バンデール国立魔法大学
レイ・ルーン・ペンタミラー。七大賢人の一人。通称・星砕きの魔女。ありとあらゆる実戦魔法を極め、一人で一国の軍隊と同じ戦力を有するとされる人物。稀少な宝石のような深い蒼の髪の毛を携え、その両眼はエルフ属特有の金色――俯きがちな彼女の性質にちなんで“幸運の瞳”と呼ばれている。そんな両目で彼女はそっと目の前の人物の様子を窺った。
「いやはや、まさか大賢人様にお越しいただけるとは夢にも思っていなかったですな。時間さえ許すのなら、是非ともうちの生徒に講義をしていただきたいものです」
手入れの行き届いた立派な白い口ひげを撫でながら、ローブの老人は笑った。鼠色のローブの胸の部分には五角形の紋章が刻まれ、それは彼が“賢人”の地位にあることを指し示している。
「残念ですがこの後に予定がありまして。教皇様の指示でルーンランド王国へ向かう途中なのです」
レイの前を歩く少年がそう答えると、白髭の老人は残念そうに、しかし予想していたかのように肩を竦ませて見せた。そんなことだろうと思っていました――そう言わんばかりに。
「教皇様の指示となれば仕方がありませんな。講義はまたの機会に」
その言葉に少年は曖昧に笑って見せた。自分の師匠――“大賢人”・レイが講義のような人前に立つことを最も苦手にしていることを知っていたからだった。その笑みが相手の老教師にどうとられたのかは想像できない。
ウェーブ・ペンタミラー。それが少年の名だった。中級魔導士。魔法大学を卒業後、レイに弟子入り――共に旅をしている。ブラウンの髪の毛。あどけなさの残る顔つき。人当たりの良さ。世渡りの上手さ。それらは少年の持つ才能であり、またそれがなければこれまで生きてくることはできなかったという不幸な人生の副産物。
「こちらの学生について少し伺いたいことがあるんです」
ウェーブが白髭の老人の後に続きながらそう切り出す。
ウェーブとレイが訪れたのはバンデール国立魔法大学だった。王都の中心部と貧民街、その中間にあたる平民層の住む地区のど真ん中に位置する大学で、あの殺人事件の現場からは徒歩で三十分ほど離れたところに位置している。
「ほう。レイ殿と言えば確か魔法心理学を専門とし、魔導教育にもその研究結果を提供しているとうかがっております。何かの統計かアンケートのようなものでしょうか」
「ええと……」
少年は些か返答に迷った。あの残虐な殺人事件のことを話すべきか、伏せたままで進めるべきか。どちらがより効率よく情報を集められるだろうか。どちらがより相手の警戒心を緩め、信頼を得られるだろうか。
ちらりと師匠であるレイの方を振り返る。
「この近くでとある事件が起きました。その容疑者を探しています。容疑者は切断・剥離系の魔法をある程度学んだ形跡があるので、こちらにうかがいました」
師匠・レイの答えは、事件があったことは認め、しかしその詳細は明かさないというものだった。そもそも魔導士、あるいは魔導士見習いの誰が犯人か分からないし、どこに潜んでいるのかも分からない。そんな状況でぺらぺらと現場についてふれて回る方が愚策だろう――ウェーブはレイと老教師の会話に耳を傾けながら、そんなことを自省していた。
老教師は「ほう」と息を漏らし、ピタリと白髭を撫でる手を止めた。教師ならば誰でも自分の生徒の中に犯罪者がいると言われれば良い気はしないだろう。
「しかし、切断・剥離系の魔法なら大学まで来ずともそれ以前の学校で学んでいるはずですが。我が校を訪れたのはそれだけが理由ですかな?」
「犯行に使われた魔法が、少なくとも中級以上のものだったのです。中級魔法以上の魔法を学ぶには大学に行くしかありませんし、予測される魔法陣や詠唱は特殊なものと思われるので、より高度な教育を受けたものだと予想されるのです。生徒や職員に必要以上に不安を与えるような真似はしませんので、どうかご協力いただけませんか?」
“大賢人”にそうまで頼まれては、断れる魔導士はいなかった。それはたとえ一つの学校を預かる立場の人間でもそうである。老教師は仕方なしと言うように頷いて見せた。
「どういう形で協力すれば?」
「変身魔法の講義を見学させてください。それと、担当教員にもお話を伺いたいです」
「変身魔法ですか?」
つい今まで訝しむような眼差しだった老教師の目が一瞬で丸くなる。切断・剥離系の魔法を使った容疑者を探しているのに、一体なぜ変身魔法の講義を調べるのだろう? それは彼女の弟子であるウェーブにも理解できないことだった。
「確かに我が校には変身魔法を専門とする教授がいますし、講義もありますが……」
なぜそれを調べるのか。それはウェーブも気になっていることだったから、師匠であるレイに尋ねる代わりに疑問の意図を含んだ視線を向けた。
