黒衣の玉座
ガーナザリウスの異変に最初に気づいたのは、一行の後を行くゲイルだった。彼らがかつての故郷マシャンヴァルへ戻り、黒衣の王の座に腰を落ち着けた、その矢先。
それはもはや乾ききってひび割れた地面のような身体ではなく、闇夜から生まれた宝石のように、その肌は黒く艷やかなものへと戻りつつあった。だが……
「ガーナザリウス様、首元がまだ以前のままですぜ」
異変ではなかった、右の首元から肩口、さらには右腕が未だに戻っていなかったことを。
「なるほどな、薄々感じていたのだが」
「感じていた……とは?」
薄暗闇の中、王はその乾き切ったままの右腕を上げようとした、が。
「やはりな、奴が触れた場所。我が血肉がここから一向に流れようとはせんのだ」
弱々しく、ゆっくりと上げた腕からは、ぼろぼろと身体の破片がこぼれ落ちた。
「奴とは、ラッシュのことですかい?」
「ふむ、我が子孫……あれはそういう名だったのか?」
ふと口にした懐かしい名前に、ゲイルは左右にかぶりを振った。
「あ、いや。あくまで奴のは戦場で自然とつけられた名前なんでさぁ。自分には名前なんて無いと以前奴は俺に話してましたし」
ゲイルのその言葉を聞き、王は高らかに笑い声を上げた。
オルザン特有の血の色の石壁に、その声が大きく反響する。
「そうとも、それでよい。我らが黒衣には本来名など付けられぬのが定めであるからな。無き名前こそが真の名よ」
「しかし、例外は二つある」黒衣の間に深紅の床に小さな爪音を響かせ入ってきた者、ヴェールだった。
「ひとりはこの場に座す王、ガーナザリウス。そしてもう一人は……分かるかい? ゲイル」
突然問題をふられ、さしもの彼も、えっと大きく首を傾げた。
「つまり、黒衣の王の血を引いて、さらには名前を持っていた人ですかい?」
「ああ、しかし彼女はもうすでにこの世にはいないんだけどね」
ヴェールの出したヒントを聞き、王の左手の指の爪が、きぃ。と苛立ちの音を玉座に立てた。
「あの女か……」
「え、そんだけ有名な女性、王と同じってことはつまり」
「……それ以上はもうよい、二人ともその忌まわしき名を私の前で口にするのは許さん」
低く静まった王の怒りが、ゲイルとヴェールの喉をごくりと鳴らせた。喉元まで出掛かっていた答えと共に。
……………………
………………
…………
二人が去り、赤い灯りだけがともる王の間の中心に一人、王は立ちすくんでいた。
そしておもむろに彼は、そのはち切れんばかりの筋肉をたたえた左腕で右肩を掴み、渾身の力で乾き切ったままの右腕ごと引きちぎった。
痛みすら伴わない、そして血肉ですら通うことのなかったその肉体の一部は、瞬く間に砂塵のようにサラサラと崩れ消えていった。
「まあよい、新しい腕はまたあの小童に造らせればいいだけのこと、しかし……」
隻腕の王がまた、おぼつかない足取りで玉座のもとへと腰を下ろした。
「ラッシュ……か。よもや彼奴が聖女の徴を持っていたとは。これは誤算だったな」
そうして眠るように、ゆっくりと紅い瞳を閉じる。
「ディナレ……忌まわしき我らが唯一の娘よ……」
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