第三十話
何かを引きずるように歩行するそれは、確実に一歩一歩近づいてきていた。私のあとに気付いた亮介くんが大きな声をあげて飛びのく。
「日陰、どうしてこんなところにいるの?」
普段通りの調子で声をかけるも、その声が日陰に届いているとは思えなかった。ここまで聞こえるほどの長い息が蒸気のように夜闇に浮かぶ。
「スマホは? ずっと電話してたんだけど、メッセージも既読にならないし。もしかしてずっとここにいたの?」
話しかけても返事はない。
靴は何故か片方がなく、靴下のつま先には穴が空いている。制服姿ではあるけど、やはり同一人物とは到底思えない異質な迫力があった。
日陰はついに私たちの目の前に立ちはだかり、その細い手を亮介くんの首にかけた。逃げることもできただろうけど、私も見ていることしかできなかったということは、きっとそういうことなのだろう。
なにかに惹かれるように、私は力のこもる指先を眺めた。景色のようなそれは得も言われぬ情緒を生みだし、私の呼吸を止めることに成功していた。
ギチチ、と肉を引き絞るような音がした後、骨が動く音がした。鈍い音だった。亮介くんは日陰を睨みつけながら、両手で抵抗しようとしていた。けれど、持っている力全てを振り絞るのはこの状況では極めて困難だ。まるで夢の中で走るような心地なのだろう。
「こ、殺される」
そう呟いて、亮介くんは地面に落ちた。
日陰は両手を空中に差し出したまま、咳き込む亮介くんを見下ろしている。
「お姉ちゃん」
ふいに呼ばれて、私は返事をせずに目で答えた。
「大事、なんだね」
「え?」
「こいつのこと、大事なんだね」
「うん、大事。すっごく大事」
「私は殺したい」
日陰は重苦しい声で訴えた。夜の雲がひとたび流れたようだった。
「憎い。殺したい。邪魔だから、殺す以外にいなくなる方法があればいいんだけど、人間は、殺さないと消えてくれないから」
「な、なんだよ、お前、なんなんだよ」
地面に仰向けになった亮介くんが瞳孔をひらいたまま大口を開ける。
「やっぱり、おかしいんじゃないか!」
「・・・・・・・・・・・・」
「ふざけんな、なんなんだよ、意味分かんねえよ、俺が何したってんだよ!」
「・・・・・・・・・・・・」
亮介くんは跳ねるように腰を起こし背中を見せるが、日陰が亮介くんの腰にしがみつく。それでも亮介くんは一刻も早く離れたいようで、日陰を引きずりながら路地を抜けようとする。
音のしない換気扇に頭をぶつけ、砂利に道標を作りながら日陰は亮介くんに引きずられていった。
日陰。
日陰は、今。何をしようとしてるの?
亮介くんを、殺す? なんて言ってた。確かに、禍々しいほどの殺気は肌で感じられるほどのものだった。
けれど日陰は、亮介くんの腰にしがみつくばかりで何もしない。
どんどんずり落ちていき、日陰は顔を地面に擦りながらどこまでも引きずられていた。
――お姉ちゃんはわたしと同じ、悪魔だよね。
・・・・・・違う。違うよ、日陰。
私はもしかしたら、そうなのかもしれない。だけど、日陰だけは、絶対に違う。日陰はおかしくない。狂ってなんかいない。私は知ってる。
日陰は、天使だ。
何を知ってるんだって、言われるかもしれない。
頭を割って中身を見たわけでもないけれど、肉眼で見るよりもたしかなものがあるはずだ。
お姉ちゃんって、そういうものだ、きっと。
「待って、亮介くん!」
私は急いで二人の後を追った。
「亮介くん! 止まって!」
「なんでだよ! 小春もこいつに殺されちまうぞ!」
「違うよ亮介くん! 日陰が、日陰がなにか言ってるの!」
「はあ!?」
亮介くんがおそるおそる足を止めると、日陰は力尽きたのかその場にうつ伏せになる。駆け寄ってその体を起こした。
日陰は最初、ふがふがと言葉にならない声を出した。唇が切れ、口の中が真っ赤に染まっている。
「日陰! 大丈夫!?」
「おね、ちゃ」
「うん、なに!? 日陰!」
「・・・・・・おし、えて」
「え?」
「いろんなこと、おしえて」
「何言ってるの、日陰」
「・・・・・・た、ら、ぷらすになる?」
「プラス? え、なに? 日陰・・・・・・」
日陰は一度、口の中に溜まった血を吐いた。
「助けたら、プラスになる?」
淡い光を宿した瞳が縋るように私を見つめる。
