第三十一話
声をあげてはいけないと思った。明確な理由は分からない。けれど、漠然とした不安というものは、あの日の続きを思い描いているようにも思えた。
時々、追いかけられる夢というものは見たことはある。でもそれは捕まる時に終わるのが常で、私はその先を知らない。目の前にある、この光景こそが、おそらくその先なのだろう。
鼻をつく、吐きそうになるほどの異臭。布団の中で身を縮め恐怖に震えていたあの時のものとまったく同じだった。
まるでピンポン玉を水に浮かべたように、剥き出しになった眼球はぐるぐると回る。しかし無造作ではないそれは、なにかを捜しているかのようで、ギィ、と戸が軋んだ途端、お母さんが私を見た。
声はなかった。ただ、ヨダレを含んだ口元が頬まであがって表情が歪んでいく。なにもかもが常軌を逸しているそれと、私は今、対峙している。
殺されるとは思わなかった。それよりももっと恐ろしいことを想像してしまい、背中と肩が何度も痙攣する。
「どうしたの? 小春、そんなに怯えて」
お母さんは糸に引かれたような動きで体を起こし、何もなかったかのように立ち振舞った。床を這っていたところを見られていないと思っているのだろうか。あまりにも不自然な動きだった。
「ううん、なんでもないよお母さん」
ここで平静を欠いたらいけない、そんな気がして私はバクバクと鳴り響く心臓を押さえつけた。
「嘘」
けれど、ダメだった。
「小春は嘘をついている」
お母さんは私の胸に耳を付けて、大きく息を吸った。
乱れた髪の隙間から、お母さんの片手になにかぶら下がっているのが見えて、私はぎょっとした。
髪の毛の束だった。草をむしったときについてくる土のように頭皮がまるごと引き剥がされ、そこから髪の毛が生えている。もう片方の手には、枠のひしゃげた眼鏡が握られていた。
「そ、それ・・・・・・」
バラバラ殺人事件の被害者には不思議な共通点があった。それは報道番組などでも注目されていたことだ。
被害者は全員。黒縁の丸眼鏡をかけている。
眼鏡に執着がある人物なのか、それとも、歪んだ嗜好を持っているのか。そんな憶測が飛び交っていたけど結局答えは出なかった。
けど、今となって、この狂気を目の前に、全ての辻褄が、血管と神経を結合させるようにあってしまう。
別に推理や推測を証拠やアリバイによって導き出したわけじゃない。
それでも、分かってしまえるのだ。
「お父さ――」
言ってはいけない。
そう思った時には、私の腹に硬いものが突き刺さっていた。
あれ。
なに? これ。
味わったことのない熱気が、腹から下に落ちていく。
突き刺さった包丁が、ブチブチと筋繊維をちぎり奥へ侵入していく。
「あ、あああ」
声を出したつもりなんてないのに、息と共に喉が震えて外に流れていく。
「小春はいい子ね」
優しい声色のまま、お母さんは私を突き飛ばした。衝撃で包丁が飛び、肉が抉り取られていく。
脇腹がジクジクと染みる。力を入れると、鮮血が勢いよく飛び出した。
「ずっとみんなに言わないでくれて、ありがとう。小春」
全身から血が引いていくようだった。
なんのことだ。
「おばあちゃんちで見たこと、黙っててくれたのね」
慈しむような声色に背筋が凍る。
私があの場にいて、一部始終を目の当たりにしてしまったことを、お母さんはずっと知っていたのだ。
「小春はいつだってそうだわ。いつもお母さんのことを庇ってくれるもの。ねえ、覚えてる? 飼っていたハムスターがバラバラに切り刻まれて玄関に置かれていたこと。その時も小春はお母さんの味方をしてくれたわよね。でもね、あれ。殺したのお母さんなのよ」
お腹を押さえながら、私は大好きだったハムスターの頭部が半分だけ靴の中に入っていた時のことを思い出す。・・・・・・思い出したくもない。
あの時私は、はじめて憎しみというものを知った。
お母さんは日陰がやったっていうから、私は、犯人を見るかのように日陰を睨んだ.
