死への恐怖と生への執着
和泉ほずみ/Waizumi Hozumi
第1話
ふと、訊きたいことがいくつか浮かんだので、彼女に声をかけた。
「ねえ、人類はいつの日か、死への恐怖を克服するのかな」
こんな質問を彼女にするのは、なんだかバツの悪いことのような気がしてきた。そう思うと自然に、視線が彼女から外れてしまう。
「そうしたら、どうなると思う」
彼女は敢えて答えをはぐらかすかのように、儚い微笑を浮かべながら僕に質問返しを喰らわせる。
「死は怖くなくてはならないはずだよ。もしも死ねない世界があったなら、そこでは人々の尊厳が軽視されてしまうんじゃないかって思ってしまう。それが僕らの未来ならと考えると、気が気じゃないんだ」
僕はそんな、未来に対する突飛な不安について熱弁した。
「それは、どういう」
彼女だって、僕の目を見て話しはしないのだけれど。今日に限っては、他人行儀な二人だ。
「僕は死が怖い。でも、当たり前だと感じていたそんな恐怖心が、真っ向から否定されてしまうような社会があったなら、それは死への恐怖よりずっと、恐ろしいと思うんだ」
話しても大丈夫か。この話題を聞いて、不快にならないか。おっかなびっくりといったふうに、それでも僕は即席の持論をまくし立ててしまう。一時いっときの思考というのに固執してしまうのは、僕の悪い癖だ。
「死そのものへの恐怖心以上に、それをすっかり克服してしまうことの方が、怖いって言うんだ」
彼女がより端的に、要旨をまとめて復唱してくれた。
君は今何を見ている。僕は今何を見ている。何故目線がかち合わないのか。僕らは何を今更、恥ずかしがるというのか。
「きっと世界は、どうともならない」
と、彼女の声。
「え、うん」
僕の素っ頓狂な相槌。
「世界は変わらない。たとえ変わったとしても、そこに住む人々の根本にあるものは変わらない。と、思う」
「じゃあ、だったら、人はみんな、死ぬ?」
「……」
言葉を発するのが億劫になってしまったのか、彼女は少しの間だけ黙ってしまった。
「ぼ、僕は死ぬのかな」
「死ぬ。死ぬに決まってる。でも君は、自分がいつ死ぬかだなんてこと、分かりっこないから」
「ああ」
精神科の、閉鎖病棟。ここでの生活が始まり、もう3ヶ月が経つ。普段はこんな穏やかでない会話をしていると案の定看護師さんに説教をされるのだけれど、幸い廊下には誰もいない。今は深夜の2時前で、数人の夜勤の看護師さんが事務室で雑務をこなしている。僕も彼女も上手く寝付けず、ナースステーションへ眠剤を貰いに病室を出てきたところだ。
「今日、久々に来たんだ。死神が大きな鎌を持って、夢に出てきたんだ。きっと、僕が生への執着を忘れるのをまだかまだかと待機していて、でももう痺れを切らして迎えに来たんだ」
「へえ。君は人智を超えた存在というのを、知覚できるの」
興味を持っているのかいないのか、よく分からない曖昧な表情を浮かべていることだろう。彼女の顔を見ていないので、これは憶測に過ぎないけれど。
僕は用意しておいたもう一つの質問の方をふと思い出したので、彼女に投げかけた。
「ところで君は、今日はどうして……」
「生きるのが怖い。だから、早く眠りたい」
なるほど。
僕だって、生きているから死が怖いという感情が芽生える。
たしかにそうだ、生きるのは怖い。
でもなんでだろう。なんで生への執着というのは、知らず知らずのうちに芽を出して、大きく膨らんで成長していくのだろうか。
僕は生まれたいだなんて望んでこの世界に生まれてきたわけじゃない。
でもなんでだろう。なんでなのか分からないけれど、今、生まれなければ良かったとは思っていないんだ。
目の前の彼女だってきっと、
いや、決めつけるのはやめよう。
死生観って人によってまちまちの感性なんだって、僕はつい最近学んだばかりなんだ。
「明日も、生きていたらいいな。もう少し、この世界の今後を傍観していたい」
「そう」
明日の作業療法はカラオケ。
また、彼女と一緒だと嬉しいな。
死への恐怖と生への執着 和泉ほずみ/Waizumi Hozumi @Sapelotte08
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