第10話 1000年生きたかった狐

「ごめん……お兄ちゃん」

 夕闇の中で聞こえたヨウコの声で呼吸が落ち着き、その理由に気付いた。

「バイト先で、やっちゃったんだ」

 すすり泣きが聞こえていた。僕は黙って、だいたいの見当をつけた辺りにあった頭を撫でた。

「気にすんな、済んじゃったことだ」

「でも……」

 わあっと泣き出したのを、俺はしゃがみ込んでなだめた。しゃくりあげるのを抑えようと、背中に手を回したところで、何かふさふさした温かいものに触った。

「きゃっ!」

 尻尾だったらしい。またかと思ったが、興奮していたヨウコは、それでかえって正気に戻った。泣きやんだのにほっとして、撫でるつもりだった背中を叩いた。

「帰るぞ」

「どっちに?」

 からかうような口調も元通りだ。僕は薄闇の中を歩きだした。

「手ぶらじゃバスに乗れないだろ」

「乗ろうとしたくせに」

 そう混ぜっ返すヨウコは嬉しそうだ。

「やったね……ちょっと遅かったけど」

「うるさい」

 まだ、肝心なことは言ってない。話をそらすために、僕は別の意味で肝心なことを聞いた。

「で、何があったんだ?」

「え……その……」

 ヨウコの声に泣きが入って、僕はいささか早口に言葉をかぶせた。

「怒らないから」

 すうっと息を吸い込んだところで、今日の失敗談が始まる。


「最初は、うまく行ってたんだ。開店前の掃除もできたし、店の注文も取れたし、お代の計算間違えなかったし……」

「偉いぞ」

 傍らを歩いているのを見もしないで、頭を撫でてやる。へへ、とヨウコは照れくさそうに笑った。

「でも、お昼に……」

「お昼に?」

 ヨウコにとってはお楽しみの、油揚げ醤油ご飯が待っていたはずだ。だが、そこでまた、ヨウコは口ごもった。問題は、そこで起こったらしい。

「怒らないから……」

 なにぶん、今後の食い扶持が懸かっているだけに、さっきと同じ言葉は歯切れが悪かった。事の大きさによっては、すっ飛んで戻って詫びを入れれば済む問題かもしれない。それでも、ヨウコはようやく重い口を開いた。

「油揚げ醤油ご飯食べてるうちに……」

 嫌な予感がしてきた。もしかすると、とんでもないことになったかもしれない。

「話してよ」

 さっき岬さんに気持ちを告げようとしたときと同じくらい、でも別の意味で心臓がバクバク鳴った。

 とはいえ、さっきよりは遥かに気は楽だった。もう、どうにもならないという気がしていた。

 ヨウコは、言い訳がましく余計なことを話しはじめた。

「美味しくって、何倍もお替りしたの。それで、いつの間にか、お櫃も空になって、それで……」

「手短に」

 まかないを残らず食べてしまった時点で、バイト先にはもう、顔を出せない気がする。でも、それはこっちの問題で、店からクビになるなんてことはないだろう。

 だが、ヨウコの答えは最悪の処遇を納得させてくれた。

「我慢できずに、人の丼にまで飛びついちゃったの」

「そうか……」

 他の店員とのトラブルを起こしたら、それはクビだろう。しかも、極めつけはこれだった。

「そんとき、尻尾出しちゃったんだ、四つん這いで……」

 さっきもそうだったけど、その姿は誰にでも見える。尻尾までは、見た者の気のせいで済むだろう。でも、両手をついてしまったのはアウトだ。完全に、正気じゃない。

 いわゆる、いや、文字通りの「狐憑き」というヤツだ。

 学校にも連絡されたろうから、バイトそのものができなくなるということになる。

「じゃ、しょうがないな」

 絶望で全身から力が抜けたが、その分、落ち着いた。冷静に考えてみれば、別に校則や法律を犯したわけじゃない。罰を受けたり学校をやめなくちゃならなくなったりはしないだろう。

