指先のうみを舐めた
うみまちときを
アリエ
進まない
どうしても文章が書きたい、そんなときがある。
まとまりのない文章、ただ文字と文字を本能的に、でもほんの少しだけ、指先でスマートフォンをスワイプするくらいのかすかな理性を働かせて、単語と単語とを組み合わせる。堤防の先から海に飛び込むように着地点は見つからないままどんどんしずんでいって、内容のないままパソコンのフォルダにしまわれて死んじゃう。
そんな文章ばかりを書いている。でも、それじゃいけないんだって、最近気づいたの。
アリエはひとり、決意する。早朝5時、眠れないまま到来した朝。
昨晩の仕事終わりからとつとつと、漂流して岸に上がることのできなかったただの文のつながりをいつものようにフォルダにしまって、伸びをした。
昨月から、アリエの住むアパートは改修工事が始まって、防音のための囲いがついた。窓を見たっていつまでも暗いままだ。
今日はひとに会う予定がある。よく眠らなければ頭が回らないし、会話も適当に済ましてしまうとわかっていながら、眠らなければならないという焦りで眠れなくなるときがたまにある。
もういいや。と諦めた。
・・・
アリエはパソコンを前にして固まっていた。もう二時間近くそうしていた。
時折キーボードをたたき、二、三行文字の散文を生みだし、消す。
アリエは記者として働いていた。仕事で書く記事ならばいくらでも文章がつくれる。こんなに行き詰ることはない。なのに、物語をつくろうと思うとどうしても、どの言葉も正解ではないように思えてしまう。
そんなことをずっと繰り返して、結局まっしろな画面を前に頭を抱えた。
頭の中にはずっと、舞台の上でひと際輝くナルミケイという役者の存在があった。
彼は、すごいなあ。アリエは思う。
午前中、アリエは売れっ子俳優ナルミケイが主演を務める舞台の記事を書くために、帝国劇場で上演される舞台の初演を観に行った。その後主演のナルミと助演を務める俳優たちに取材を行ったが、芸術家気質の人間たちは考えることが違うなあと、アリエは思った。
「自分を極限まで追い込むことが必要でした。僕が演じるグェラは貧困で食べるものもなかった、それでも妻に認めてもらうために働き続けました。僕は幸せなことに、飢えを知りません。なので、周囲の人たちの助けを得て、ではありますが、飢えることにしたのです。二週間ほど、口に入れるものを水と錠剤のサプリメントに限定して仕事をしました。彼の本来の苦しみを完全に理解できたわけではありません。しかし二週間で栄養を補給しながらでも、やっと立っていられるような状態でした。二年もほとんど飲まず食わずの状態でいたグェラは鉄人ですよ」
彼のこの回答はきっと業界人の間で語り継がれる伝説になるのだろうな。
アリエは興奮した脳を落ち着かせるために、たばこを吸うことにした。
ベランダに出て、ガラス戸を背にもたれてしゃがみこむ。たばこを吸うようになったのは、周囲の人間の影響だった。別に好きで吸っていたわけじゃない。最初は苦手だった。でも吸わなければならない、そうしないと間がもたない。そういう場面で何度も耐え忍んで吸っているうちに、いつしか煙草を吸わなければ落ち着けないと思うようになってしまった。
すうっと、煙がたつ。空の黒に紛れていく。
「今日は星が綺麗だよね」
隣のベランダから声が聞こえた。アリエの隣に住むとうじだった。
彼も喫煙者だ。
こうして深夜によく鉢合わせる。
「ね、こんなに都会なのに、意外とたくさんありますね」
「アリエちゃん、星のこと”ある”っていう派なの?」
「え?」
思いもよらないことを言われて、アリエはベランダの手すりから乗り出す。
「どういうことですか」
とうじはいつもどおりの黒いスウェットで、肩までのびた髪をいじりながら煙草を吸っていた。
「星っていつでもあるじゃん。雲があったり街の光が明るかったり、太陽が出てたり、都合で見えないことの方が多いけど基本的にずっとなにかしらの星は俺らの頭上にあるでしょ」
ああ、なるほど。
「そりゃ、そうですね。でも、星がずっと頭上にあるっていうことを、忘れちゃうんですよね。そこまで気が回らないっていうか」
「まあね」
とうじがふっと煙を吐く。
「星を見る日なんて俺もほとんどなかったよ」
「え? 過去形?」
「最近は夜番ないから、よく見えるんだよね。今みたいに」
「警察官ってそんな融通きくんだ。シフト制みたいな、わけないですよね」
アリエが言うと、とうじは目を丸くして、けらけら笑い始めた。
「そんなわけないでしょ、公務員だよ」
「ですよね、とうじくんが暇そうに言うから」
「ちょっといろいろあったの。あんまり寝れてなくてさ、体調壊しちゃって。今は市役所勤めみたいな感じ。書類整理とか、打ち込みとか、取材対応とか、事務的なことばっかりやってて。その分17時には帰れるけど、なんだかね、暇ではないけど」
「捜査の方がやりがいがありますか?」
「そりゃそうだよ。捜査がしたくて警察官を目指したんだから。警察官になって7年たって、体鍛え続けてきたけど、まさか先に心が壊れるなんて思ってなかったよなあ」
とうじはベランダの手すりに突っ伏した。
ぷんと、お酒の匂いがする。
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