「確か、ハウエル氏のご専門は魔法生物学でしたね」
少し迷った後、レイは老教師――ハウエル・ルーンハルトに聞き返した。
「ええ」ハウエルはまだ不思議そうな視線をレイに向けている。「それが何か?」
「生物学がご専門なら、多少血生臭い話でも大丈夫でしょう。実は、探している容疑者というのは、殺人事件の容疑者なのです」
「殺人ですと?」
「驚くのも無理はありませんね。騎士団長殿のお話では人死にが出たのですら数十年ぶりだそうですから」
「ええ……確かに貧民層の方にはマフィアやギャングが多いと聞きますが、殺人事件だなんて……」
「それも死体がかなり特殊な状況で発見されたのです。被害者は全身の皮膚を剥がされて殺害されていました」
ハウエルの顔があからさまにしかめられた。生物学を研究する者は当然ながら解剖なども行うが、しかし他の魔法生物と人間とでは話が別だった。
「その犯行に、切断・剥離系の魔法が使われたと?」
「間違いありません」
「しかし、ううむ……」
老教師がしかめっ面のままで白髭を撫でまわす。先ほどよりも明らかに動揺した様子だ。
「確かに、人間のような複雑な形状をした物体の皮を剥ぐとなると、大学レベルの魔法知識や技術が必要になりますな。それで、変身魔法がどうというのは?」
ハウエルが視線をレイに向け直して尋ねた。その視線には先ほどまでの気楽さはなく、限りない緊張感と本当の危機感が感じ取られる。
「死体の一部を持ち去る者――どんな理由が考えられますか?」
質問――テスト。弟子の成長を計るための。ウェーブは少し考えて、いくつかの候補を提出した。
「まず証拠を隠滅するためです。被害者の肉体で、犯人の痕跡が残った部分を持ち去ることで捜査をかく乱できます」
合理的理由――しかしすぐに回答者自身の考えで否定。証拠を隠滅するのが目的ならば、なぜ犯人は死体を街道に捨てるなどというまねをしたのだろう。死体を処理するならばこの国は山も海も近い。さらに複雑な魔法痕跡を残すのは、それ自体が決定的な証拠になり得る。少なくともこの犯人は大学レベルの魔法知識や技術があるのだから、無論痕跡についても承知のはずだ。
「性的サディズムによる欲求を満たすためでしょうか」
心理的理由――ところがまたもや回答者自身による否定。被害者の全身の皮膚を剥がすという行為は確かに残虐ではあるものの、時間で言えば一瞬であったはずだ。被害者を苦しめるのは理由ではない。その証拠に、皮膚を剥がしたというのは言い換えるとそれしかしていないということだ。爪を剥がす、歯を抜く、眼球を潰す――他のありとあらゆる拷問手段は、今回の被害者に用いられることはなかった。さらに言ってしまえば準備に時間はかかっても被害者に手を下したのは一瞬だったのだから、被害者を苦しめまいとする一種の優しさすら感じられる。
「被害者を虐待することが目的でないとするなら、食人趣向によるものでしょうか」
弟子の回答を、レイは時々頷きながら、しかし基本的には黙って聞いていた。生徒の成長を見守る教師のように。
「回答は以上ですか?」
「本意がどうあれ、死体の一部を持ち去る犯人はそれを口にする傾向が強いです」
レイの黄金の眼差しがウェーブを覗き込んだ。「その程度ですか?」と言わんばかりに。心理的圧力はあるが、しかし少年に今すぐ用意できるこれ以上の回答はない。
「80点と言ったところでしょうか」
「解説を聞きたいですね」
ウェーブは満足感と不満足感とが入り混じった複雑な笑みを浮かべて肩を竦ませてみせた。自分は褒められているのか、貶されているのか。
「減点はどこです?」
「
「そりゃどうも」皮肉にしか聞こえない称賛――褒められていないのは確実だった。「模範解答は何です?」
レイは小さく咳払いを挟んで、解説を始めた。ここが講義室なら板書すら始めそうな勢いだった。目の前の小さな“大賢人”は確かに人前に立つのは苦手だが、しかし経験がないというわけでもなかった。旅に出る前はとある魔法大国の大学で教鞭をとっていたし、ウェーブはそこの生徒だった。だから彼女の解説する姿はある程度様になっていたし、それに耳を傾けるのは今も変わらない。
「結論から言ってしまえば犯人は人肉趣向者ではありません。持ち去った被害者の皮膚をほぼ確実に口にはしていないでしょう」
「なぜそう言い切れるんです?」
「もう一度、遺棄された被害者の様子を思い出してみてください」
レイはトンと足元の床を杖で突く。瞬時に展開される魔法陣――記憶補助。対象者の記憶の中の風景を映し出し、記憶の再現を手助けする魔法。幻視の発現。天井が曇り空へ。パラパラと振る雨。周囲の景色は豪勢な壁から安価な二階建ての住居へ。綺麗に磨かれた床は満足に舗装もされていない道路へ。その路傍にピンク色の物体が横たわっている。