前髪を留める、黄色のヘアピンが月光を反射して輝きを増す。
「なるよ。だってそれは、いいことでしょ? 誰かを助けたら、助けられた誰かも嬉しいし、自分も嬉しいんだよ」
「プラスとプラス?」
「そうだよ、日陰。プラスはどうやっても、マイナスにはならないんだよ」
そう言うと、日陰は再び亮介くんの腰を掴んだ。反射的に亮介くんは逃げようとするけど、今度ばかりはうまくいかなかった。
「離せよっ、このっ!」
日陰は懸命に亮介くんを引き止める。
「出ちゃ、だめ」
「そういって俺を逃がさないつもりだろ! 走れないからって、今度は同情を誘うつもりかよっ、離せ、離せよ!」
「おね、がい」
日陰の懇願するような弱い声。
その瞬間、亮介くんの顔つきが変わった。
「おねがい、棚橋」
「お前・・・・・・」
「棚橋が死ぬと、お姉ちゃんが悲しむ」
亮介くんは体から力を抜いた。というよりも抜けたというような感じだった。日陰は後ろにひっくり返って、私は慌ててその体を抱きとめる。
羽毛のような軽さだった。
日陰は人差し指をどこかへ向けて、小さく口を開く。
「ここから、出ちゃだめだよ。棚橋」
「ここからって、家の裏だぞ。ここ」
すでに亮介くんの家から離れた、知らない人の家の裏口だった。換気扇も回っておらず、明かりもついていないことからここの家の人はまだ帰ってきていないのだろう。変なところで安心してしまっている私がいる。
「あそこ」
日陰はもう一度、指を向ける。
「中に、人がいる」
「中って、あれ。公衆トイレだよ?」
「うん。ナイフを持った、男の人。誰かを待ってる」
まさか、と思い公衆トイレに目をやった。緑色の扉が佇んでいるだけで、とてもそんな風には見えない。
「どうして分かるの?」
「わたしもたぶん、そこに隠れるから。棚橋を殺すなら、そこが一番殺しやすい」
亮介くんは眉間にしわを寄せて日陰を睨んでいた。けれど、もう逃げたりはしないようだった。亮介くんもどこか、思うところがあったのかもしれない。
「じゃあ、日陰はそれを教えにきたの?」
「うん」
日陰の表情には、うすら笑いのようなものが見えた気がしたけど、幻覚かもしれない。
「二十一時まで、出ちゃだめだよ」
「二十一時?」
「うん。二十一時になったら、たぶん帰るから」
「その理由も、聞いていい?」
「わたしも、二十一時になったら帰りたいから」
なにかを楽しむかのように声のトーンをあげる日陰は、唇を切った痛みなど感じていないようだった。
それから私たちは二時間ほど、知らない人の家の裏で息を潜めた。
やがて二十一時になったことをスマホの時計で確認すると、私たちは顔を見合わせたあと公衆トイレに目をやった。
すると、あれほど無機質だった緑の扉がゆっくりと開き、中から無精髭を生やした男が現れた。
息を飲む音が、隣から聞こえた。
男は片手に大きな果物ナイフを携えており、髪を何度も掻く仕草は苛立ちを感じているようにも見えた。あたりを確認するように首を振ると、男はポケットから鍵を取り出し、あろうことかそれを亮介くんの家の扉に差し込んだ。
「え」
カチャ、と音がして、男はゆっくりと、飲み込まれるように亮介くんの家に侵入していった。
「今のうちに逃げるよ」
日陰の言葉に、私達は頷いて路地を飛び出す。
冷たい風を受けると、ぼーっとした脳が醒めていくのがわかった。長時間息を潜め続けたことによる緊張感から解放され、亮介くんがはじめに声をあげる。
「まじか、まじか」
「どうしてあの人、亮介くんの家の鍵を持ってたの? 知ってる人?」
「知ってる人っていうか、あの人。うちの工事に来てた人だ」
「工事している間に鍵穴を確認して複製したんじゃないかな。あとは家族構成を調べて、親のいない時間と曜日を覚えるだけだもん」
「けど、本当に二十一時に出て来たね」
「だって二十一時過ぎたら面白いテレビ終わっちゃうでしょ?」
私と亮介くんが顔を見合わせて首を傾げる。日陰は淡々と説明した。
「どうせなら、面白いテレビを見ながら眺めたいもん。殺した人を、ようやく殺せたら。その人のいない世界で過ごすはじめての時間なんだから」
隠ぺい型。復讐型。挑戦型。そんな単語が脳裏を巡る。
殺したいから、憎いから。そして、計画的な、犯行。公衆トイレから出てきた男も、それから、日陰も、もしかしたら復讐型というものに該当するのかもしれない。
