天使を見送った日

みほし ゆうせい

天使になった二人目の我が子

 わかっていた。自分の体がおかしいことくらい。でも、自分の体を気遣う余裕なんてなかった。

 はじめての育児。旦那親との同居。なじみのない土地。遠い実家。

 孤独を極めるこの場所で、山内志緒やまうちしおは日々奮闘し、そして倒れた。誰が悪いのか。多分、誰も悪くない。

 悪くないと、自分に言い聞かせることしか、できない。卵管と共に失った、二人目の我が子。抱くことさえできなかった彼女に、小さく「ごめんね」としか言ってあげられなかった。涙が出ない。下腹部に大きく横に入った手術痕と、それに伴う痛み。

 事実だけが突き付けられている。それさえ飲み込めないほど、志緒の心と体は消耗していた。




 志緒は地元の四年制大学を卒業後、地元ではそれなりに大きな会社に就職した。全国に支店がある会社だったが、志緒が入ったのは事務。転勤の心配はないはずだった。

 仕事をしてすぐに出会った営業部の山内義孝やまうちよしたかは、周囲からの人気が高い、いわゆる好青年で実績もある。義孝が偶然事務所に寄ったことが、彼らの出会いのきっかけだった。

 どこにでもある出会いを経て徐々に二人の距離が自然と縮まり、数回食事をして義孝から交際を申し出た。志緒は彼の人柄に惹かれていたため、快く交際を受け入れた。


 交際は順調だったが、志緒の両親は義孝との交際にすぐに反対した。

 まず月収。1000万円以下の男性と、志緒を結婚させる気がないらしい。次に、学歴。義孝は、高卒でこの会社に勤めている。大卒ではないから、結婚には賛成できなという。そして、年齢。義孝は、30歳で志緒と8歳離れている。昨今流行りの年の差婚だと両親はこれ見よがしに言い放ち、志緒の幼馴染の奏多が担任だった教師と結婚したときのことまで引っ張り出して文句を言い始めた。

「奏多ちゃんはいい子だけど、結婚相手を間違えた」

「若い先生と結婚しても、苦労ばかりするに決まっている」

両親が心配する気持ちは何となくわかっていたけれど、大切な幼馴染の奏多のことを悪く言い始めた頃から、両親に対しての不信感が強くなっていくばかりだった。


 交際1年半で、義孝の転勤が決まった。話を聞けば、義孝の地元に転勤になるらしい。

「だから、志緒にも一緒に来てほしい」

義孝からのそれは一直線な思いが乗った、志緒にとっては心に刺さるプロポーズだった。


 両親からの反対は収まらず、家族会議を通り越して親戚から咎められる事態に発展。しかし、志緒の意志は固く、親戚一同を敵に回す形で家を出て義孝と結婚した。

 もちろん挙式は挙げていない。引っ越しだのなんだので忙しかったし、非難ばかりされているから挙式をする気にもなれなかった。


 知り合いがいない、遠い場所。新幹線を乗り継がなければ、故郷には帰れない。もちろん知り合いは一人もいないし、スーパーも病院もどこにあるのか知らない。

 それでいいと、志緒は思った。

 もしも地元で結婚すれば、嫌でも知り合いと合ってしまう。そうすると、自分の居場所や様子などの情報が、流れ流れて両親の耳に入ってしまうから。知らない人しかいない場所は、志緒にとっては願ったりかなったりの場所だった。


 家を出て一旦義孝のアパートに転がり込み、すぐに一緒に引っ越しをて籍を入れた。

「将来のことを考えて貯金を作りたい。しばらく俺の実家で暮らそうと思う」

義孝からの提案に、志緒はすぐに頷いた。

 彼と一緒にいられるなら、なんだっていい。今まで恋愛に疎かった分、志緒が義孝を慕う気持ちは深く、そしていろいろなことに盲目になっていた。


 彼の言葉を鵜呑みにして始まった、義孝の両親との同居。彼の両親は志緒の親よりも10歳ほど年上で、とても朗らかだという第一印象だった。志緒が育った場所は周囲に家が立ち並んでいる静かな場所だったが、越してきたここは周囲に家が少なく、有り余る土地のすべてが田んぼとして活用されているような田舎。