「精神衛生面に配慮して、ハウエル殿には死体が見えないようにしてあります。さてウェーブ君、何か気になる点はありませんか?」
「気になる点と言われても……ダメですね。お手上げです。正解は?」
「被害者の頭髪です」
「頭髪ですって?」
少年の記憶の中の被害者はピンク一色の状態で、頭髪は存在していなかった。今目の前にある魔法での再現映像でも、死体には髪の毛が存在していない。しかしそれが一体何の手がかりになるというのだろう。
「頭髪がないというのが重要なのです」
「被害者は全身の皮膚が剥がされていたんですよ? 頭髪も当然一緒に剥がされたのでは?」
「いいえ、違います。犯行に使われたのはおそろしく手の込んだ精巧な切断・剥離系魔法ですよ?」
「そうか! 被害者の皮膚を剥がすのに使われたのが魔法なら、頭髪に関係なく頭皮だけを剥がすことが可能なはずです!」
「よくできました」
レイは微笑みながら小さく手を叩く。とは言え、ウェーブやハウエルにとってはまだ話の本筋は見えてきていなかった。レイはなぜ変身魔法の講義やその講師を調べようとしているのだろか。レイが魔法を解除して話を続ける。
「少なくとも
「ではその理由とは何だと思います?」
弟子の成長にすっかり上機嫌な様子のレイ。しかし今度の質問にはウェーブは答えることができなかった。殺した相手の頭髪を持ち去る理由――見当もつかない。
「一部の未開拓地の先住部族にはそういった習慣があると聞いています。自分が仕留めた獲物や、亡くなった家族の毛髪を保存するというものです」
答えたのは老教師・ハウエルだった。殺人犯の心理についてはまったくの素人と言っても過言ではないハウエルであったが、“賢人”の知識は伊達ではない。犯罪的な心理学ではない、別の角度からのアプローチ。レイは頷きつつも、すぐに否定した。
「そういった限定的文化は確かに存在しています。ですがこの犯人は違うでしょうね。明らかに文化的な印象です。未開拓部族の模倣をするのなら、被害者の皮膚を剥がすのに魔法ではなく刃物を使うでしょう。魔法は文化的手段なのですから、そういった部族のものとは真逆のものです。彼らは自らの手を使うことに拘りますから」
「それでは、皆目見当もつきませんな」
ハウエルの言葉にウェーブも頷く。皮膚と頭髪を持ち去る理由とは、一体何なのだろう。
「犯人は被害者の皮膚と頭髪をできるだけ綺麗な状態で手に入れたかったんです。だから凶器に魔法を用いた。綺麗に剥ぎ取るというのが目的ならこれ以上に適したものはありませんからね。まあ、時間はかかってしまいますが。三重以上の魔法陣をチョークで地面に描くのにかかる時間は、普通の人間ならば早くても一週間と言ったところでしょうか。私のような天才でもなければね。とはいえ、何度も言うようですがこのように極端に――というより、究極的なまでに丁寧な手法をとった時点で食人趣向者である線は消えます。皮膚や頭髪を食べるのが目的なら、別に細切れの状態でも良いわけですから。ではなぜ犯人はここまでして皮膚や頭髪の状態に拘ったのか」
「まさか――」
ウェーブの脳内に恐ろしい推測が浮かび上がった。そんなわけがない。自分の考えに思わず絶句してしまうほどの、恐ろしい推測。しかしそれこそまさに、レイが行きついた結論そのものであった。
「犯人は被害者の皮膚や頭髪を身に着けようと思っているのです。被害者になるために。変身願望――これこそが犯行の動機です」
老教師・ハウエルはよろよろと壁に手をついた。年齢の割に足腰が丈夫そうな彼でさえ、相当精神的衝撃があったらしい。自分の学校の生徒に、そんな恐ろしいことを考える人間がいるのが信じられないというのは、教師として至極当たり前の反応だろう。
「変身魔法の講義には私も時々、講師として参加するんです。教員はもちろん、生徒たちも皆そのような恐ろしいことを考えるものはありませんよ」
「お気持ちは理解しますが、残念ながらまさかと思われる人物が罪を犯していることがあるのですよ」
ウェーブの人生はまさに大波がせめぎ合う嵐の海のようであった。大学時代にもその波は彼を飲み込んだ。親しくしていた学友の一人が死人を呼び戻すという魔法の禁忌に触れたのだ。それも同情できるような理由ならばまだ救いはあったが、完全に私利私欲のためであったため、ウェーブが受けた衝撃は相当のものであった。
「私がここまでお話したのはあくまで仮説です。ハウエル殿がご自身の生徒を信じたいと仰るのでしたら、むしろ我々に生徒たちと話をさせてください。無罪の証明にも繋がります」
ハウエルは大きく息を吐き、頷いた。
「分かりました。ご案内しましょう」
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