私をさらって、ラッシュ

さてさて、ラボへと帰ってきたのはいいんだが、あたりには散らかりまくった本ばかりで誰もいない。


「僕がいなくなってからというもの、誰も足を踏み入れなかったですからね……」足元を見ると、見事に積もった埃で俺たちの足跡がはっきりとわかるくらいだ。

ルースが言うには、恐らくみんな薬草園に行ってるのではないかって、ってことでマティエの様子を優先したいあいつを後に、俺は……薬草園ってどこだ? ルースに聞くの忘れた。


このラボは城から結構離れた場所に設けられている。前にも言った通り、政治犯とか危険な連中を閉じ込めてたりする場所ゆえに、だ。

だから城の中でも一部の人間しか知らない。つまりは見回りだろうが衛兵だろうが誰もいない。

俺にとってはある意味好都合なんだが、逆に考えると……

「ネネルのところへ行ける!?」そうだ、ルースにお願いするより俺が先に行っちまった方が手っ取り早い!


結構危険な行為だということは百も承知だ。だが俺は一刻も早くあいつに、ネネルに事の次第を聞かないと気が済まねえ。

「あいついつも中庭から姿を現してたな……」それはいつもの俺の冴えわたる勘だ。きっとあの中庭に近道があるはず。

幸いにも巡回兵は多くなかったので、あの場所へはスムーズに辿り着くことができた。

お次は……と。吹き抜けになった空を見上げて、俺はあいつの名を呼んだ。


「ネネル、俺の声が聞こえるんだったら姿を現してくれ。今すぐお前に会いたいんだ!」

……なんて言ってもやまびこの様に俺の声が反響するだけ。

ってことで実力行使、一番背の高い木から、壁に這ったツタに爪をひっかけ、どうにかこうにか中庭の上へと。イーグの野郎と違って俺は斥候の技術に長けているわけでもなく、おまけにこのガタイだから上るのにも一苦労だ。っていうかなんで城まで来てこんな崖登りみたいなマネしなきゃなんねーんだ!


奇襲で回り道をする際に、切り立った崖を登ることは何度もやってきた。しかしここはそんな爪をひっかけられる場所がたくさんあるわけじゃない、指先の力だけじゃだんだん限界に達してきた。

下を見るな、下を見るんじゃない……高さ的に落ちたら俺の身体も無事じゃ済まされないだろう。いやそれ以前にこんなバカやってるのが城の連中に分かってしまった以上、俺も永久に牢獄に入れられてしまう……


つーか、ここを登り切った先に本当にネネルの部屋があるのか? って疑問が脳裏をよぎった。


ふと我に返る「なんでこんなことやっちまってるんだ」……ぁぁぁあ!!!

突然、雨ざらしで古くなっていた壁の端がボロっと剥がれ落ちた。

「やっっっ……ば!!!」手の爪をひっかけている場所が、まるで焼き立てパンの皮のようにべりべり剥がれて落ちてゆく。やばいやばいやばい!!!

懸命に空を切る手で引っ掛けられる場所を探し求めるが、今度は足の爪をひっかけていた壁が。


ー瞬く間に、俺の両手足の置き場所が、消えた。

「あ、やべえ。俺死ぬわ……」一気に周りの景色がゆっくり落下を始めた……その時だった。


「ラッシュ! そいつを咥えろ」!!!」落ちる寸前の俺の目の前に、ロープのような一本の縄らしきものが垂れ落ちた。

そうだ、俺には、まだ……!!!

咥えるんじゃなく、噛みついた。そのロープをガブリと。

幸いなことに結構硬くて頑丈なやつだ。俺はそれを手繰り寄せ、無事声の主のところへと上ってゆくことができた……助かった。

………………

「ふう……妾がここに居たからよかったようなものの。落ちたらまず命はなかったぞ」

ロープの正体、それはネネルがシーツやカーテンをより集めて作ったモノだった。

いや、それよりどうやって俺のこの巨体をその細腕で持ち上げることができたんだ……って逆に問いたかったが、今はそれより先に聞きたいことがあるんだ!


「ネネル、お前……」

「ラッシュ。お主の聞きたいことは言わんでもわかる。あの性悪女の心を乱したことじゃろう?」

「そうだ、なんでイーグを使ってあんなバカな真似をしたんだ! おかげで俺たちは今散々な目に遭ってるんだぞ!」

だがその言葉にも動ずることはなく、ネネルはあっけらかんとした口調で俺に返した。


「なぜそう息を巻くんじゃ? 第一お主にとってあいつの存在は目の上のタンコブでしかないではないのか?」

ああ、このチビ助の言うことはもっともだ。この半月あまり俺はマティエという女にずっと振り回されていた。別に俺に好意を持っているとかそういうわけでもなく、一方的な、そして勘違い極まりない逆恨みだ。だが……


「助ける意味は……一つある」

「ほほう、どんな理由じゃ?」

そうだ、唯一にして最大に理由、それは……


「俺のダチのイイナズケだからだ……」

ルースが愛した女だ、まだ馴れ初めとかは分からねえがそれ相応にあの性悪女を好きになった強い理由があるに違いない。そんなあいつの疲れきった悲しい顔なんて、俺は見たくないんだ!


ネネルはベッドに腰かけ、ふふんとまるで勝ち誇ったかのような顔で俺に告げた。

別に俺のその言葉に驚くわけでもないし……ほんとこの女、いや女性という種族の心の中っていうのは底なし沼みたいだ。何が潜んでいるのか皆目見当がつかねえ。


「はぁ……お主のためにと思ってこっそり仕込んでやったのにのぉ。すべてが無駄骨だったか」

「つまらねえ御託はいい、さっさとマティエを元に戻す方法を教えるんだ!」


「ふむ、教えてやってもいいぞ。だが一つ条件がある」

ほら来た。絶対この女は一筋縄じゃいかねえとは薄々感づいていたんだ。


「で、どういう条件だ……? お姫さんよ」

わずかに日の暮れた窓の外の景色を眺め、ネネルは俺に告げた。


「月が丸く満ちた……そう、月に一度の満月の夜のときだけでいい、私をさらえ」

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