ハードボイルド童話 さんびきのこぶた
北 流亡
さんびきのこぶた 1.藁
空気が、澄んでいた。
上弦の月が、静かに大地を照らしていた。
背の低い草がどこまでも広がる平原。その中に、藁の家が建っていた。
狼は、ゆっくりと、その家に近づいていた。「家」と呼ぶには、あまりにも粗末な造である。簡素な枝組に、藁を乗せただけということが、一瞥しただけでわかった。
狼は、正面から近づいていた。中の様子は、暗がりでよく見えない。然し、誰かが潜んでいる。それは確かであった。いや、待ち構えているという方が正しいだろうか。冷たく、静かな殺意。それが、剥き出しになっていた。
狼は、藁の家の2間(約3.6m)ほど手前で立ち止まった。強く、藁を睨む。誘いであることは、明白であった。そのために、敢えて弱い住処を作る。この家には、そんな住人がいるのだろう。
狼は低い姿勢を取った。脚に、力を溜める。どんな細工を弄しているかは、関係無かった。生態系の頂点に立つ者として、力で叩き潰す。今までそうしてきた。そして、これからもそうしていくだろう。
力を、解放した。一息に、距離を詰める。腕を振り上げる。瞬間、家が爆ぜた。視界に、藁が舞う。振り払うように、爪で薙いだ。手応えは無い。影が、目の端に映った。剣閃。右から来た。爪で受ける。狼は後ろに飛んだ。対手も、そうしていた。静かに、息を吐いた。月光を背に、対手の姿が浮かび上がる。
豚が、2本の剣を構えて、立っていた。
狼は舌打ちをした。被食者は、いつも小細工ばかり弄する。再び、低く構える。手を抜くつもりは初めから無い。
飛び出す。一直線に、豚に爪を突き出す。景色が流転した。狼は前のめりになる。陥穽に、足を取られていた。すかさず、豚が飛びかかってきていた。頭上。刃が落とされる。片手で払う。肩に、痛みが走る。もう片方の剣が、走っていた。豚は飛び退る。狼は咆哮する。咄嗟に躰を捻って深傷は避けた。然し、豚如きに傷をつけられたことが許せなかった。
徐に、立ち上がる。憤怒が、胸の内で激しく燃えていた。走り出す。一歩、二歩、三歩。そこで、また躓いた。浅い陥穽に、爪先が当たっていた。刃。飛来する。腕が、浅く斬られていた。闇雲に爪を振り回す。既に、豚は離れていた。
豚を睨みつける。豚も、狼を視ていた。
微風が、草を揺らす。
平原は草に覆われており、土はほとんど見えない。狼の背中に汗が滲む。陥穽が彼方此方に仕掛けられていることは、容易に想像できた。
一歩、後に退がる。無闇には動けない。不本意ではあるが、一旦呼吸を整えようとした。
風が動く。豚は狼の考えを見透かしたかのように、草と草の合間を地具座具に跳び、近づいてくる。斜から、2本の剣で斬りかかってくる。狼は迎え討とうと踏み込む。そこが、陥穽であった。右足が沈む。体勢が崩れる。すかさず、肩口を斬撃が襲ってきた。振り払う。またもや爪は空を切った。右肩に、細い線が引かれていた。
豚は、遠目から狼を見ていた。口元に、嘲りを浮かべていた。狼は怒りを胸中に抑えた。感情を、凝縮させる。決して、楽には死なせない。
狼は、一気には飛びかからないようにした。豚に追いつく、ぎりぎりの速度で走った。それでも陥穽には躓くが、隙は小さくなった。また躓いた。豚が、斬りかかる。甲高い音が響く。2本の剣と両腕の爪が、交差していた。狼は腕に力を込める。豚が後ろに弾かれる。加速度と重力、そして豚自身の体重を加えた一撃であった。それを、体勢を崩しかけた狼の膂力が、上回った。豚の頬を汗が流れる。
半刻(約15分)ほど、攻防が続いた。豚が何度も斬りかかり、狼が何度も防いだ。決定打は、無かった。豚の肩が上下していた。対して狼は、何箇所か切り傷があるものの、息一つ乱れていなかった。豚の攻撃は変則的であった。しかし、守りに徹すれば、防げないほどではなかった。
狼は口に笑みを浮かべる。牙が、露わになる。豚の眉間に、皺が寄っていた。狼は低い姿勢になる。豚の剣を持つ手に力が入る。
狼が駆けた。ぐんぐんと距離を詰める。陥穽に躓くことはない。既に、穴の場所は把握しきっていた。豚は剣を十字に構えた。豚も、陥穽が既に通用しないことを悟っていた。
狼の爪と、2本の剣が、強かに交差した。力が、膠着する。豚の頬を汗が流れる。狼が力任せに押す。豚の体がぐらりと揺れ、仰向けに倒れた。そのまま、狼は豚の上に乗り組み伏せた。
狼の口元が愉悦に歪む。浅傷だけとはいえ、豚ごときに、ここまで傷をつけられたのは初めてであった。楽には死なせない。四肢を引きちぎって、出来る限り苦しめてやろう。狼は、豚の右肩に力を込める。豚は、頬を目一杯膨らませる。
狼は、思わずのけぞった。針。左眼に突き刺さっていた。含み針を隠していた。狼は左眼を押さえて、豚を見下ろす。勝ち誇った笑みを浮かべていた。狼は右腕を全霊で振り下ろす。豚の顔面が、柘榴のように弾け飛んだ。
狼の肩が激しく上下する。熱の籠った息が、白く吹き出ていた。
頭を失った豚の体が、醜く痙攣していた。狼は思い切り蹴飛ばす。胴体が半分にちぎれ、平原を転がった。
狼の怒りは、収まらなかった。
この巫山戯た豚の一族を根絶やしにしてやらねば、この怒りは収まることが無いだろう。狼は確信した。
豚の臭いは、平原の奥の森から漂っていた。
狼は左眼から針を引き抜き、地面に叩きつけると、早足で歩を進めた。
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