 そこまで結論が出ると、気持ちがすっきりする。

「ごめんね」

「気をつけろよ」

 つまらない失敗をたしなめるかのような言葉を交わしながら、僕たちは実家の灯を目指して夜道を歩いた。

 その間に、思い当たった不思議が1つだけある。

 バイトをクビになったとヨウコが告げたとき、その姿はオフクロには見えなかった。それが岬さんに聞こえたということは……。


 家に着いて両親の顔を見たとき、僕には話さなければならないことができた。

 今後の身の振り方の問題だ。

 もうバイトができない以上、このまま学校へ通う方法は1つしかない。

「軍の奨学金を受ける」

 玄関口から一歩も上がらずにそう告げたとき、オフクロは露骨に暗い顔をした。

 親父はというと、口元に笑みを浮かべて、ゆっくりと頷いた。

「それも男の生き方だ」

「何言ってるの、父さん!」

 いつになくきつい口調で、オフクロがたしなめた。

「こんな時代に、死んだらどうするの!」

「お前らはいつも一足飛びに話がそこへ行く」

 お前ら、というのがオフクロと誰を指すのかよく分からなかったけど、たぶん戦争や軍隊の派兵に反対する人たちだ。ときどき、横断幕上げてデモかなんかやってるのをテレビで見る。親父はしばしば、そういう人たちを小馬鹿にするところがあった。

 台所でつけっぱなしにしているらしいテレビから、紛争関連のニュースが流れてくる。


「アフリカでの文民保護を目的とした派兵を承認した政府に対し、軍事同盟による追随と非難する国々は、敵対行為については例外なく武力行使を含めて制裁するという声明を……」


 平然とした口調で、親父は持論をまくしたてる。

「入って1年や2年の教育中に、命のかかるような所に送られたりはせん。戦地に送られると言ったって、そんな大事なところでペーペーのぺーに何ができる。勝てる熟練にしか、そんなところは任せられんだろう。なに、年季が開けるまでの話だ。太平洋戦争の末期じゃあるまいし、それまでにコイツが駆り出されるようなことはない」

 その勢いに押されてオフクロは黙り込んだが、そうじゃないのが1人いた。

 いや、1匹というべきか。

「そうかな」

「何か言ったか?」

 僕が言ったと親父が思うのも当然だ。

「いや、何にも」

 ごまかしたけど、ヨウコの声は止まらない。しかも、僕の声色だ。

「あのときも、この辺の大人たちはみんなそう言ってた。ううん、その前から、何か戦争が起こるたびに、ずっと」

「お前は何を言っとるんだ?」

 親父は眉をひそめた。

「いや、僕じゃなくて」

 きっと顔を見上げたヨウコを目でたしなめたが、口で言っても聞かないのに黙るわけがなかった。

「もっとタチが悪かった。だって、みんな勝つつもりでいたもん。自分とか自分の家族が死ぬなんて思ってなかったもん。自分たちだけは、ここだけは関係ないって気でいたもん。誰か死んでも、自分でなくて、家族でなくてよかったって……」

 涙声はもう、僕のものではなくなっていた。親父もオフクロも、ただ茫然としている。

 まるで、狐に化かされているかのように。

「それで、気が付いたら、この辺の若い人、何人もいなくなってた。帰ってきたのは、桐の箱に入った石ころだけ。ううん、帰ってきたんじゃなくて、返されたの。狐に化かされたみたいだって、こっそりみんな言ってた。そんなことのできる狐なんて、もうずっと前にいなくなってたのに……」

