一通り話し終えた男は、汗ばんだ額をハンカチで拭った。
「たしかに。そこまでおっしゃるなら、依頼をお受けしましょう。早速ですが、奥さんの顔がわかるものはお持ちですか。」
「あぁ、本当に助かります。これが一番最近の妻の写真です。」
そういって男の見せたスマホの画面には、スタイルの良い女性がジムでトレーニングをしている姿があった。
「お綺麗な奥さんですね。ずいぶんとお若いんじゃあないですか。」
「いえいえ、こうみえて私と同い年なんですよ。妻は最近ダイエットに熱心でしてね、三ヶ月の運動と食事制限で、十五キロもやせたんですよ。」
なるほど。どおりで、成人男性の尾行を振り払えるほどの体力があるわけだ、と探偵は納得した。
そうして男は依頼書に判を押し、前金を支払った。
「たしかにお受けしました。それでは調査報告書ができましたらまたご連絡します。」
「ぜひともよろしくお願いします。」
一週間後。探偵から電話があり、男は再び事務所を訪ねた。
「探偵さん、妻の行動がわかったんですね。」
男は気が急いた様子で、探偵に迫る。
「まぁそう焦らずに。落ち着いて聞いてください。これから報告しますので。」
探偵はこの一週間、一晩中男の家を見張り、目の当たりにしたことを話し始めた。
一日目から五日目までは何も起こらなかったが、六日目の深夜零時三十二分、ランニングウェア姿の妻が家を出たのを確認した。それから数分妻は駆け足で河川敷沿いを走り、街の大通りに出た。そして通りに面したモーテル…、の隣にある深夜営業のラーメン屋に入っていった。
「ラ、ラーメン屋、ですか?」
意外な到達点に男は目を丸くした。
「えぇ、奥さんは夜な夜なラーメン屋に通っていたようです。この日奥さんは背あぶらのたっぷり乗ったチャーシュー麺を注文し、食事をすませた後、徒歩で自宅まで帰っていきました。時間にして四十五分ほどの出来事です。」
探偵は証拠の写真数枚を机に広げた。運動着姿の女性がラーメンをすする姿が映し出されている。
「…確かに、これはまぎれもなくうちの妻です。昔からラーメンは妻の好物でしたが、ダイエットをし始めてからはまったく口にしていませんでした。…まぁ、厳しいダイエットに息抜きはつきものです。こっそりとラーメンを食べるのも頷けます。ですが、どうして妻は記憶にないなんて嘘をついたんでしょう。」
男は心底不思議がった様子で聞いた。
「それがどうやら、覚えていないというのも本当のようです。おそらく、短期間の無理な糖質制限のせいで、体が低糖質状態になっているんでしょう。低糖質の体に突然糖質の高いものを摂取すると、血圧が急激に上がり記憶が混濁してしまう、と聞いたことがあります。」
にわかには信じがたい話だが、男は神妙な面持ちで黙って聞いている。探偵は更に続けた。
「行きは足取りもしっかりとしていて、意識もはっきりしているようです。ですが、帰路になると足元もおぼつかない。夜道を歩くうちに血圧は徐々に下がり、家に着くころには意識を取り戻しますが、自分が今まで何をしていたかは思い出せない。といった感じでしょうか。これが夢遊病と言えるのかはわかりませんが、なんにせよ健康にはよくありません。早いうちに医者に診せたほうがいいでしょう。」
男は合点のいった様子で、うんうんと頷く。
「おっしゃる通りです。このままでは妻の体がもたない。今日にでも、この写真を見せて病院へ連れていきます。本当になんとお礼を言ったらいいか。何よりも、胸のつかえが取れました。」
男は探偵に、残りの依頼料より少しばかり多めに金額を支払って、事務所を後にした。
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