第九話
「藤宮ぁ、これはどういうことなんだ?」
教務室の中はコーヒーによる苦みを含んだ香りが充満していた。黒縁の眼鏡をかけた担任の先生がわたしの前に答案用紙を突き出す。そこには0点という文字が血塗られたように赤く色づいていた。
「いつもは百点満点のお前が急に0点なんて。それにこの回答はなんだ? 答えの数はあってるのに、符号だけが違うじゃないか。マイナスとマイナスをかけたらプラスになるなんて中学生で習う問題だろ」
いつもよりボリュームを控えめにした声はむしろ刺刺しいものになっていて、そこに苛立ちや困惑が含まれているのは間違いなかった。
わたしは渡された答案用紙をジッと見つめて、突き返した。
「プラスにはならないです」
「なるんだよ」
「ならないです」
「藤宮、お前な」
先生は空に向いた短髪をかきむしると一度深く息を吐いた。再びわたしを見据えるその視線は落ち着きを取り戻していて、椅子の角度をわたしの正面に合わせた。
「多分な、藤宮は頭がいいんだろう。入試の点数も学年一位、テストは毎回九十点以上。授業をあまり真剣に聞いていないのと提出物を期限内に一度も出したことがないのはたまに傷だが、まぁそれ以外は優秀な生徒だよ学校から見れば。けど、頭が良すぎるのも問題らしい」
「良いのが問題なんですか」
「ああ、難しく考えすぎなんだ。数学なんてな、簡単でいいんだよ。マイナスとマイナスをかけたらプラス、0をかけたら全部0。理由なんてないんだ」
「よくわからないです先生。ごめんなさい」
「いや、謝らなくてもいいんだけどな・・・・・・まぁ俺がいいたいのは今回のようなテストの受け方はよくないってことだ。こんなにも差があると、普段のテストはカンニングしてるんじゃないかって疑われるぞ?」
先生の視線がやや鋭いものになる。
予鈴が鳴ると、周りの先生もバインダーを胸に抱えて室内を行き来しはじめた。
「なにか悩みがあるんだったら先生にいつでも相談してくれ。言いにくいのならクラスの友達でもいい。友達くらいいるだろう?」
わたしは答えられなかった。
「それから、国語の竹内先生から伝言な。平安時代の暮らしについての小論文を早く出してください。英語の伊藤先生からはリスニングの時は鉛筆を噛むのをやめなさい。そして俺からは、シャツのボタン掛け違えてる。それだけだ。もう行っていいぞ」
言われたことを反芻しようと思ったが、一度にいろいろなことを言われたため頭が混乱してしまった。覚えていたのは、鉛筆を噛むなということだった。わたしが鉛筆じゃなくてシャーペンですと言うと、先生に手で払われてしまった。問題はそこじゃないらしい。
頭を下げて、教務室を出る。廊下で保健室の先生とすれ違う。肩を貸すと言われたが、一人で歩けると断った。
左足をひきずって階段を登り、教室に着くとクラス全員がわたしを見た。一瞥ではなかった。わたしが席に着くまで、粘ついた視線を感じた。
「あのさ藤宮」
後ろから声をかけられた。
「ちょっと話があんだけど」
一人、二人、三人。そのうちの一人は目を赤くしながらわたしを睨んでいた。
わたしに声をかけてきた釣り目が特徴的な子がたしか
「田尻の猫がいなくなったんだって」
説明もなく、唐突だった。そもそも田尻さんが猫を飼っているなんてわたしは初耳だし、北鯖石さんと話したのもこれが初めてだった。
「ワタがね、学校までついてきちゃったの。だけど教室まで連れてなんてこれないでしょ? だからケージにいれて中庭に隠しておいたんだけど」
「今見てきたらいなくなってたんだと」
ワタというのはたぶん猫の名前だろう。田尻さんの声がだんだんと涙声になっていったので、北鯖石さんが付け加える。田尻さんが目を擦って呻くと、北鯖石さんがその背中をさすった。隣にいる柚原さんはいまだ口を開くことはせずわたしを見つめていた。
「そうなんだ」
だからなんだというような思いが声色に出てしまったのか、田尻さんが顔をあげて目を剥いた。
「田尻は藤宮が連れていったって言うんだよ。藤宮、なんか知ってるんじゃないの? 今の今までどこ行ってたんだよ」
「教務室で先生とお話してたよ。テストの話と、鉛筆の話」
鉛筆? と北鯖石さんが首を傾げると、田尻さんがしゃがれた声で叫んだ。
「あたし、見たもん」
教室中に響き渡った。
「藤宮さんが池のカエルを殺してるの、あたし見たもん!」
一度わたしを睨んだ田尻さんだったが、目が合うと怯えたように視線を外された。
「田尻はそれで、藤宮を疑ってんだ。なあ、本当なのかよ。カエルを殺したって」
「うん、殺したよ」
教室が一斉にざわついたのがわかった。次の授業の準備をしていた子も、談笑を交わしていた子も、手を止めてこちらに意識を向けていた。
「やっぱり! ねえ、あたしのワタをどこにやったの!? まさか・・・・・・!」
田尻さんは言葉の途中で泣き崩れてその場にへたり込んだ。北鯖石さんがそれを宥めながら、わたしを睨む。
「藤宮、お前。猫をどこにやったんだよ。カエルみたいに殺したのか」
「え、殺さないよ」
「嘘つかないでよ! カエルをあんな風に殺して、生き物をなんだと思ってるの!? どっか頭のおかしい奴だとは思ってたけど、やっぱり、あんた普通じゃないんだ!」
田尻さんが目を真っ赤に充血させたままわたしの胸倉を掴む。
「返してよ! あたしのワタを返してよ!」
「だから知らないよ、わたし。それに本当に田尻さんの猫だったの? 野良猫と見間違えたとか」
「首に名前が刻まれたタグが付いてるんだと」
北鯖石さんが補足する。最初の頃よりも、重苦しい声色となっていた。
「返せ! 返せよこのイカれ女! 人の猫を殺して、なにがしたいんだよ! 警察に突き出してやる! 絶対! どうせ人も殺すんだろ!」
田尻さんに体を飛ばされて、隣の机に激突してしまう。教科書と筆箱が床に散らばったが、席に座っていた男子はそれを拾うことはせずにわたしから離れていく。
「この、悪魔が!」
放たれた言葉は、わたしの胸を貫いて抜けきらない。体に残る鈍重な感覚が、今も上の階でノートを開いているであろうお姉ちゃんと繋がり血潮の熱を感じる。わたしは立ち上がることはできずに、中腰から何度も床を舐めた。誰も手を貸してはくれなかった。
田尻さんは荒い息を整えたあと、再び泣き喚いた。それを北鯖石さんが介抱する。
国語の竹内先生が教室に入ってくると、ギョっと目を開いてわたしの元にやってくる。どうしたんだ? とわたしの手を引いて立ち上がらせる。
「先生、小論文の提出は明日でもいいですか」
「え? ああ、今月中に出してくれるのなら構わないけど」
先生が席に戻れとみんなに言うと、ざわついていた教室は静かになる。
田尻さんと北鯖石さんは汚物を見るような目でわたしを睨み続けた。
最後まで残った柚原さんは、変わらぬ無表情のままわたしを見つめ、やがて長い茶色の髪をなびかせて席に戻った。
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