けど、違った。
どうして気付かなかったのだろう。こんなにも、頭のおかしい人間が近くにいたのに。
「だって、仕方がないでしょう? 会いたかったんだもの」
「会いたかったって・・・・・・誰に」
「お父さんよ。ハムスターを殺せば、もう一度お父さんが帰ってきてくれると思ったの。あの人もハムスターのこと好きだったから。覚えてるでしょう? 動物番組で一目見ただけなのに、あの人ったら目をキラキラ輝かせちゃって、次の日ペットショップに行こうって言ったのよ。ふふっ、ちょっと子供っぽいところがあったのも素敵だったわ」
お母さんは軽い口調で話していた。しかし、すぐにそれは一変する。
「なのに! 来てくれなかった! どうして!? 大事なハムスターが死んだのに、なんで来てくれないの!? あの人には心がないの!? そうよ、心がないのよ人を愛する心がない。一度誓ったのに、私を好きって言ってくれたのに、あの人はいなくなってしまった、そのことが許せないのよ。だから殺したの」
だから、殺した? ぜんぜん、理由になっていない。
「怯えてたわ、あの人。だって、自分と瓜二つの人間が次々と殺されていくんだもの。次は自分じゃないかって恐怖に体は痩せて、まるでノイローゼにでもなったように何度も窓の鍵を閉めて、ついにはドアにチェーンを三つも増やしたんだから、本当、子供みたいよね」
「じゃあ、連続バラバラ殺人事件の犯人って、お母さんなの?」
「あの人がすり減っていくのを見るのは楽しかったわ」
返答は、やはり狂気だった。
「私を見た時の、怯えたあの目は最高だった。手をノコギリで切っている間、ずっと『なんで・・・・・・なんで・・・・・・』って呟いてたからその首を切り落としたら、切り落とした首がずっとパクパクなにかを言いながら、白目を剥いたまま動かなくなったの。それでもしばらくの間体はずっともがいてたのがすごく面白かった。だからね? あの人の体を抱きしめて言ってあげたのよ、もう大丈夫よって。セックスの時以来だわ、あの人をあんなに強く抱きしめたのは」
昨日捕まった犯人は、バラバラ殺人とはなんの関係もない。
ずっと起きていたバラバラ殺人の犯人は、この人だったのだ。
「小春。それでもあなたなら許してくれるわよね」
髪をやさしく撫でられる。前髪が血で固まり、重い。
恐ろしい、怖い。
そしてなにより、臭い。
この臭いを私は知っている。これはあの日おばあちゃんと出くわした時の墓場の臭い。そして、よくおばあちゃんが作ってくれた肉料理の臭い。お母さんが美味しいとよく食べていた肉料理の臭い。おばあちゃんに逆らうのが怖くて私も嫌々食べていた肉料理の臭い。生臭い肉料理の臭い。肉の臭い。人間の肉の臭い。
さっき見た、四つん這いになったお母さんの姿を思い出す。
墓場で追いかけられたあの日も、私はお母さんのことを人間だとはとても思えなかった。でも、そうか。人間の肉を食すと、人は、獣になるのか。
「ありがとう、小春。あなたは殺さないわ。私の大事な娘だもの」
そう言ってお母さんは、包丁を引き抜いて別の方向をむく。お腹から溢れ出る血は多いが、意識はハッキリとしていた。臓器には届かなかったようだ。
「けど、あの子は違う」
お母さんの声色が、明確な殺意を含んだものに変わった。
「あの子はいつもお母さんを疑っていた。ハムスターの時も、あの子だけはずっとお母さんを見ていた。どれだけ痛めつけても、どれだけ苦しめても、あの子はお母さんから離れようとしなかった。ずっと、機会を窺っていたのよ。日陰は、お母さんのことをずっと殺そうとしていた」
お母さんは、何を言っているのだろう。
