見ないふり、見えないふり

 志緒たちが越した先は、義孝の実家と変わらない田んぼの多い場所である。義孝の実家から30分ほど離れた、少し海が近い場所の二階建て中古住宅に越して、志緒の表情は日に日に明るくなっていった。



 志緒の霊感について、義孝はポジティブな意味で興味を持っている。交際していた時から霊感があることはよく聞いていたし、心霊番組を一緒に観れば霊が本物かどうかを聞いてくることも多々ある。

 自分にないものを手にしている人間を魅力的だととらえる義孝の能力は、ある種の才能だと志緒は思った。


 霊感があってよかったと思ったことは、数回しかない。その数回も、事故を免れたときと、死んでしまった愛犬が子犬を連れてお盆に家の中を駆けまわっている姿を見たときくらいである。先祖と仲良く話すこともなければ、かわいらしい妖精みたいなものをみることもない。おそらく守護霊なのだろう誰かが、買い物に出たときに買い忘れをたまに教えてくれるのは便利だなと思う。


 それが今回、我が子が天使になったことで、霊感がかなり役に立っている。

 義孝は、霊が見えない。紗枝も見えない。感じることもない。世羽の存在を二人に伝える役目を、志緒は担っていた。


 志緒は、紗枝や義孝に世羽の姿の特徴を、できるだけわかりやすく説明することから始めた。

 紗枝は自他共に認めざるを得ないくらい、志緒と瓜二つの顔に成長した。生まれた瞬間は義孝に似ていたが、生後3か月を過ぎた時点で志緒とほとんど同じ顔に変化。くっきりした二重瞼以外は、志緒の顔をギュッと小さくした感じである。

 世羽は紗枝ほど志緒に似ていない。志緒の要素もなくはないが、義孝の要素が強く、義孝の妹が小さかった頃の顔によく似ている。そう言ったら、義孝が「あー、あんな感じか」と目の裏に自分なりの世羽の姿を見たようだった。紗枝には、義孝の妹が水着姿で浜辺に立っている写真を見せて、「世羽はこんな感じのお顔だよ」と教えた。

 それから、世羽が言っていることを志緒が声に出して伝えることも同時に始めた。

「パパ、自分でやんなよ。自分が使う醤油くらい取りに行ったら? 」「自分のことくらい自分でやったらいいじゃん」って言ってるよと、言付かったことを伝えるときは最後につける。

 要所で出る世羽の毒のある事実に、義孝は怒ることもなく苦笑するばかりだった。


 どこかに出かけるときにと、義孝が世羽にピンク色の柔らかい生地の帽子を買ってあげると、世羽はその時ばかりは子どもらしく嬉しそうに笑ってとても喜んだ。

「パパありがとうって言ってる」

「喜んでくれてよかった」

顔の見えない世羽に対しても、義孝が愛情をかけてくれることが、志緒はとてもうれしかった。


 世羽が家族としてなじむまでに時間はかからず、毎日ちょっとした会話の中で世羽についても家族内で話に出てくる。紗枝が2歳になって引っ越しをして、いろいろなことがわかるようになってきた頃、世羽はどこにいるのか聞いてくることが増えた。

「ようちゃんは?」「一緒にいる?」「これようちゃんにあげる」

紗枝の中にも、見えない妹の存在がある。志緒はそう実感しながら、新しい生活に徐々になじんでいった。


 そんな紗枝のことを世羽は「姉ちゃん」と呼び、姿は志緒にしか見えずとも二人が並んで座り、紗枝の持つおもちゃを世羽がほんのり優しく微笑んでのぞき込むような場面が日常の中に溶け込んでいった。

 2歳になったばかりの紗枝は、生まれたときの小ささが嘘のように背の高い女の子に成長。隣に座る世羽は紗枝よりもほんの僅か小さい背丈で、ちゃんと姉妹だとわかる形で志緒の脳の裏側を通して目に映っている。