 徒歩圏内にお店らしいお店も、病院もなく、バスに至っては半日に1本しか来ない。車の免許を持っているから特に不自由だとは思わなかったが、テレビで観たような田舎に嫁ぐなんて思っていなかった。でも義孝がいれば、それでいい。


 沸き上がった小さな不安の全てにすぐにフタをして、志緒は義孝の実家で生活し始めた。


 引っ越しと結婚を機に、志緒は一旦退職。落ち着いて再就職しようと、義孝と話をつけていた。

 だが、落ち着く間もなく引っ越してすぐに妊娠。つわりで寝込む日が多く、家事が全くできない日が長く続いた。一般的には12週前後を過ぎればつわりが落ち着き始めるといわれているが、志緒のつわりは長く続き、ようやく落ち着いたと思えば妊娠8カ月。ベビー用品を急いで買い揃え、できる限りの家事をして過ごしていたら、あっという間に臨月。つわりは長かったが、お産は初産では安産な5時間で終えられた。


 子どもは女の子で、少し小さめに生まれた。名前は紗枝さえ。小さく生まれて心配したが、一緒に退院できた。

 お産は想像以上に体にダメージが残った状態で帰宅となったが、帰宅後は普段通りの家事をこなした。「休んでいいのに」と義母は言ったが、そうもいっていられない。しっかりやらなければと、志緒は奮闘した。


 慣れない育児。

 病院すらわからない場所。

 旦那の親との同居。

 頼れる人は、誰もいない。


 志緒の気力と体力は知らず知らずのうちにそぎ落とされ、産前よりも痩せ、片付いていた義孝と志緒の部屋は次第に荒れ始めた頃。


「え?」


 志緒の体が、ついに悲鳴を上げ始めた。

 不正出血が起こり始め、2週間ごとに生理が来る。きっちり2週間間隔があくからと、志緒は出血を軽視した。というよりも、この頃は紗枝の離乳食が思うように軌道に乗らず、焦っていた。出血なんて気にならなかったのだ。


 不正出血が始まって3カ月。

 日を追うごとに、志緒の体はおかしくなっていった。どんな体制で寝ていても、全身が痛い。歩くだけで息が上がって、目の前がチカチカする。鏡を見ると、どう見ても顔面蒼白。

 でも、誰も声をかけてこないから大丈夫。

 そう鏡に映る自分に言い聞かせ、ようやく動く程度にしか動かない体を無理やり動かして、志緒は夕食に肉じゃがを作った。味付けこそ安定していたが、根菜には芯が残っており、夕食を食べる気力もなく横になっていたら義孝から野菜が煮えていなかったことを聞いた。

 志緒は横になった体を無理やり起こし、ニコリと笑顔を見せて「ごめんね」と義孝に謝った。


 全身の痛みで、ろくに寝られない。でも育児は休めない。義孝に連れられて、内科を受診した。体調不良を感じ始めて、ずっと通っている内科。何度も血液検査をしたけれど、異常がない。その日は、悪性新生物の血液検査の結果が出た日だった。

「異常はありません」

いつもと同じ、主治医の言葉。志緒は「やっぱりか」と思いながらも、どこか安心した。

 ちょっと疲れているだけ。寝れば治るんだ。

 そんな風に自分に言い聞かせて、キッズスペースで義孝と遊ぶ紗枝のもとに歩き、床に腰を下ろした。


 そのまま、しばらく立ち上がれなくなった。


 目の前が暗くなる。2本の脚だけじゃ、バランスが取れない。四つん這いになってようやく体のバランスが取れる。

 その様子を見て、義孝はようやく目が覚めた。

 志緒がおかしい。

 内科の主治医に頼み込んで、大きな病院の紹介状をもらい、志緒と紗枝を車に乗せて義孝は市民病院に車を走らせた。

 かかりつけの内科から連絡があったようで、市民病院の受付で名前を言っただけですんなり内科に通された。触診ですぐに異常が見つかり、そのまま産婦人科へ。

 腹部エコーやレントゲンを撮って、診察室に戻ると、主治医となる女医からプリントを一枚手渡された。

「奥様は子宮外妊娠で、卵管から出血している可能性が高いです。このまま緊急手術になりますので、そこにサインを。奥さんは歩かないでください。もういつ大量出血するかわからない状態で、非常に危険です」