「違うよ、お母さん。日陰は、お母さんのことが大好きなんだよ」
「だとしてもよ。あの子は狂っている。生まれた時からそう。お母さんね、あの子を産んだ時、何も嬉しくなかったのよ。それどころか、とんでもない化物を産んでしまったって思った。赤ん坊の頃から日陰は、薄汚い醜悪な面をしていたわ」
日陰は、お母さんのことを悪く言ったことなど一度もなかった。
どうして怒られるのか悩んで、お母さんに喜んでもらいたくて慣れないバイトを始めて、きっとあの足のせいで何度も面接に落ちたんだろうけど、それでも諦めないで、結局受かったコンビニもクビになっちゃったみたいだけど、それでも。日陰はお母さんのために頑張ったのだ。
「だからね、お母さんが殺される前に、日陰を殺さなくちゃ」
「なに、言ってるの。お母さん」
「心配しないで。あの子は人間じゃなくても、小春。あなたは立派な人間よ。お母さんの自慢の一人娘なんだから」
そう言ってお母さんは日陰の部屋の扉を開ける。
やはり日陰は小学生の頃の体操着を着ていて、嬉しそうに自分専用のコントローラーを抱きしめていた。
「あれ? お母さん」
日陰もちょうど部屋を出るところだったらしく、部屋の前で対峙したお母さんを不思議そうに見上げる。
「に、逃げてッ! 日陰ッ!」
しかし日陰は、振り下ろされた銀色の光を、見上げたまま動かない。
ドスッ、と鈍い音がした。
日陰の肩口に、包丁が垂直に突き刺さった。そのままお母さんは日陰を押し倒した。
お母さんは、無心に、実の娘を殺そうとしていた。
まさか、と思う。だって、まさか。うそだ。
まさか本当に殺すなんて、ないだろうって、そう思った。
だけど日陰は、刺されるたびに何度も体を揺らして、声を漏らしていた。
「おか、さん・・・・・・」
お母さんは耳を貸さなかった。
おびただしいほどの血が床を流れていく。
私の負傷など、かすり傷ですらないことを知った。
・・・・・・・・・・・・なんで?
・・・・・・・・・・・・どうして?
日陰はただ、お母さんのために生きてきただけなのに。日陰は誰よりも家族を大事にしてきたつもりなのに。
ただちょっと不器用なだけで、こんなに優しい子なはずなのに。
最近はね、お友達までできたんだよ。すごく、仲の良いお友達。
日陰はどんどん、成長して、色んなことを学びたがってた。きっと友達ができて、新しい楽しみが増えたのだろう。
それに最近は、すごく女の子らしくなった。オシャレにも興味を持つようになったし、なにより、友達から貰ったというヘアピンが。
「ヘアピンが・・・・・・」
血に塗れ、床に落ちていた。
鮮やかな黄色の輝きはすでに失われ、赤黒い暗闇に飲まれてしまっている。反りかえるように曲がったそれは、もうヘアピンとしての役目を果たすことはないだろう。
日陰の手から、コントローラーが落ちる。
「やめて」
お母さん。
「やめてよ」
なんでこんなことになったの?
私たちはただ、幸せになりたかっただけなのに。
「日陰が、死んじゃう」
震える手を伸ばす。
お母さん、お願いだから、やめて。
このままじゃ日陰が。
「死んじゃう」
死んじゃう。
「死んじゃう、死んじゃう死んじゃう死んじゃう死んじゃう死んじゃう死んじゃう死んじゃう死んじゃう死んじゃう死んじゃう死んじゃう死んじゃう死んじゃう死んじゃう死んじゃうし死んじゃう死んじゃう死んじゃう!!」
――ああ。
その時、私は初めて気付いた。
日陰と初めてキスをしたあの日の夜。
狂ったように叫んでいたのは、日陰ではなく。
私だったのだ。
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