 写真を撮っても、映らない。

 遺骨もない。

 エコーさえ残さなかった世羽。

 だけどこうして、紗枝の隣にいる。体はなくても、世羽はこの家の家族だと、志緒は二人の我が子の背中を見るたび心の片隅で涙を落としながら思う。



 志緒は結局再就職はせず、紗枝が幼稚園に入園するまでの期間、きっちり育てることに決めた。紗枝との時間を大切にしたいという思いも強かったが、田舎だからか保育園の空きがないことも重なった。

 紗枝といる家には、世羽もいる。なかなか思うようにいかない育児に一人きりで取り組んできたが、今は世羽がいるということも志緒には心の支えになった。

 紗枝の離乳食が進まなくても、トイレトレーニングがうまくいかなくても、世羽が「そのうち前進するよ」と一言言ってくれるだけで、志緒の心は少し晴れる。ほかの家庭では旦那さんがしているような声掛けなのかもしれないが、義孝からはそういった声掛けはほとんどなく、できないことについて一緒に考えるといったアプローチもない。

 子どもがかわいい。家に帰ると何もしなくていい。

 それだけが志緒には十分すぎるほど伝わる。何か言ってもなんとなく相談に乗っているようなそぶりだけで、義孝に何か相談しても解決策を提案してくるとは到底思えなかった。


 だからこそ、世羽の存在は志緒には大きな支えとなった。手術でしか出会えなかった天使ではあるが、最初から大人の事情みたいなものを理解している世羽の存在は、志緒の心の中の育児に対する孤独を和らげてくれる。



 越してきて、初めての年始。

 正月休みの義孝が、そそくさと外出する準備を始めた。

「どこか行くの? 」

外出する話は事前に伝えるタイプの義孝が、いきなり出かける支度をし始めて、志緒は驚いた。初詣は人が少なくなってからといっていたから、買い物かな。と、なんとなくの検討をつけてみる。

「うん。ばあばんとこに、新年のあいさつに」

悪びれる様子もなく、義孝は言った。ばあばとは自分の母親のことなのは、志緒も重々承知している。

「…そう。いってらっしゃい」

志緒から帰ってきた言葉に最初義孝は驚いた様子を見せたが、その理由を聞いてくるほどアホでもない。やっぱり行かないよね、といったシュンとした顔で、こちらを見てくる。行くわけないだろ。と心の中で、志緒は悪態をついた。

「紗枝もつけていくから、車貸して」

チャイルドシートは、志緒の車にしかない。義孝に言われるがまま、志緒は自分の車のカギを無表情で手渡した。

「世羽も一緒に行くか」

手術をしたのは、6月の後半。今は年明けの1月。半年しかたっていないのに、もう忘れたのかと、志緒は心の中で義孝と思い切り距離を取った。


「行くわけないじゃん。ひとりで行ったら? 」


志緒の口が勝手に動き、声を出していた。え? という空気になり、義孝は洗濯物をたたむ志緒に視線を向けると、見たこともないほど驚いた顔で目を丸くする志緒がいる。

「志緒……? 」

「私、自分の意思で口動かしてないんだけど……」

一昔前のテレビ番組でたまに見ていた、降霊術のようなものだったのかもしれない。トゲのある言葉だったが、険悪な雰囲気にはならなかった。大人二人はきょとんとしている中、紗枝の声が廊下から響いてきた。

「ママー、うんこ出た! 」

こんな時に、初めてトイレで排便を成功させる紗枝の能力には感服する。

「あ、はーい! やったね、初めてできた! 」

たたんでいる途中の洗濯物を置き、志緒は紗枝の待つトイレまで走っていった。


 取り残された義孝の心に、先ほどの言葉が突き刺さる。見ないように触れないようにと細心の注意を払っていたことは、向き合わなければいけない事実だった。わかっていたのに、それさえ見ないふりをした。

 自分の親が、嫁を追い込んだ。でもその事実の中には、双方の受け取り方の違いがふんだんに含まれているだろうと思いたかったし、そう信じたかった。志緒の話を聞いたときも、志緒の被害妄想も入っているだろうと、話を半分くらいしか聞かなかった。ただ、このままの生活を続ければ志緒が死ぬか、見放されてしまうと思って、中古住宅を買った。これで全部丸く収まって、時間が経てば志緒も母に対する思いを変えてくれるだろうと、楽観的に捉えていた。

