第7話 恐るべし、田舎の噂

 僕の実家では、第一次世界大戦が終わる頃まで狐が人を化かしていた。

 青島攻略戦に勝利して凱旋した男が1人、意気揚々と帰ってきたが、着いたのが夜中で駅の辺りに泊まるところがなく、友人に自転車を借りて帰宅を急いだ。知った道のはずなのに、どうしても家にたどり着くことができず、いつの間にか広い河原に迷い込んでいた。渡れる橋も見当たらないので、自転車をかついで向こう岸へ行こうとしたところ、川は意外に深い。足の着くところを探して、冷たい水の中をあちこちうろうろしていた。

 やがて夜が明けたとき、彼は家から遠く離れた、草深い荒れ地で自転車を背負ったまま立ち尽くしていたという。


 近代に入ってもそんな話が平気で語られていた田舎に岬さんを連れていくまで、1週間とちょっとが残されていた。僕とヨウコが周到な準備を積み重ねるには、充分な時間だった。

 まず僕のほうは、日曜の朝から晩までかけて、必要なことを調べ尽くさなくてはならなかった。そのために必要だったのは、今まで得られた情報を岬さんと整理して、何についての情報が欠けているのか確かめることだった。

「まず、分かっているのは、父さんは婿養子で、その家系はこの辺りから出たことがないってこと。母さんのほうは、ちょっと複雑」

 岬さんがそう説明する間、いつもはうるさいヨウコも、僕の正念場だということを弁えてか、おとなしく隣の席に座っていた。

 由良家は母方の姓で、戦後の高度成長期にこっちへ出てきたらしい。その祖父は、婿養子だ。つまり、2代にわたって婿取りの家系だったわけだ。因みに僕の親父は前近代的に頭が固くて、「小糠三合あったら婿に行くな」を信条としている面倒臭い男だ。だから何だと言われても困るが。

 岬さんの報告は、さらに続く。

「お祖父さんは、第二次世界大戦で、ニューギニアの戦場から奇跡的に生還してる」

「ジャワは極楽、ビルマは地獄、生きて帰れぬニューギニア……って戯れ歌があったらしいね」

 これもヨウコから仕入れた知識だ。100年も生きていた妖狐は人間たちの会話をよく覚えていた。

 岬さんは感心してくれたらしく、にっこり微笑んで話を続けた。

「でも、足に重傷を負ってたから、もう疎開するしかなかったの」

 その頃の姓は杵築といって、父親は第一次世界大戦で出征した次男坊だったという。ただし、他の家族が、当時流行したスペイン風邪で全て死んでしまったので、家を継がざるを得なかったらしい。

 そこでヨウコが口を挟んだ。

「それ、何か聞いたことある」

 僕に睨まれて、ヨウコは沈黙する。そんなことは、ちゃんと調べて知っていた。

「当時の世界的なインフルエンザのことだね。感染したスペインの王族が次々に死んで、この名前がついたらしいけど……」

 岬さんは微笑みで僕の努力に報いてくれたが、それが及ばないところには、きっちり口を挟んだ。

「スペインは、第一次世界大戦の中立国だったから。国内の伝染病って軍事機密だから、戦争やっている国はひた隠しにしたのね」

 ツッコまれたのをごまかすように、僕はそれた話を元に戻す。

「で、その実家が代々、宮司だったっていうわけか」

 もちろん、強引に話を引き取ったのは、岬さんの口から実家の話が出るのがイヤだったからでもある。だが、それは結局、ムダなあがきに終わった。

「ううん、結婚した相手の父親がね。でも……それと浅賀君の実家がどうつながるの?」

 言い出したのは僕なんだから仕方がない。本当は、現地(あくまでも実家とは言わない)に行くまで、よく知らないことは口にしたくなかったのだ。やむを得ず、「狐ネットワーク」でヨウコが仕入れた情報を少しずつ受け売りする。

宇迦之御魂神うかのみたまのかみ」って知ってる?

「日本神話の、五穀豊穣の神ね。杵築家が祀っていたのは、その神様だけど……それがどうかしたの?」

 ここからは、知っていることだから、きちんと説明できる

「実家の神社には、信夫ヶ森ってところにあって、そこには狐がいっぱい住んでたらしいんだ」

「つまり、どっちも稲荷信仰ってことね。でも……」

 そこで、岬さんは言葉を濁した。

「どうしたの?」

 気になって尋ねてみると、言いにくそうな答えが返ってきた。

「稲荷神を祀った神社って、日本中にあるから」

 つまり、僕とヨウコが1週間かけて調べたことは決め手を欠いていたわけだ。狐ネットワークが、またガセネタを仕入れてきたのかもしれない。もしかすると、わざわざ実家まで連れていって、岬さんのねぎらいを受けながら赤恥をかいて帰ってくることになるかもしれなかった。