あれよあれよと志緒は車いすに乗せられ、気が付いた時には手術室の診察台の上に寝転んでいた。

「眠くなりますよ」

麻酔科医の女医の声を聴いてすぐ、志緒は眠りについた。


 目が覚めたら、すべてが終わっていた。

 全身に駆け巡る痛みはなくなり、その代わりに下腹部に今までに経験したことがないキリキリとした痛みを感じる。尿道に入ったカテーテルが気持ち悪く、今にもおしっこが出そうな感覚が目覚めと共に現れた。

 個室のベッドの左側には、義孝と紗枝、義両親と義孝の妹がこちらをのぞき込んでいる。

「志緒」

義孝は血の気が引いたままの顔を引きつらせて、小さな声で志緒の名を呼ぶ。志緒は義孝に視線を向けることしかできず、両腕に刺さった点滴針とそこから上に走るチューブの先に吊り下がった大量の点滴バッグを眺めて、紗枝に視線を移した。

「ママ」

ようやくしゃべれるようになった娘。かわいい我が子。左手に添えられた小さな両手を、志緒はようやく感じ取った。声を出す元気はないけれど、紗枝を見ると心が落ち着いた。


「はい。じゃあママにバイバイして」


紗枝の手を義母が引きはがして、にこやかに吐き捨てる。

 そうだ、この人はやっぱりこういう人だったんだ。志緒は見て見ぬふりをしてきた事実と、ようやく向き合った瞬間だった。

 その義母の手を振りほどき、紗枝は「また明日ね」と言って、義孝の手を握った。

 紗枝1歳10カ月。志緒26歳。

 1年10カ月、一人ですべてを抱えてきた育児と不満は、次女の子宮外妊娠と共に浮き彫りになったのだった。



 どうして子宮外妊娠の我が子が、女児だったと志緒にわかったのか。母親だからという理由だけではない。

 志緒には、それなりに強い霊感がある。

 手術台の上で一度起こされたとき、「手術、終わりましたよ」という女医の声とは別に、小さな女の子が志緒の脳の裏側から話しかけてきた。


「ママ、ごめんね。ここまでひどくなるとは思ってなかった。卵管みちが狭くて、つっかかっちゃった。ごめんね」


 そこの声に対して、この時の志緒は頷くことしかできなかった。


 退院前の最後の診察で、主治医から説明があった。

「山内さんの子宮外妊娠ですが、原因は細菌によるものではありませんでした。卵管が狭まっていて、たまごが詰まってしまったようです。妊娠3カ月くらいになっていました。気づきませんでしたか?」

主治医のそれを聞いて、やっぱりかと志緒は思った。

「先生。卵管が狭くなった原因って、何なんでしょうか」

志緒は主治医の顔を、この時初めてまっすぐに見て問いかけた。

「原因は断言できません。不明、としか言えない部分もあります。ストレスが原因であることも、少なくないかな」

ストレス。そう。ストレスには、心当たりがある。志緒の目がようやく覚めた。


 退院してすぐ、義母は志緒を見つけて、にこやかに穏やかな声で志緒に話しかけてきた。

「この子、私の料理全く食べなかったから。買ってきたパンしか食べないんだよ。今まで何食べさせてきたの? 」

紗枝に食べさせるために買ったのだろう、大量のスティックパンが食卓の椅子の上に乗っているのを眺めながら、義母は志緒に問いかける。

「そうですか。じゃあ私が今から作りますね」

何を食べさせてきたのかという義母からの質問には答えず、退院して傷が痛む体を引きづりながら志緒は台所に向かう。時間は昼時。志緒は退院して帰宅した瞬間、紗枝の食事を作った。義孝は、それから目をそらすように、普段ほったらかしの紗枝と一生懸命遊んで見せている。


 義孝のため。紗枝のため。二人のためと思い、志緒は今までいつもにこにこして見せていた。

 しかし、帰宅してから愛想笑いを辞めた。


 ストレスの原因には、心当たりがある。

 越してきて数日で、いつから働くのかと問われた。つわりがひどいとき、つわりは病気じゃないと笑って言われた。紗枝が安産だったことを、近所に言いふらした。触らないでほしいと頼んだのに、紗枝の布おむつを勝手に大人用の洗剤で洗って部屋に大きな音を立てて乗り込んできて紗枝を泣かせた。紗枝が夜泣きをすれば喜び、大きく生まれた自分のひ孫と、ことあるごとに比べた。進まない離乳食を見て、食べたくないもんねと大きな声で言った。

