02 フェルナン・モクレールという男
馬車が停まるとマチアスが横目で私を睨んだ。
「くれぐれも決死隊の誇りを忘れるな。それがお前の中にはないのだとしても」
「はい、マチアス様」
朝、ミルクを運んでいた私を拉致した男性の名はマチアス・エルヴェシウスといった。自由と平等の会を率いるエミリアン・エルヴェシウスの弟。獰猛な野生動物を思わせる雰囲気に氷の冷酷さが宿り、胸に革命の炎を燃やしている。プラチナブロンドの髪と真っ青な瞳を有する容貌は、数多の女性を虜にしてもおかしくないほど美しい。きっと悪魔はこういう顔をしているのだろう。
大きな御屋敷の前にいくつもの馬車が並んでいた。大規模な夜会だ。
緊張と恐れでお腹の奥が冷たく伸縮するのを感じた。ずっと吐き気を堪えている。
「何を訊かれても答えなくていい。どうしても不自然な状況になったら緊張しているとだけ言え」
「はい」
「それと、俺はマチアスじゃない。レノー伯爵でお前の兄」
「はい……お兄様」
「あとメロディというのは令嬢らしくない。メアリー。お前は、メアリーだ」
「……はい」
なんと呼ばれようと構わない。
メロディはもう死んだのと同じなのだから。
「行くぞ」
マチアスに続いて馬車を下りた。
生まれて初めて綺麗なドレスを着て、お化粧をして、男性と歩いている。たとえそれが叶わないとわかっていても、夢に見た美しい光景とは全てが違っていた。
私は今夜、人を殺す。
着飾った貴族が何人も御屋敷に吸い込まれていく。ここにいる全員が、飢えたこともなければ、きっと嵐の夜に怯えた事さえないだろう。寒ければ暖炉に当たり、暑ければ新鮮な果実で喉を潤して領地内の湖で泳ぐ。恵まれた人々だ。
屋敷に入る前から楽団の演奏が聞こえて来た。とても優美な旋律に少しだけ心が休まる。人を殺してしまったら、もう教会へは行けない。神さまへの讃美も、もう歌えない。
でも、やらなければ。
私をさらうような人たちだ。小さなニナなんて、本当に川に投げ捨てるだろう。
私が、やらなければ。
「ようこそお越しくださいました」
扉の前で挨拶されて外套を預ける。前広間は広く、輝く石の床に円形の絵が描かれている。あちこちで交わされる挨拶を聞きながら、場違いな自分が恥ずかしくて俯いた。どんなに飾り立てていても、私が偽物の伯爵令嬢で本当は汚い孤児だと露見している気がした。
私より少し前を歩き、マチアスは奥へと進んでいく。
「妹です。メアリー、挨拶を」
「……」
挨拶の際、マチアスは余裕たっぷりに笑いながら何度も促してきた。私は顔を上げる事もできず、ただ教わったように丁寧に膝を折って会釈するだけ。それが精一杯だ。
広間は既に賑わっていて、談笑と楽の音が煌びやかな雰囲気を一層高貴なものにしている。その一角で一際目を引く存在があった。深紅のドレスに身を包んだ、妖艶な女性。夜会の主催者である侯爵令嬢だった。
高く結い上げられたアッシュブロンドの髪は額や首筋に零れた房が細かくうねり、それ自体がシャンデリアの光を弾く宝石のようだ。そして、吸い込まれるような真っ青な瞳。マチアスの冷酷で狂暴な光ではなく、知性と情熱を宿した力強い眼差しが印象的だった。
とても美しい人。
この人の弟を、殺す。
マチアスに従い挨拶をする時も、私は震えていた。
「可愛らしいお嬢さんだこと。ぜひ楽しんでいって」
「……」
答えられない私の腕をそっと撫でる侯爵令嬢の指先があまりに優しくて、泣きそうになる。私は許されない事をしようとしている。あまりに恐くて、消えてしまいたかった。
マチアスが人の輪を離れて、巨大な花瓶のそばへと誘われる。その手には赤々とした葡萄酒のグラスがある。それを呑むマチアスを見ていると、本当に血のように見えた。
「最低限の事をお浚いしておこう。ここはグレーヴェンという土地で、ピエール・トゥーサン・モクレールという男が領主、よってグレーヴェン侯爵だ。氏名ではなくグレーヴェン侯爵やグレーヴェン卿などと呼ばれる。夜会の主はその長女のレティシア・ジゼル・モクレール。さっき挨拶した。彼女はグレーヴェン侯爵令嬢だ。理解しているな?」
「はい」
「グレーヴェン侯爵家嫡男のフェルナン・モクレールは爵位を継ぐまでレアンドルの領主を務める。よってレアンドル伯爵だ。レアンドル卿の他、当然グレーヴェン侯爵令息でもあるから特に今夜はフェルナン卿とも呼ばれる機会が多いだろう。レアンドルと聞いたらフェルナンの事だと思えばいい」
「はい」
「止むを得ず呼びかける場合は閣下と呼べ。女は無視しろ」
「……はい」
「お出ましだ」
マチアスが壁から背を浮かす。その目線の先を見ると、ちょうど広間に背の高い男性が入ってくるところだった。
一目見た瞬間、ドクンと胸が高鳴る。その人は煌めくような清い笑顔を浮かべ、見るからに歓迎されていた。吸い寄せられるように人々は男性に向かって行き、嬉しそうに挨拶している。媚びを売られているのではなく、とにかく好かれているように見えた。
そして、優しい眼差し。
一人一人に向ける眼差しに敬意と慈しみが篭められている。
あの人だ。
瞬間的にそう確信した。
「行こう」
マチアスの声にハッと我に返って後を追う。誰もがその男性に群がるのだから、私たちが近寄っていくのは決して不自然ではないはずだ。何人もの令嬢が黄色い声を上げながら男性に挨拶している。
