暗殺令嬢は伯爵の愛に溶かされる
百谷シカ
01 誘拐と暗殺計画
雨が降りそうだった。
ああ、どうしてこんな事になってしまったのだろう。
腕を掴まれて、あっと思った時にはもう体が浮いていた。強引に馬車へ引きずり込まれる間、恐くて声も出せなかった。男性二人が横と前に座り、まるで私なんてそこにいないかのような冷たい空気に圧し潰されそうだった。汚れたスカートの上で震える拳を握りしめて、ただ神さまに祈った。でも、涙は零れた。
馬車はやがて街に入り、一軒の古そうな家の前で停まった。初めて隣の男性が私と目を合わせ、その冷たく鋭い視線は肌に刺さるようだった。下りろ、と命じられている。震えて自由にならない体をなんとか動かして私は馬車を下りた。
古そうな石造りの一軒家は、小さいけれど頑丈そうだ。
前後を男性に挟まれて、開かれた扉に押し込まれる形で中に入った。狭い階段を上がる。二階は薄暗く、カビの臭いがした。三人の男性がいた。合わせて五人、身形から上流階級に属している事がわかる。でも、だからそこおかしい気がした。彼らはこの部屋に似合わない。
襤褸と言っていいほどのくたびれた木の机が窓の傍にあって、男性のうち一人が椅子に座って考え込むような様子で指を組んでいる。脇に二人が立ち、私の前後にいた男性も私の左右に分かれた。入ってすぐ、私の真正面には粗末な椅子が一つ。
背後で扉が閉まる。
「かけたまえ」
机についている男性が言った。息が震える。なぜ連れてこられたのか、全く覚えがない。なにも悪い事はしていないし、精一杯やってきた。お祈りもした。小さな子たちの面倒も見てきた。
「……っ」
ああ、どうしよう。
ミルクをあげないと、あの子……
「なにも取って食いはしない。座りなさい」
机の脇に立つ男性が、いくらか柔らかな口調で言った。それはこれまでの沈黙とこの張り詰めた空気のなかだからそう感じるだけで、優しさは微塵もない。十の目が全身を突き刺す。恐い。耐えきれなくなって、私は椅子に座った。
涙が止まらない。
歯を食いしばっても、どうしても声が洩れてしまう。
膝の上でスカートを握りしめて、必死で耐えた。
「名前は?」
「……ッ、……メ……ィ」
「聞こえない」
「メロディです……! お、お願いします……ッ、助けてください……!」
一度懇願すると、それしかないように思えた。
でも嗚咽をこらえ正面の男性に必死で訴えようとしても、言葉が続かない。男性は組んでいた指を解いてゆったりと座り直した。その視線が私の左上にずれた。
「どうやら君は、随分な勘違いをしている」
どこか促すような視線だった。
私を馬車に押し込み、背後から左側に移っていた男性がすっと前に進み出る。それだけで恐怖が倍になって、私は泣きじゃくりながらその人を見あげた。殴られるのだと思った。
「我々は君を同志に迎えたい」
「……ッ、……ひっく、……?」
混乱が恐怖を越える。意味がわからなくて、机の男性と斜め前に立つ男性を交互に見ていると、窓の外で雷が鳴った。つい椅子の上で飛び跳ねてから、それより恐い事が目の前にあるのだと絶望した。
「な……なんですか……っ?」
雨が降り始めた。
灰色の空から大きな雨粒が落ち、窓を叩く。
「『自由と平等の会』というのを聞いた事は?」
「わかりません……ッ」
泣きながら答えると、男性たちは呆れと困惑を混ぜたような溜息をついた。酷く恥ずかしくて、また嗚咽が洩れる。私はこの男性たちとは違う。そういう会があるのかもしれないけれど、どういうものなのか見当もつかない。
帰りたい。
「君がみすぼらしい格好をしているのは、なぜだ」
斜め前から少し振り向くような角度で、男性が見おろしてくる。その真っ青な瞳は氷のように冷たいのに、炎のように爛々としていた。答えなければ、きっと恐い目に遇う。
私は必死で息を整え、できる限り礼儀正しく答えた。
「私は、平民で……貧しい孤児だからです」
男性が頷く。
「そうだ。下々の人間がその日のミルクも満足に飲めず腹を空かせている一方で、浴びるように飲み、パンだけじゃ気が済まず焼き菓子を作り、顔や体に塗りたくる連中がいる。奴らは肥えた体を贅沢な服にねじ込んで、香水や宝石で飾り立て、毎日酒に溺れ遊び暮らしている」
「……」
ミルク。
バーナデッドさんが自分も苦しいのに毎日少しずつ分けてくれるミルク。馬車に乗せられるとき零してしまった。小さな子たちが、お腹を空かせて待っているのに……
「憲法が成立したところで奴らは変わらない。芯まで腐りきり、下々の人間の血と汗と涙が作りあげた楽園で享楽に耽っている」