 義母がしてきたこれらの所業を、義孝は知らない。

 私が我慢すればいいんだと、志緒は思い込んで反論もせずに堪えてきた。


 その結果、第二子が天使になった。


 子宮外妊娠の原因がストレスかもしれないと聞いても、義母は悪びれる様子もなく、大音量でテレビをつけていた。


 この人とはやっていけない。


 志緒はそう思い、今まであったことを義孝にすべて打ち明けた。

「そうだったんだ」

申し訳なさそうな顔をして見せたけれど、「ごめんね」という言葉はない。ただ、このままでは志緒が持たないと感じたようで、ほどなくして義両親の家を出ることになった。


 義母は発狂した。どうして出ていくのかと、義孝を責め立てる声が近所中に聞こえるほど、大きな声を出した。二階の部屋にいた志緒は震え、紗枝はその声そのものを無視して遊んでいた。

 義父は義母を咎めたりなだめることはせず、引っ越しのことについても特に意見はしなかった。


 引っ越しをする前に、志緒は今回の手術の保険の手続きを行っていた。淡々と作業を進めてきたが、不意に志緒の手が止まる。

「どっかわかんないとこがあった?」

義孝が資料を覗くと、志緒は手術名の欄をただ眺めていた。

「…ねぇ。おかしいでしょ、こんなの」

志緒の声が震える。

「うん」

義孝は、頷くことしかできなかった。ほかに何ができただろうとも、考えない。考えたくない。

「おかしいよ。こんなの……! 」

義孝のことを心のどこかでわずかに恨んでも、娘が戻ってくるわけではない。手術を受け、娘が天使になって。志緒はこの時はじめて泣いた。記入欄には涙が落ち、記入した文字は震えて曲がり、ボールペンの文字がにじんだ。



 退院してすぐ、次女の名前を義孝と決めた。次女の名前は、世羽よう。赤ちゃんとして生まれてきた紗枝はようやくしゃべっていたが、世羽は手術後から結構毒舌にいろいろなことを話す子だった。

 引っ越しのときも世羽はしっかりついてきて、中古で購入した一軒家への引っ越しが終わってすぐ椅子に座って「いい家じゃん」と言って笑顔を見せた。世羽は体は小さいが、思考回路の8割は大人という印象を志緒は思っている。


 引っ越して少し時間が経って落ち着いたころ。志緒は、紗枝のおむつ外しに取り掛かった。失敗も多く、そのたびに床を拭く羽目になったが、それでも志緒の表情は明るい。またかぁと思っていても、笑って「次はトイレに行こうね」と紗枝に声をかけられる。

「ママ、笑うようになったね」

世羽が話しかけてくるときは、いつも志緒の脳の裏側から声をかけてくる。それに対して、志緒も脳の裏側で答える。

「笑うしかないじゃん」

そういうと、世羽は笑った。


 脳の裏側にいる世羽は、志緒と義孝の中間よりも少し義孝に似た顔で、あまりニコニコ笑うタイプの子ではない。それでも世羽はいつでも優しく、志緒を守るためなら平気で毒を吐くような子だった。


「ごめんね、世羽。最初から天使ちゃんになってしまって」

志緒は、要所で世羽に謝った。

「私がこうなることは、最初から決まってたんだから。謝らないで? 私がこうなって、自分の身の振り方を振り返った人がいればそれでいい。まぁ、身の振り方を考えなきゃならない人ってのは、絶対自分は悪くないって思い込むもんだから、かわんないけどさ」

世羽が誰のことを言っているのか、志緒はすぐにわかって苦笑する。

「世羽はね。ママに笑っててほしいんだよ。それでいい、ママかわいい」

世羽はそう言って、ニコニコッと笑う。その笑顔を見られるのは自分だけなんだと思うたび、志緒は嬉しさを感じる反面、心の奥底に沈む罪悪感を抱えて熱を持つ涙を落とす。


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