彼こそが、私が命を奪う相手、フェルナン・モクレールその人だった。
じりじりと距離が縮まるにしたがって、心臓が信じられないほど暴れ、もう喉から飛び出してしまうのではないかと思うほどだった。やがて順番が巡ってきて、マチアスがレノー伯爵として挨拶を済ませる。次いで紹介された私は、耳鳴りと高鳴りすぎた鼓動のせいで頭痛までしていて、じきに眩暈に襲われる事はわかりきっていた。
「ようこそメアリー嬢。フェルナン・モクレールです。どうぞよろしく」
私にさえ、挨拶をしてくれる。
咄嗟に膝を折ってお辞儀をし、恐る恐る顔を上げた。
「!」
目が合った瞬間、彼の青っぽいグレーの瞳に射抜かれた。
息が止まる。音が止まる。
世界にはまるで彼と私の二人きりしか存在しないかのような錯覚に陥った。
二人だけの世界が花開くように音楽を奏でる。彼は朝日に咲く大輪の向日葵のような笑みを浮かべ、煌めく瞳をまた揺らした。
「……っ」
眩しい笑顔が耐えられず、再びお辞儀する。手がガクガクと震えてしまって、一刻も早くこの場を立ち去りたくなった。マチアスが何か言い訳じみた事を言っている。すると彼が大きな体を折って私の顔を覗き込んできた。
「!」
驚いて後ずさる。
彼は優しい微笑みを絶やさずに、そして穏やかな口調で言った。
「だいぶ緊張されている。少し風に当たったほうがいい。よかったら私と来てください。すぐそこのバルコニー。音楽も聞こえますし、兄上の目も届くから安心ですよ」
「……」
低くてはりのある、それでいてまろやかな低い声。彼は大きな体をした砂糖菓子のようだ。でもそれもおかしな話だった。姉のレティシアより濃いダークブロンドの髪も、煌めく青味がかったグレーの瞳も、それだけを見ればあたたかさよりは厳しさを感じさせる。唯一、自堕落な貴族という先入観を覆すとても健康的な肌が、若さと健康を象徴しているけれど。
フェルナン卿が一歩で距離を詰め、肘を張った。
「さあ、メアリー嬢。私と一緒に」
「……」
マチアスを見ると、善き兄のふりをした微笑みで小さく頷いている。
私は恐れながら、戸惑いながらも、彼の肘に手をかけた。礼装の上からでもわかる逞しい腕の感触にどきりとする。とても頑丈そうだ。この人の命を奪うなんて、本当にできるのだろうか。
「参りましょう」
彼に伴われバルコニーへ出た。
途端に音が遠くなり、夜風が吹き抜けていく。まるで身を洗われるような心地よさにほっと息をついた。手すりの所まで来るとフェルナン卿は腕を解いた。そうして広い闇を見おろすように手すりに肘をかけて寄りかかり、くすくすと笑う。私は隣で戸惑って彼を見つめていた。
月灯りが照らす彼の姿は、御伽噺の王子様のようだった。
「どうですか。少しは落ち着いたかな」
「……ぁ、はい」
「やっと声が聞けた」
横目で私を見て、目尻を下げる。そのとても優しそうな顔を見て、切なくなるのと同時に今夜の事を考えてますます恐ろしくなった。私が何をしようとしているか知る由もないフェルナン卿は、穏やかな口調で続けた。
「倒れてしまうかと心配しましたよ。初めての社交界でもあなたほど緊張している女性を見た事はない。なんとかしてあげなくてはと、つい勢いで連れ出してしまいました。不作法をお許しください」
「い、いえ……」
また優しく微笑みかけて、フェルナン卿はそれきり黙り込んだ。でもそれは、息を整える時間を与えてくれているのだとわかる。確かに私には時間が必要だった。せめて卒倒しない程度には心拍数を整えたい。暗闇に目を投げて深呼吸を繰り返す。
しばらくして、彼がまた口を開いた。
「この下は庭園です。もう少し明るい月夜なら花の色も見えますが、なんだかわかりませんね。もし明日の朝までいらっしゃるなら、ぜひ散歩なさってください。花は好きですか?」
「あ……」
なんと答えるべきか迷い、完全に機会を失った。花は好きだけれど、私が見るのは道に咲いている野花だけで、こんな広い御屋敷で育てられるような高価な植物は見たこともない。何が好きかと花の名前を訊ねられたら、答えられない。
「そうか。今夜帰るんですね。わかります。あの厳しそうな兄上じゃ、初日から自由にしてはくれないでしょう」
「……」
マチアスの事を言われて一気に緊張と恐怖が戻ってきた。
その変化を敏感に感じ取ったのか、彼の声がいっそう低くなる。
「兄上が恐い?」
けれどその声はどこまでも穏やかで、優しい。
「少し可哀相にも思ったんですよね。あなたは怯えているように見えた。悪口を言うようだけれど、なんだか妹というより物を見せびらかすみたいでした。そういう男は多い」
「……」
「似ていませんね」
何も言えない。
ただ、彼の思いやりと優しさばかり伝わってくる。フェルナン卿はそのあとも、私の緊張をほぐそうとするように穏やかに話し続けた。
「まあ私も姉とはあまり似ていません。瞳の色くらいです。あなたはとても綺麗な瞳をしていますね。でも恐がりな猫みたいだ。大丈夫、今夜は私が守ってあげますから。ヘーゼルなのかな。私の瞳も、よく見ると若干ですが黄色が入っているのです。夜じゃあどうやったって見えませんがね」
ああ、この人を、殺すのだ。
私はより一層深い絶望に呑み込まれ、愕然と彼を見つめた。
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