 違うのだ。そんなたやすい問題ではないと、世羽が言ったように思えたのはきっと、自分の考え方が正しくないと思う自分もいたからだろう。

 世羽は義孝の楽観的で幼稚な考えを、志緒の口を通してバッサリと切り捨てたのだ。


 トイレから出てきた志緒と紗枝は、とても嬉しそうな顔をしている。その現場を、自分はただ見ているだけ。嬉しさを共有することができない。

 わかっていた。汚いこと、面倒なこと、時間がかかることはすべて、志緒に任せてきたのだ。子どものおむつ交換時も便は交換せず、忙しく家事をする志緒を呼び寄せておむつを交換させた。「自分の子どもなんだから、これくらいやってよ」と小言を言われたが、笑って聞き流した。その場さえ収まれば、それでよかった。

 はじめての離乳食作りに時間がかかっていたのは、休日の様子を見て知っていた。でも料理なんてしたことないからと言い訳をして、結局配膳すらやらなかった。

 トイレトレーニングも買い物も服の着替えも、時間がかかることは一人ではやっていない。全部志緒と半分ずつ分け合って、こんなの簡単じゃんと心のどこかで思っていた。

 志緒に頼めばなんでもやってくれたし、大変なことは半分ずつだったから、楽だったのだ。


 志緒が入院している間、有休をとって紗枝の面倒を見た。たった5日間。1日、いや半日たりとも、紗枝を一人で面倒見ていない。何ならほとんど母親に紗枝の面倒を任せて、自分は息抜きと言ってはタバコを吸って時間をつぶした。

 食事の用意も買い物も、すべて母親任せ。手のかかる部分は、結局何もしなかった。


 その結果が、今である。

 親子の喜びを分かち合う二人の中に入れいない。当たり前だ。何も手伝っていないのだから。それどころか、子どもにとっては母親でもある志緒の気持ちを考えず、のんきに志緒も実家に行くだろうと決めこんでいた。

 そして、天使になった娘から言われた言葉で、ようやく今までの自分の所業に気が付いた。


 なんてありさまなんだろうかと、義孝は今までの自分に絶望した。


「志緒、世羽はなんて言ってる? 」

紗枝の着替えをさせる志緒の背中に、義孝は問いかけた。

「行かないって言ってる」

志緒の言葉には、感情がなかった。

「そうか」

残念という気持ちよりも、当たり前だという気持ちの方が強かった。


「すぐに帰るから。帰ったら、お寿司を食べに行こう」


今まで義実家に行くとき、すぐに帰るなんて義孝は言ったことはなかった。のんびり時間をつぶして、紗枝に与えていいかもわからないような味の濃いせんべいなりなんなりたらふく食べさせてくるだろうとしか思っていなかった。

 お寿司は志緒の好きなものではなく、義孝の好物。でも、食事に行って何かしらの誠意を見せたいという気持ちが伝わってきたのが初めてだったので、義孝の小さな成長に対して志緒は文句を飲み込んで「わかった」とだけ伝え、受け入れる意思を示した。


 義孝が紗枝を連れて義実家に行った後、志緒と世羽はぼんやりテレビを見て過ごした。紗枝がいないと、家の中がとても静かで広く感じる。

「行かせて良かったの? 」

テレビ画面を見たまま、世羽が志緒に声をかけた。

「いいよ、行っても。紗枝にとってはじいちゃんばあちゃんだし、義孝くんにとっては親だから」

志緒は少し寂しげに笑い、世羽を心で抱きしめる。

「ママって、優しいんだかお人よしなんだか、よくわかんないね」

「そのくらいがちょうどいいんだよ。子どもを育てるのも、夫婦としてやっていくのも。ある程度のところで線を引いてしまった方が、気持ちが楽だから。ダメだね、私って」

「そんなことない。ママはよく頑張ってる」

世羽の言葉が、傷だらけになってしいまった志緒の心にじんわりとしみこんでいく。


「ありがとね」


嬉しいのか、寂しかったのか、何なのかわからない感情の温かい涙が、志緒の目じりからほろほろとこぼれ落ちた。

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