 いけない、と思った。ヨウコのハーフパンツがずれかかっている。狐色の尻尾の先が、ちらっと見えていた。

「じゃあ、僕これで!」

 ヨウコの手を引いて、慌てて玄関を飛び出した。

 親父の怒鳴り声は聞こえてこなかった。代わりに耳の奥で引っかかったのは、オフクロとのこんな会話だ。

「才、何か言ってたか?」

「さあ、さっき出がけに何か言ったみたいだけど……」

 とりあえず安心できたのは、お互い、何かトボけているみたいに聞こえたことだ。


 バス停まで走って行くと、もうすっかり暗くなっていた。バスが来るまでは、まだ30分ほどある。

 ヨウコが済まなそうにしょげているのは、何となく分かった。

「大丈夫、お互い、変な幻でも見たと思ってるだろうさ」

 たぶん、自分たちが玄関で見聞きしたものは、親父もオフクロも一生、口にはしないだろう。それだけで充分だ。

 だが、ヨウコは別の意味でよほど気にしているのか、ピント外れのフォローをする。

「ううん、お父さんの言ってることが多分正しいの、アタシが言ってたの、昔の話だし、そんなに簡単にお兄ちゃんが死んじゃうなんて、ありえない」

 確かに、戦争で死ぬかもしれないと思ったからこそ、軍の奨学金は避けてきたのだった。でも、よくよく考えてみれば、親父の言うことのほうが現実的だ。だからこそ、みんな気楽に学生生活を送って、卒業したら年季奉公に出ているのだろう。

「そうだな、そう簡単に死んだりしないよ……でも、ありがと」

 そこまで心配してくれたのが、嬉しかった。

「全部、お前が見てきたのか? すごいな、やっぱり100年生きた狐は……」

 重い話をうまくそらしたつもりだったけど、思いのほか、しんみりした言葉が返ってきた。

「そう、全部、ひとりで」

「ひとり……?」

 この辺にはまだ狐は出るけど、100年なんてのはそうそういないだろう。ましてや、1000年なんていうレベルの妖狐がいなくなっていても不思議はない。

「みんな、どこへ行ったんだ?」

「アタシが小さい頃に、消えちゃった」

「そうか……」

 死んだ、とは言わない。やっぱり、認めたくないんだろう。

 そう思って、それ以上は聞かないことにした。だが、狐には狐の複雑な事情があったらしい。

「狐龍って知ってる?」

「コリュウ?」

「狐はね、1000年生きると、龍になるの」

 知らなかった。いや、別に人間が知らなくてもいい話だ。重い話題じゃないのに安心して、聞いてみた。

「飛んでっちゃったの?」

「飛んでっちゃった」

 籠の鳥を逃がしたみたいな軽い言い方に、ツッコんでみた。

「どこへ?」

 100年生きたヨウコが人を化かす上に、そんなとんでもないものがそこいらを飛び回っているとは思えなかった。だが、その名を口にした張本人は、さらりと言った。

「知らない」

 共に生きた仲間の消息ぐらい、知っておいてもよさそうなものだ。そこで、聞き方を変えてみた。

「どうなったの?」

「龍になると、3年で死んじゃうって聞いたことある」 

 やっぱり重い話だったが、ヨウコは事もなげに言った。それはまるで、生死を達観した哲人の言葉のようにも聞こえた。

 だから、僕も軽いノリで尋ねられる。

「お前も?」

「う~ん、分かんない。狐って、無理な妖力の使い方すると死んじゃうらしいし」

 深刻な話題のはずなのだが、やっぱり口調は軽かった。

 なぜ、ヨウコが僕について街中に出てきたのか、だいたい見当がついた。

 寂しかったのだ、ただ単に……だが、それはあと900年も続く孤独だ。 

 暗い雰囲気にならないよう、さらにツッコもうかと思ったけど、バスが来たのでやめた。

 ステップを上がると、車内の電光掲示板にニュースが流れていた。

「隣国との緊張に警戒、ミサイル移動……」

 そこまでしか読めなかったのは、ヨウコがいたずらっぽく囁いたからだ。

「あ、そうだ、最後の1匹は、人間のお嫁さんになったんだっけ……なんか、病気で死んだ女の人の身代わりになったんだって。覚えてる、日本晴れの空から、雨がパラパラ降ってさあ……」

 また、胸が微かに痛んだけど、なんとか倒れずにこらえた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る