湿原の怪物 その3

相変わらず俺は馬に乗るのがヘタクソだったわけで。

つまりはシィレの連中の視界から消えるまで、俺はマティエの駆る馬にご厄介になっていたんだ。

「エイレとなんの話をしていた?」振り向くことなくマティエは俺にこう聞いた。

だが……そうだ、言いづらい。

「ラッシュ、俺がこういうのもなんだけど……あいつ、お前に惚れてる目してたぞ」

「え、えええええ!?」

並走していたイーグが横から口挟んできやがった。案の定ジールはこれまでにない変な驚きの声を上げてるし。


いや分かってるって、エイレは男だ。もうそこからしておかしい。でもって現時点では俺とマティエは夫婦ってことにされてるし、さらにおかしい。つーかもうわけわからねえええええ!

エイレが俺に話したことは、つまりこうだ。

「ラッシュさん、あなたのことを……追いかけてみたくなったんです」

追いかけるって一体どういうことだ、仲間になるのか? つーかお前ここのヘンサンとかいう仕事があるんじゃねえのか?

でもあいつはきっぱり「辞めます!」と断言しやがった。

それほどまでに俺のことを知りたくなって来たんだとよ。

「マシューネの歴史より、ラッシュさんの半生の方がずっと描きがいがあると確信したんです!」


うん、そう熱弁していたあいつの目がヤバかったんで、とりあえず答えは保留してさっさと俺は出て行った。


「エイレは一つのことに夢中になると、一気に周りのことが見えなくなる性格なんだ」

なんでもマティエの話によると、初めてマシューネにきた時、書庫に山と積まれた過去の国の記録を目にし「がんばります!」と一言だけ残し、食事の差し入れ以外には全く顔を出さずに……

「三ヶ月後、あいつは全部整理し、清書を終えたんだ」

巨大な蔵の奥では埃で真っ黒になったエイレが大いびきをかいて寝ていたんだとか。しかも一週間寝続けたまま。もはやマシューネでは伝説と化したんだとか。

「それにいたく感動したマシューネの我が王が、すぐさま大臣にも相応しい地位を与えてくださった……」明けの夜空を見上げ、マティエは大きくため息をひとつ。

「正直、嫉妬したさ……」

「でもあいつ、お前に惚れてたんだぜ?」と、つい胸の奥にしまっておいた言葉が漏れ出てしまった。


「……そうだったのか」

驚くこともなくマティエはその言葉を気にまた黙り込んじまった。


……………………

………………

…………


歩くたび、ずぶずぶと冷たい泥に足元が沈んでゆく。

親方の部屋の絨毯といい、こういう感触の地面はとにかく苦手だ。

「あたしも苦手。それに泥が乾くと洗い流すの面倒くさいし」

俺の背中におぶさったジールがそんなことを抜かす。いやいくら苦手だからって俺の背中から離れないのはちょっと……

「ンで、いつまで背中にへばりついてる気だ?」

「んー、怪物が姿を見せたら、かな?」

ふっふー、と上機嫌なジールは、俺の耳元に顔を寄せた。


……なんか以前にもこんなことあったな。あいつの吐息が耳をくすぐって、ちょっとだけ胸の鼓動が高鳴る。

「ラッシュは臭いけどさ、背中おっきいからすごく安心できるんだよねー、ほんと臭いのがアレだけど」


二度も臭いっていうな、泥の海に叩き落とすぞ。

「まあ俺っちとマティエは蹄だから慣れてるしな、へへっ」


目指す霧の湿原に着いたはいいんだが、視界は最悪だし足場は最悪だしでとにかく不快この上ない。ここで敵に襲われたらかなり面倒なことになりそうだ。

爪先が俺たちとは違っているからか、イーグたちはそれほど泥に足を取られることなく黙々と足を進めていた。ちょっとうらやましい。


だが……耳をすましても鼻を働かせても、一向に違和感のある感じはない。イーグがときおり早足で先行してくるんだが、やはり変わらずだ。

「おっかしいんだよなー、そこそこの人数のキャラバンが怪物になす術なく殺されたって話なのに、死体のひとつも転がってねーんだわ」

泥に沈んでるんじゃねーのか? と問いただしたが、その痕跡すらも残ってなかったそうだ。


ふとその時、背中のジールが黙ってと小さく告げた。

動かないで、そのままじっとして……


ずん……


ずん……!


泥で足の感触が鈍っていたから分からなかった。

立ち止まって初めて分かる、何か巨大な足音。

あちこちに生えている木々がびりびり小刻みに震え、波紋を刻みだす。

だんだんと……それは大きく!


やべえ……ジール背負ってるから斧が抜けないし!

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