第八話

 その日の夜は、例に漏れずお姉ちゃんの部屋で過ごした。


 最近のお母さんは機嫌がすこぶるいいようで、わたしが家の中をうろうろしていても何も言わなかった。鬱病というものがどういう病気なのかは詳しく知らないけれど、回復に近づいているのならいいことだ。


 お姉ちゃんも同意なようで、布団の中で安堵するその様子には僅かな希望が垣間見えた。だからわたしはお姉ちゃんに抱き着いた。


 変わっていくもの変わらないもの。環境や時間に左右されるものは、どうせ放っておいてもいずれ変貌を遂げるだけなので追いかけてもしょうがない。人の後ろを足踏みするんじゃなくて、たとえばその背中を刺してみればいい。そうすれば環境や時間のゆるやかな変化では決して見ることのできない苦悶と憎悪に満ちた表情が見られるはずだ。


 相変わらずお姉ちゃんは抵抗してみせるけど、嫌悪感を剥き出しにした表情ではない。わずかに赤みを帯び、潤んだ瞳と震えた手が居場所を探す。


 わたしは昔から嘘を吐くのが得意だった。というのも、そもそも現実から乖離した話題を口に出しても、それが外の空気に触れてしまえばまるで本当のことのように感じるのだ。嘘を吐いている自覚が、わたしにはなかった。


 小学生の時、教室で腹痛を訴える女の子がいたのでわたしは牛乳に毒物が入っていたと先生に伝えた。当時わたしはアレルギーの問題で牛乳を飲んでおらず、変わりに水を飲んでいた。


 わたしの水は透明だから、何か混入物が入っていたらすぐに分かる。だからわたしは回避できたけど、紙パックに入った牛乳を飲んだ子は毒物を見つけることができず、飲んでしまったと思ったのだ。


 わたしの毒物混入発言は大問題となり、翌日まで牛乳を生産している工場のラインがストップした。


 結局、その子の腹痛の原因は単なる胃の不調でたいしたものではなかった。それでも大ごとにした責任は重い。わたしではなく、騒ぎ立てた担任が停職処分を受けた。


 がらんとした教室で過ごすお昼には新鮮味があった。なにより、牛乳の生産が間に合わなかったことによってみんながわたしと同じ水を飲んでいたことがすごく嬉しかった。


 その時、わたしは嘘という行為によって生まれる副産物を知ったのだ。


 嘘を吐くと、何もかもが平坦になる。


 荒れた土をならす、スコップのようなものなのかもしれない。問題はそのスコップをどこから調達するかで、他の人は律儀にホームセンターで買ってくるのだが、わたしは素手で土をならしていた。


 だからきっと、こうも簡単なのだろう。


 そのことをお姉ちゃんに話すと、お姉ちゃんは悲しい顔をして「嘘はダメだよ」と言った。


 わたしはその日から、嘘を吐くのをやめた。


「お母さん元気そうでよかったね」

「うん、そうだね」


 お姉ちゃんがわたしの耳元で囁く。


 キスさえしなければお姉ちゃんは普通に接してくれた。というよりも、普通でいようとしていた。わたしをあからさまに避けることはせずに、唇だけを遠ざけている。


 すでに二十三時を回ってはいるが、明日が土曜日ということもあってわたしたちは夜更かしをしていた。


 布団の中に潜って、お姉ちゃんとスマホで映画を見た。


 主人公の売れないミュージシャンが、占い師の元を訪れてとある予言を受ける。それは「楽器をすべて捨てればあなたは大スターになれる」というものだった。しかし主人公は自分の大好きな楽器を捨てることなどできなかった。結局、主人公は大スターにはなれなかったが、それよりももっと大切なものを見つけることができたのだ。


 映画は、そんなような内容で締めくくられた。


「おもしろかったぁ」

「最近の映画なの?」

「どうなんだろ、画質もよかったし、そんな昔ではなさそう。無料だったからって理由で見たけど、大当たりだったね。好きだなぁこの映画」


 スマホを充電器に挿して、電気を暗くする。けれど映画で冴えた目はなかなか閉じてはくれなかった。


「日陰はどこが一番好きだった?」

「男の人が女の人のフリしてスタジオに忍び込むとこ」

「あはは、たしかにあそこは面白かったね。バレないんだ! ってずっとツッコんじゃったよ」

「お姉ちゃんは? どこがよかった? 主人公が楽器かスターかで迷うとこ?」

「あ、正解。よくわかったね」

「お姉ちゃんそういうの好きなの知ってるから。かっとーっていうの?」

「うん。悩んで悩んで、前を向く。なんか、美しいなーって思っちゃうんだ」


 お姉ちゃんのしみじみとした声が天井を跳ね返る。


 わたしは微かに揺れる電気の紐を見つめながら口を開いた。


「でも、あれだよね。主人公、もっと早く気付けばよかったのに」

「っていうと?」

「占い師の言ってたことが本当なのかってやつ。本当ならスターになれるけど、占い師がただの嘘つきだったら楽器を無駄に捨てるだけで終わっちゃうから、それでずっと悩んでたわけでしょ?」