「ごめん、でも、もしかすると……」

「大丈夫、楽しみに待ってるから」

 それでも、岬さんはちゃんと日程を空けて待ってくれている。あとは、僕の問題だった。

「じゃあ、今週の日曜、よろしくね」

 そう言って岬さんが資料を抱えて立ち上がったとき、指の付け根が赤く擦りむけているのに気付いた。ちょうど、ケンカでメリケンサックをはめる辺りだ。

「あ……由良さん、それ」

 気遣うのが男だとヨウコに囁かれて、僕は慌てて声をかけた。見られたのに気付いたのか、岬さんは、いささか慌てていた。

「え……と、お料理してるときに、ね」

 そそくさと図書館を出ていく後ろ姿を見つめていたヨウコがつぶやく。

「あの人……本当は怖いかも。そんな、気がする」


「代わりにバイトやるって言ったじゃない」

「だからお前には無理だって言ってんだろ!」

 そんなふうに、張り切るヨウコをなだめながら毎日のバイトに励んだ。

「なんとか日曜日のシフト空けてもらえませんでしょうか?」

 いつもよりせっせと働きながら店長や他の店員に働きかけたのだ。

 残念ながら、答えはみんな同じだった。

「ダメ」

 前日まで頑張ってみたが、努力は全て徒労に終わった。無念の思いを押し殺しながらの報告を聞いたヨウコが勝利の歓声を上げたのは言うまでもない。

「ほ~っほっほっほ、じゃあ、お互い頑張ろうね、お兄ちゃん!」

 だが、当日に備えてそろそろ寝ようとしていたときのことである。岬さんから、急なメールが入った。


〈向坂さん、どうしても今日でなくちゃって〉


 告白の返事が聞きたいというのだ。

 メール画面を覗き見たヨウコは、僕の目を見据えて断言した。

「強引に!」

 言われるまでもない。ここで折れるわけにはいかなかった。それでも、あまりしつこく誘って嫌われるのも怖かった。言いたいことはたくさんあったけど、内心で妥協に次ぐ妥協を繰り返した末、文面は大変シンプルなものになった。


〈明日は、待ってる〉


「もっとはっきり! 断れって言いなさいよ!」

 イラつくヨウコに、僕は一言だけ告げると布団の中に潜り込んでしまった。

「無茶ぬかせ」

 岬さんの返事によっては、ヨウコと半年間やってきたことが全て水泡に帰する。それを思うと、もう何も考えたくなくなったのだった。

「ふ~ん」

 冷ややかな返事が聞こえたが、それっきり、僕はふて寝を邪魔されることはなかった。

 だが、数時間後、僕は岬さんからのメールで叩き起こされることになる。


〈なんか、彼テンパってて〉


 いつもは、そんな言葉遣いをしない人である。それだけに、慌てようが余計に感じられた。

「まさかお前」

 真っ先に考えたことを裏付けるかのように、ヨウコが意味深な発言をした。

「大丈夫、アタシと狐ネットワークが」

 ところが、続くメールはすぐに届いて、100年生きた妖狐をうろたえさせた。


〈結局、会いに来なかったの〉


 しばしの沈黙の後、ヨウコは呻くようにつぶやいた。

「そんなはずは……ま、いっか」


 いろいろアクシデントはあったが、僕は岬さんを連れて実家に行くことになった。空けたバイトのほうは、高校の制服を着た僕に姿を変えたヨウコを信じるしかない。

 両親に知らん顔したまま、行って帰って来れば済むことにも見える。でも、ここは田舎だ。その手の噂は光より早く伝わると言っても過言ではない。歪んだ情報を真に受けた親父に授業料の送金を止められるよりも、帰ったら帰ったと正直に申し出て、女の子にうつつを抜かしているわけではないと主張するしかない。

 待ち合わせ場所のバスターミナルに、岬さんはジーンズに長袖のフライトジャケットというラフな格好で現れた。

「変かな? 男の子みたいで」

「いや、山ン中だし」

 女の子の服を褒めたことがないので、つい不愛想な言い方になった。しまったと思ったけど、そこは岬さんだ。さらりと流してくれた。

「前に、山間地を回ったときに、向坂さんが教えてくれて」

 はいはい、そうですか。

 2時間かけて実家に着くと、僕は真っ先に両親の前に顔を出した。もちろん、玄関から先へは入れないし、入る気もない。

「まあ、きれいなお嬢さん」

 母は相好を崩して喜んだが、父は実に分かりやすく、対照的な行動を取った。

「お前は勉強もせんとこんな」

「父さん!」

 怒りのあまり言葉が出なかったのか、それとも岬さんの前で言ってはいけない言葉をオフクロが察して遮ったのかはともかくとして、僕はとりあえずその場をごまかすことだけはできた。

「いや、そんな関係じゃ」

 岬さんとはそうなりたいはずなのに、その言葉を口にした瞬間、僕の眼前に浮かんだのは別の顔だった。

 妖狐の、ヨウコ。

 何でだろうとは思ったが、考えている間に先を急ぐのが得策だった。僕は岬さんが両親に挨拶するのもそこそこに、この場を離れた。

「素敵なご両親ね」

 岬さんは微かに笑ったが、逆に恥ずかしかった。

「いや、親父は頭固いしオフクロ能天気だし、人に見せられたもんじゃ……」

 ぶつくさぼやくと、岬さんは急に真面目な顔をした。

「ごめんね、こんな話」

 低く囁くその声には、どこか寂しげな響きがあった。


 信夫ヶ森に着くまでは、かなりの間、歩かなくてはならなかった。もう日差しは初夏の光に変わり、見渡す限りの田畑と畦道と、両手を広げれば触れそうな山々が眩しい緑色を照り返していた。

 田植えの準備も始まり、まだ水の入っていない田んぼをトラクターが行ったり来たりしている。ツナギその他の作業着姿で耕運機を押す人たちが、道端のあちこちの畑で、石垣にびっしり植わった芝桜の香りの中、土を柔らかく砕いている。

 みんな、顔見知りだ。目が合うたびに、僕はうつむき加減に会釈する。岬さんのほうはというと、満面の笑顔で挨拶する。僕は小声で止めた。

「行こう……早く」

「どうして? 何で急ぐの?」

 岬さんは、田舎の噂話というものがどれだけ恐ろしいか知らない。たぶん、2日か3日経てば、僕は親元を離れて放蕩の限りを尽くす極道息子ということになっているだろう。

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