パン屋の疑念

やれやれ、またワガママ姫様の呼び出しかよ。なんて半ば呆れながらも、王室御用達のパン屋=イーグは姫の部屋へと続く長い廊下を歩いていた。

とはいえ、ここまで自分の仕事がヤバくなるだなんて全然思ってもみなかった。

魚と肉さえあればどうにかなるだろって? バカなこと言うな。

穀物も野菜もなければ、肉体が徐々に不調を見せてくる。それは過酷な戦場で身をもって知ったこと。

最悪の場合は、死。

そう、いまのリオネング全土……たいして大きくもないこの国だが、半月前くらいからだろうか、突然田畑をはじめとする土壌が腐り始めてきたのだ。


それをいち早く感じ取ったのが、イーグたち獣人。

なぜかって? 基本的に獣人は靴を履くことがない。ゆえに土の悪さがすぐに感じとれたからだ。

ぬかるみのような……いや、もっと現実的な言い方をすれば「地中奥深くに腐った死体がたくさん埋まっている」。おびただしい死体を、一面の視界を覆い尽くすほどの戦死した仲間を埋めてきたイーグにとって、その例えこそが唯一無二であった。


「だけど、百歩譲って田畑の奥深くに死体が埋まってるとして、一斉にそれが腐り出すか普通?」

「ところが、それが正解なのじゃ」

やや固くなったパンに盛大にかじりつきながら、ネネルことエセリア姫はそうイーグに答えた。

平然とした顔つきで。

「やはりな、パンの質も味もかなり落ちたな」

「分かるだろ? 俺っちが説明しなくても」

腐り果てた土は特有の障気を発し、それは根を張る草木だけでなく、倉庫に保存してあったジャガイモや小麦たちをも瞬く間に腐らせていったのだ。

「幸いにもまだこの城に備蓄してある小麦たちは無事じゃ。これから少しづつでもお前の店に持って行くがいい。もう許可は取ってある」

「すまねえな姫様……だが持ってきたらさっさと挽かなけりゃならねえし、当分はお城と家の往復だな」

「いいではないか。妾も民の動きを知りたいしな。つまりはお主の情報を毎日聴けるのは心強いし、それに嬉しくもある」

「まあいいけどさ、こっちもこんな事態でかなり暇になったし……で、その、土腐れの原因って一体なんなんだ?」

ネネルは悪びれる素振りもなく「ラッシュとマティエたちの仕業じゃ」とすぐさま答えた。

「マジかよ……」ネネルの顔とは裏腹にイーグの息がぐっと詰まる。


「パデイラという、今では廃墟同然の街があってな、そこでデュノの奴が調査に行きたいと言いおったのだ。理由は簡単。あの高慢ちきな角無し羊が、自らの忌まわしき過去を断ち切りたいと言い出したのがことの発端らしい……」

獣人というのは思いつきでしか行動できんのか。と、ネネルは大きなため息で締めくくった。


「ンで、なんでまたパデイラにまで行こうとしたんだ? 姫さんの話すことにゃまだまだ裏がありそうな気がしてならねーんだけど」

「土喰らいのダジュレイ……そこには我がマシャンヴァルの高次の侍者がおった」

人間がいるのか? とイーグは言葉を遮ったが、姫はすぐさま「現生の存在ではない」と言葉を濁した。

姫の小さな唇が、またとつとつと言葉を紡ぐ。


「有ろうことか、お主らの仲間はダジュレイを殺してしまったのじゃ」

「ふん……ダジュレイって名前からして危険そうじゃねーか、それにマシャンヴァルの奴だろ? 殺したって別に……」


違う! と即座にネネルは鋭い声をイーグに放った。


「高次と最初に言ったであろう、つまりは……」

胸の前で拳をぐっと握り締め、あふれ出そうになる感情を押しとどめた。


「ダジュレイは、この世界の大地を常に見守っていたのじゃ!」

「え、ええ……ちょっと待てよ姫様、なんでそんな奴が神様みたいな事してるワケ? 第一マシャンヴァルって……」

「お主、マシャンヴァルが湧き水のように突然出てきた国だと思っておるのか? だとしたらそれは思い違いじゃ。よく聞け!」

ネネルの気迫に圧倒されたイーグは、思わず椅子から転げ落ちてしまった。

これは怒りだ。別に怒らせるようなことはなにも言ってないけれど……ヤバい、それほどまでの、初めて見る姫の、静かな怒り。



「……我がマシャンヴァルは、この世界に最初に誕生した存在なのだ」

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