手に触れた温度、それから、日陰のこれまでの言動。また、あの日見た、肉親と祖母の変わり果てた異様な姿。
走り続けた私達は、神社に来ていた。
私と日陰が昔祭りから逃げた時に隠れた、あの神社だ。
「棚橋、ここから出たら死ぬからね。死んでもいいって思っても、死なないでね。お姉ちゃんが死んでほしくないって思ってるから」
「死んでもいいわけないだろ、生きたいよ。でも、ここなら無事って理由はあるのかよ」
「神様が見てる場所で殺すわけないでしょ。怖いじゃん」
日陰は淡々と告げた。
「絶対でないでね」
「私もいるよ、亮介くん」
「・・・・・・いや、俺のことはいいよ。ここにいればいいって言ってるしさ」
亮介くんは日陰を見て、顔を歪ませる。日陰は相変わらず、亮介くんのことを睨んでいたけど、殺気のようなものは感じなかった。
「・・・・・・もうさ、あんま関わらないでくれ。日陰ちゃんも、小春も」
私はフラれたのだろうか。不思議と悲しくはなかった。
亮介くんは体を横にすると、手を振って「はやく行け」とジェスチャーをした。
その去り際に、日陰が上着を脱いで、亮介くんの体に被せた。
「首絞めちゃって、ごめんなさい」
亮介くんは、何も言わなかった。
日陰はたしかに、恐ろしい犯罪を犯す人間になる素質があったのかもしれない。この体に流れる血と遺伝子、それから境遇。
虐待、小動物の殺戮。なにもかもが揃っていた。
けれど日陰は、その手を汚すことはしなかった。
「日陰、足は・・・・・・大丈夫なの?」
神社を出てから日陰に聞くと、答えるより先に、日陰の足はぐにゃりと曲がった。
「首のないニワトリでも、生きられるんだよ」
「え?」
「諦めない心、とか、奇跡とか。そんなの」
「・・・・・・そっか」
日陰がどれだけ亮介くんのことを憎んでいたのかは分からない。それでも日陰は、我慢した。衝動に絶え、自分で考え、悩み、選択した。
日陰は誰かを殺めるどころか、誰かの命を助けようとしたのだ。
どれだけの危険因子を孕んでいたとしても、誰もが人道を外れるというわけではない。
日陰は、悪魔ではなかった。
私の信じた日陰は、ただの優しい女の子だった。
あっという間に過ぎた時間。夢心地のまま、私はどうしてか、ひどく冷静でいられた。
今更人の死と隣り合わせになることに抵抗を感じなくなったのだろうか。
私と日陰は、手を繋いで家に帰った
翌日、昨日の男がニュースに出ていた。誰かが警察に通報したらしく、銃刀法違反と家宅侵入罪で現行犯逮捕され、凶器の一致からこれまでのバラバラ殺人事件との関係を調べているとのことだった。
そのニュースを家で見た時、私はひどく安堵していた。
心臓にこびりつくような不安が削ぎ落ちたようで、気持ちがすっかりと軽くなった。
亮介くんからも連絡があり、家族全員無事だった。それから、虫に刺されまくった。あのあと、寒さに耐えられず友達の家に転がり込んだなどと、あの日のことはすっかり武勇伝のようになっているようで、前向きな気持ちに私も救われた気分だった。
そのあと、私たちは正式に別れた。
これで何もかもが終わった。
私はそう思い久しぶりに勉強をやめ、日陰とやるゲームの準備をしていた。昔買ってもらった古いものだけど、日陰とできるなら最新のものなんていらなかった。
夕方になると、隣の部屋からガサゴソと音が聞こえ始めた。
日陰にはすでに『ゲームしよー!』とメッセージを送っているので、もしかしたら学校から帰ってきた日陰が勝負服に着替えているのかもしれない。
日陰はゲームをするとき、何故かいつも小学校の頃の体育着を着てくる。私に初めてゲームで勝ったのが小学校の頃だったので、もしかしたらそれが尾を引いているのかもしれない。
さすがにきつそうな袖口を引っ張る日陰の姿は、面白いながらもどこか愛らしさすら感じるほどだ。
ぴた、ぴた。と足音が聞こえる。
日陰が来たかな。
そう思い、私はいつものように扉を開けた。
「日陰?」
だけど、廊下には誰もいなかった。
おかしいなと、辺りを見渡すと、足元に影があるのが見えた。
見下ろすとそこには。
手を付いて床を這う、お母さんの姿があった。
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