解決――旅立ち
バンデール国立魔法大学。講義室。半円形で外周部に近づくにつれて段差が上がっていく構造のその部屋に、今は人影が一つだけだった。その日最後の講義に向けて複数の魔法式や魔法言語、魔法陣を黒板に熱心に描いている。
女。黒髪。身長は高いが猫背のせいで一回り小さく見える。気まぐれに皮膚の形状を変化――十三種類の種族の特徴を行ったり来たりしている。あるいはそれらを組み合わせて全く新しい種族の特徴を生み出している。周囲から見れば不安定な状態だが、彼女にとってはそれが精神を集中させる一種の儀式や癖のようなものであった。
不意に扉が開かれた。板書をしていた人物の姿が一瞬で変貌――長身痩躯の人型爬虫類へ。性別も彼女から彼へ。唯一変わらないプライドの高そうな視線をちらりと扉の方へ向ける。
講義室へ入ってきたのはローブを着た若い男だった。上級変身魔法学受講者。既に中級までの魔導士資格を保持。いつも一番に教室に入りその日の授業の予習する優秀な生徒。彼は板書を続ける人物に挨拶をしてほぼ指定席となりつつある一番前、左端の席へ着く。
次にやってきたのは若い女性の生徒だった。上級変身魔法学受講者の中では成績はさほど良くはない。講義室へ来るのもいつも一番遅かったが、その日は何かの気まぐれで早く来たのだろう。彼女は席へ着くと予習どころか化粧を始めてしまった。だが板書をする人物は特に何かを言うわけでもない。生徒の私生活へは関与しない主義であった。
十分ほど経過してぱらぱらと教室に人が集まりだした。その中の熱心な生徒たちは前日の講義や課題について板書をしている人物に質問をしている。彼はその質問に一通り答えると時計を見て壇上の教卓へ両手をついて生徒たちを見渡した。
「指南書の四十二項を開きたまえ。今日は昆虫類への変身について講義する。昨日の課題は講義終了後に教卓へ提出すること。いつも通り課題の提出で出席をとるから忘れないように」
昆虫類への変身魔法。いくつかの注意点。一つ、魔法発現に必要な魔法陣は複雑多岐にわたること。一つ、昆虫に変身しても人間時と変わらず魔法を使用できること。ただし身体能力に関しては変身後の昆虫に準拠するので誤って踏みつぶされることのないように注意すること。次に講師は実際に一匹のかまきりに変身してみせた。それから昆虫への変身魔法は見破るのが非常に困難なことと、おすすめの学術書を提示する。
生徒たちはその話を聞き、一心に板書をとっている。あるいは手を挙げて質問を述べている。講師は質問にどれも的確に答えてみせた――いつもの光景。
不意に女生徒の一人が悲鳴を上げた。開かれていた窓から一匹の蜂が侵入してきていた。男子学生の何人かが笑い、ある者は持っていた書籍で蜂を追い払おうとした。講師が「良い機会だから蜂の生態をよく観察するように」と言った。いつもと変わらぬ平坦な声で。
――次の瞬間、閃光が走った。
生徒の誰一人悲鳴を上げる暇もなく、蜂を追いかけるように窓から差し込まれた閃光は、講義室内の椅子の一つを吹っ飛ばした。
椅子は宙を舞って誰も座っていない椅子を蹴散らしながら壁に叩きつけられた。「ぎゃっ!」という短い声が上がって椅子が一人の女性に姿を変えた。ブロンドの美人で、生徒たちの何人かは彼女に見覚えもあった。
それから遅れて悲鳴が出た。今度は男子学生も動揺の声をあげていた。唐突に講義室の扉が開かれた。
「全員、窓際に寄りなさい」
平坦な声――しかしいつもとは違う興奮した雰囲気だった。生徒たちが目を丸くした。壇上――黒板の前には全く同じ姿をした人物が二人存在していた。
それから何人もの人間が講義室へ突入した。先頭の二人は魔導士であることを示すローブを身にまとっている。後の人間は騎士団員のようで、全員が鎧を纏い、剣を抜いていた。ただならぬ雰囲気。生徒たちは息を呑んだ。見慣れた講義室で何が起きているのか。
講師の一人が口を開いた。
「まったく嘆かわしい。諸君らには変身する術よりも変身を見破る術を熱心に教えてきたつもりだったがね、どうやら見込み違いだったようだ。それは君も例外ではないぞ」
後からやってきた方の講師が、最初からいた講師の額を指で弾いた。額を弾かれた講師は見る見るうちに姿を変え、作業服姿の青年になった。こちらも生徒の何人かが見覚えがあった。確か構内の清掃を担当していた人物だったはずだ。何が何だか分からずにぽかんと口を開ける生徒が大半だった。
姿を現したロンバートは今度は称えるように清掃員の青年の肩を叩いた。