 仰向けのまま、お姉ちゃんが頷いたのがわかった。


「でもそれがこの映画のテーマって感じがするよ。自分を信じるかどうかーみたいな」

「うん。だからさ、そんな遠回りしなくても、もっと手っ取り早い方法あったのになーって思って」


 興味を示したようにお姉ちゃんがわたしを見る。暗い闇の中で、わたしはお姉ちゃんに教えてあげた。


「占い師を殺せばよかったのに」

「え」

「だってそうすれば予言が本当に当たるのかどうかわかるでしょ?」


 お姉ちゃんの返答はない。代わりに息を飲むような音が秒針の動く音に混じった。


「占い師がホンモノなら、殺せないと思うよ。だって予言ができるんだから。だから一回殺してみて、殺せちゃったら楽器は捨てない。殺せたら楽器を捨ててスターを目指す。そういう風に判断すれば早かったのになーって思ったの。お姉ちゃんは思わなかった?」

「・・・・・・私は、思わなかったな。そんなこと」

「そっか。ごめんね、映画に集中してなかったとかじゃないんだ。本当に一瞬、そう思っただけで、それ以外はすごく面白かったから」


 もぞ、と動くと布団がずれる。わたしが右に詰めると、お姉ちゃんが間を空けてくれる。けど、起きるといつもわたしの布団はなくなっている。お姉ちゃんは割と、寝相が悪い。


「明日はなにして遊ぶ?」

「ごめん日陰、明日は、その・・・・・・亮介くんと約束があるから」

「そうなの? どこに行くの?」

「んと、一応水族館には行こうって決めてるんだけど、それ以外はその場で決める感じかな」

「わたしも行っていい?」


 ただちょっと提案というか、聞いてみただけなんだけど、お姉ちゃんは大きく体を震わせて、わたしを見た。


「えっと、あ、ごめんね日陰。ちょっと、二人っきりで行きたいなって思ってて。来てほしくないとかそういうんじゃないの。ただ、私にとって初めての恋人だから、大事にしたくて」

「わかった。それなら早く言ってくれたらよかったのに。夜更かししたら目の下が黒くなっちゃうよ?」

「ありがとね日陰。けど、日陰との時間も大事にしたいって思ったんだよ。彼氏ができても、私が日陰のお姉ちゃんであることは変わらないんだから」


 電気を消しても、映画の余韻によって部屋が明るく見えた。紺色の視界の中でお姉ちゃんの手が蝶のように宙を待ってわたしの額に落ちてきた。


「日陰にもできるから、大切な人」


 未来は見えるものではない。けど、可視化した過去が物語るものに信憑性がないはずがなかった。わたしにとって大切と呼べる存在はただ一つしかない。


 その後は冴えた頭を落ち着かせるためにしりとりを始めた。お姉ちゃんがりんごと言い、わたしが強盗と言う。いつもの流れで、しりとりは進行していく。とはいってもお互いに考えて発言しているわけではないのですぐに思考時間が増えていった。


 『ち』が連続で続いたあたりで、お姉ちゃんが先に寝息を立て始めた。仕方がないのでわたしが代わりに続く言葉を探したけど、答えが出る前に重い睡魔がやってきた。



 翌日、わたしは水族館に行った。二人の後を追いながら、バナナクレープを食べた。お小遣いの三分の一が消えてしまって悲しいけど、甘くて美味しかった。


 二人はイルカのショーとクラゲトンネルを堪能し、おみやげコーナーに寄ってジンベエザメのキーホルダーを買うとそのまま早足でどこかへ消えてしまった。追いかけたかったけど、わたしの足は地べたを這いずるだけだった。


 わたしはふれあい広場に向かい、岩の後ろに隠れたなまこを見つけると両手でわしづかみにした。するとなまこは口から白いものを吐き出して、わたしの手のひらを汚していく。


 それを見てわたしは、結局答えられなかったしりとりのことを思い出す。なまこを握って、頭でひらめく。案外、簡単なことだった。


「血」


 わたしがそう言うと、お姉ちゃんはなんて返すんだろう。


 同じ言葉だと嬉しい。そうすればわたしも、また繰り返す。堂々巡りは永遠に、わたしとお姉ちゃんを同じ時間に留め続ける。


 いいな、いいなぁ。


 そう思うけど、一つ。しりとりのルールを忘れていた。


 しりとりは、同じ言葉を二度は使えないのだった。


 わたしは手の上で脈動するなまこを水の中に戻して、水族館を後にした。

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