「一つの指輪で何人の命が助かると思う?」
「奴らが食いきれずに腐らせるパンや肉があれば、君たちみんなが腹一杯になれる」
「汗水垂らし、痩せ細り、必死で働いてもやっとその日が凌げる程度。私たちはそんな世の中を変える。貴族社会を打ち壊し、誰もが平等に暮らせる社会を作るのだ」
窓を背に座っている男性を除いて、四人が口々に言うのを聞きながら、私の中の恐怖が密かに姿を変え始めた。
いくら祈っても、神さまはパンをくれなかった。
いくら祈っても、助けてくれなかった。
「……」
気づいてはいけなかった。
気づかないふりをしなければ、生きてはいられなかった。
私が貧しく生まれついたように、すべてを与えられて生まれた人たちが同じ世界にいる事を。
「君は欲しいと思わないか。安らぎと自由に満ちた、豊かな暮らしを」
最初とは違う涙が静かに頬を伝っていた。
そうか。彼らは革命家と呼ばれる人たちだ。なぜ私が連れてこられたのか全くわからないけれど、確かな事が一つあった。
私は無力で、塵のような存在だ。
その日その日を生きるのがやっとで、とても現実に立ち向かうような力は沸いてこない。
「……帰らせてください……」
口答えと思われたかもしれない。でも、他にどうしたらいいの?
「君は使命を果たすまで帰る事はできない」
「!?」
傍に立つ男性に断言され、再び焦りと恐怖で身が竦んだ。
「ど、どうして……っ」
「最初に言ったように、我々が君を連れて来たのは同志に迎えるためだ。貧しい少女に腐った世の中を説明してやるためじゃない」
「私、なにもできません……!」
必死で首を振った。
勘違いしているのは彼らのほうだ。
「なぜ自分が選ばれたと思う?」
机の男性が静かに言った。
「え……?」
「君はなにもしなくていい。そうやって不安そうに涙を浮かべて弟の傍に立っていれば充分だ」
なにを言っているのか、わからない。
「君は若く、儚く、とても美しい。その怯えた猫のような瞳は男を惑わす」
「……」
「痩せているが、必要な所はなかなかいい形だ。もう少しまともな食事を摂れば見違えるだろう」
得体の知れない新たな恐怖が襲ってきて、ひたすら首を振る。
嫌だ。そんな事は、したくない。
「勘違いするな。情婦になれとは言っていない」
斜め前の男性にぴしゃりと言われ、また身が竦んだ。そういえば二人はどこか面立ちが似ている。白に近い金髪と真っ青な瞳。兄弟だ。
いつの間にか自分で自分を抱きしめていたのは、心底怯えているから。
震えが止まらない。
「君であれば、情事に持ち込まずともその目で甘えて見せるだけで機会は作れる」
言葉を失っていた私を見据えたまま、机の男性が優雅に立ち上がりこちらへ来た。
「弟と夜会に赴き、ある男と会って欲しい。グレーヴェン侯爵家嫡男でありレアンドル伯爵、その名をフェルナン・モクレール。奴と二人きりになり、殺せ」
「──」
一切の感情が消えて、頭が真っ白になる。それが徐々に形を取り戻し、これまで感じたことのない絶望と恐怖に閉じ込められた。
「で、できません。そんな」
「でなければ君が川に浮かぶ」
「……」
私が、殺される……?
なにをどう考えたらいいのかわからずに、私は黙って泣き続けた。ただもう後戻りはできないのだと悟る。最初からよくない事が起きていると気づいていた。私はついに、地獄に落ちるのだ。
でも……
人を殺すなんて、そんな罪深い事はとてもできない。
やろうと努力したところで、私にはできるはずがなかった。そんな私の心などお見通しで、男性は残酷な言葉を続ける。
「手を抜いたりわざと失敗したら、君の代わりにあの子を川に捨てよう」
「……!」
思わず立ち上がりかけた私を、弟のほうがぐっと押さえつけて座らせた。信じられない。私は見られていたのだ。偶然ではなくて、本当に、選ばれた。
「特別に可愛がっている子がいた。二つか、三つ。生まれつき目が見えない」
「ニナに手を出さないで!」
「ニナか。あの子は君がいなくては生きていけない。そうだろう?」
「……っ」
唇を噛んだ。
その時、信じられない事が起きた。男性が片膝をついて、強張る私の手を恭しく掬ったのだ。手の甲に渇いた唇が当たる。あまりに悍ましくて全身が粟立つ。そして──
「私はエミリアン・エルヴェシウス。君の友だ」
彼は上目遣いに私を見て、悪魔の微笑みを浮かべた。
「ようこそ、メロディ」
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