「椅子に化けた侵入者がいたようだが、あの程度の変身は見抜けて当たり前だ。せっかくの才能をドブに捨てるつもりなら別だがね、君には正式にどこかの教育機関で学ぶことを推奨するよ。とはいえ、私に化けた才腕は見事だったが」
今まで誰も見たことのないロンバートの笑顔だった。清掃員の青年は「光栄です」と今にも泣きそうだった。
「なぜ、私の変身魔法が……」
椅子に化けていた女――レベッカ・マクリーンが呻きながら口を開いた。
「私の魔法は完璧だったはずだ!」
「完璧? 笑わせないでください」
金切り声を上げるレベッカの前にレイが立つ。ロンバートの前には彼を庇う形でウェーブ、他の生徒たちを守るように騎士団がレベッカを取り囲む。
「あなたの変身は完璧なんかじゃない。完璧じゃないから、罪のない人々を殺害し、その皮膚を収集した。違いますか?」
「無知と無能は罪よ! 彼女たちは私の崇高な目的のために犠牲になったんだわ。むしろ感謝して欲しいわね」
レベッカが杖を抜いた。有無を言わずに【切断魔法】および【剥離魔法】を発現――不可視の刃がレイ目掛けて発射される
レイが長い杖で床をついた。杖の上部先端に埋め込まれた青色の宝玉が一瞬だけ煌めく。斬撃の直撃――変貌。刃は花びらに。狂気と殺気をそれぞれ赤と青の花弁に。そしてそれらを具現化させるレベッカの杖を一輪の薔薇に。
「何が」信じられないようにレベッカが呟く。「私の魔法は、完璧」
「切断・剥離系の魔法を使ってくれてありがとうございます。これで現場に残された魔力紋と今の魔力紋の照合ができます。動かぬ証拠というやつですね」
レイは動揺一つ見せなかった。“大賢人”、それも数多の実戦を潜り抜け、その成果と能力を認められた世界トップクラスの実力――“七大賢人”。格の違い。世界の広さ。ロンバートも、あるいはレイの弟子であるはずのウェーブでさえ、彼女の底知れぬ魔法能力に驚愕した。
「レベッカ・マクリーン。七人の殺害とロンバート教授への殺人未遂で逮捕します」
「レベッカは在学時から優秀な生徒だったんだがね」レベッカ・マクリーン連行後。ロンバートによる証言。「相手の思考を先読みして待ち構えるという思考パターンを持っていた」
「だから彼女の変身を見破ることができたんですね」
ウェーブが改めて感心するように言った。レベッカの施した変身魔法は限りなく高度なものであり、“大賢人”であるレイにもすぐに見破ることのできないものであった。そこで彼女の立てた作戦は、他ならぬ変身魔法の専門家・ロンバートにレベッカの変身を看破してもらうというものだった。
「ロンバート教授には講義室の外から観察してもらう必要がありました。しかしレベッカは教授が現れるまで動かないでしょう。そこで彼に代役を頼んだわけです」
清掃員の青年が照れくさそうに笑みを浮かべた。代役を頼まれた時、彼は断ろうと思ったがロンバートを救うためだと説得された。目をかけてくれたことへの恩返しのつもりだった。
偽ロンバートが講義を始め、本物のロンバートが外から講義室を観察する。潜んでいるレベッカを見つけ出し、レイによる初撃――犯人の確保。それが逮捕劇の一部始終であった。
「校長には話を通してある。君に奨学金制度が適応されるそうだ。まさか嫌とは言うまい?」
「ありがとうございます、精一杯頑張ります」
青年が涙を浮かべて感謝の言葉を述べた。
「また何かあればこれを」
城門前――レイが一枚の紙切れを女騎士団長に差し出した。それは白紙の便箋であった。
「魔法が埋め込まれた特別な便箋です。そこに書き込まれたことは投函せずとも私の元へ届くようになっています」
「本当に、お二人には何とお礼を申し上げたら……まさかたったの一日でこの事件を解決できるとは。我々だけならきっと解決できず、もっとたくさんの人々が犠牲になっていたでしょう」
「偶然上手くいっただけです。こちらこそ、無理な注文ばかりしてしまって申し訳ありませんでした」
「とんでもない! 良い勉強にもなりました。犯罪のない田舎街だと高を括るのはもう辞めです。抱える問題は山ほどある」
「ギャングやマフィアとか?」横からウェーブが口を挟んだ。「そうです。彼らについても対処していかなければなりません。時間はかかるかもしれませんが、必ずやってのけます」
「頑張って。あなたならできますよ」
レイと騎士団長ががっしりと握手を交わした。
そして二人の魔導士が旅立った。次なる町へ。使命を果たすために。その背中を騎士団長は見えなくなるまで見送った。
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