第5話 ピンチはチャンスかもしれないが……。

 僕のスマホに電話がかかってきたのは、そのときだった。田舎者にそれほど人づきあいがあるわけでもなく、連絡先は限られている。因みに岬さんとの連絡は、携帯電話とでもできるSNSのチャットを探し出すところから始まって、ようやくメールアドレスまでたどり着いたところだ。

 電話番号は、まだハードルが高かった。

「誰だろ……?」

 表示された番号に、心当たりはない。

「細工は流々」

 ヨウコはまた、不敵に笑った。首をかしげながら電話に出てみると、知らない男の声がした。

 まだ若い。はきはきとした、しかし、柔らかい声だ。

「もしもし、コウサカです」

「あの……」

 間違い電話かと思ったが、そう告げる前に、頭の中で閃いた名前があった。

 コウサカ……こうさか……向坂。

 たしか、岬さんが頼りにしている(絶対に、つきあってるなんて認めたくない)大学院生は、向坂って名前だったはずだ。

「まさか……」

 ヨウコが、可愛くウインクしてみせた。間違いない。コイツの仕業だと分かったところで、背筋に寒いものが走った。

 この妖狐が逆転させるのは、機械の歯車だけではない。バイト先の看板でもある、あの水車だって逆回転させるのだ。しかも、輪っかそのものじゃなくて、モーターで循環させてある水を逆流させて……。

 何でそんな真似をしたかというと、僕と岬の出会いをセッティングするためだ。

 もっとも、そのせいで、この向坂って男の顔を直に見る羽目になって、ますますドツボにはまったのだが。

「そう、あの水車男」


 今のバイトが決まって休日のシフトに出たとき、ついてきたヨウコは岬が店に来たのに気付いたらしい。そこで、岬さんが手にしたバッグやら財布やらを、逆回転した水車に引っかけることを思いついたのだ。

 僕は厨房で皿洗いをしていたので、岬さんの来店に気付かなかった。だが、水車が逆回転を始めて大騒ぎになったところで、ヨウコが僕を店先に連れ出したのだ。

 ヨウコが僕を店先に連れ出すと、水車がショルダーバッグを引っかけて、てっぺんまで持ち上げるところだった。放っておくと、水があふれ出している水槽に落ちる。

 だが、そこで水車は元通りの方向に回転を始めた。やがて、水車が引っかけた財布は僕の手の中に難なく収まったのだった。

「ありがとう、ええと、確か……」

 最初、岬さんは僕の名前を思い出せなかった。同じクラスでありながら、僕はそのくらい影が薄かったのだ。

「浅賀才です、同じクラスの」

 めいっぱい爽やかに答えたつもりだったが、余計な気負いだったかもしれない。いずれにせよ、『古文書解読』を拾っただけで岬さんとはお近づきになれたのは、こういうきっかけがあったからだ。

 ただし、ライバルの存在が現実になったのも確かだ。

「向坂さんの財布、私の友達が……」

「ああ、困ってたんです、すみません」

 一見して高そうなジャケットとシャツ、すらっとしたメンズパンツ姿の若者は、いつかこうなりたいと思わせるくらい、知性的で格好良く、そして裕福に見えたのだった。

 だが、僕がレジに立った時に見ていたら、その時の支払いはきっちり割り勘だった。岬さんはレディース仕様の、半玉うどんだった気がする。


 その大学院生が、今、僕に電話をかけてきていた。

「あ、ご親戚の……いとこの方ですか」

 この向坂とかいう男に、こんな電話をかけられて身辺調査をされるいわれはない。

 ヨウコの顔を横目で眺めると、にやりと笑って親指を立ててみせた。

「へへ……。狐ネットワーク。」

 察するに、これが妖狐の術なのだろう。

 他の狐たちと何をどうやったのかは見当もつかないが、今度は水どころではなく、電波の流れまでも操ってみせたということだ。つまり、岬さんの携帯電話から僕のスマホへの混線を起こしたのだ。

「いえ、弟ですが」

 とっさの返答は、正解だったらしい。ヨウコは小さく「やるう!」と叫んだ。その笑顔が、何だか眩しい。

 向坂は、少し面食らったように押し黙ったが、気を取り直したように、遠慮がちな声で尋ねてきた。

「……お姉さんお願いできますか?」

「ちょっと今、困るんですけど」

 調子に乗って、由良家の弟になりすます。セーラー服姿の妖狐は、腹を抱えて笑っていた。

「どうして」

 怪訝そうな向坂に、僕は思いっきり言ってやる。

「迷惑だから切ってくれって」

 ひいひいと引きつった笑いの底で、ヨウコは絞り出すような声で「やりすぎじゃない?」とツッコミを入れてきた。

「まさかそんな」

 さすがに向坂も不審に思ったらしいが、そんなことは想定の範囲内だ。

「お風呂入ってるんです」

「ああ、そういう……」

 電話の向こうで、「失礼しました」とうろたえる声が聞こえて、通話は終わった。

 代わりに、ヨウコがフローリングの床を転げ回って、けたたましく笑った。

「ヘンタイ! 変態ヘンタイ変態」

「うるさい」

 僕も床に足を投げ出して笑った。あまりのおかしさに我を忘れた僕は、しばしヨウコと二人でどたばたやっていた。やがてお互い、力尽きて息切れがするようになったところで、ようやく興奮は治まった。

「……ヘンタイ」

「あ……ごめん」

 いつしか、僕たちは抱き合ったまま床に寝そべっていた。短く刈った髪を乱して僕を見つめるヨウコから慌てて跳び退った僕は、とんでもないことに気付いた。

「あ……」

「え?」

「しっぽ……」

 まくれたスカートから覗く白い下着よりも先に目を奪ったのは、その中からふさふさと飛び出した、それこそ狐色の長い尻尾だった。

 ヨウコは慌てて跳ね起きると、スカートの前を押さえて居住まいを正した。

「……見た?」

 それが下着のことか尻尾のことかは分からなかったけど、どっちにしても隠すのはかえってやましい気がした。

「……うん」

「……バカ」

 そこに込められているのが怒りなのか軽蔑なのか、それもまたよく分からないまま、僕はただ謝るしかなかった。

「……ごめん」

 しばしの沈黙の後、ヨウコは恥ずかしそうに教えてくれた。

「狐もさ、1000年とかそのくらい生きると平気なんだけど、100年くらいじゃ、やっぱり、ね。ちょっと気を抜くと、尻尾とか耳とか、出ちゃったりするんだ」

「どんな、とき?」

 聞いておいたほうがいい情報だった。ヨウコに恥をかかせないように。

「ん……びっくりしたときとか、好きなものを目の前に置かれたときとか」

 おずおずと答えたところで、ふと浮かんだ疑問があった。

「あれ? 油揚げは?」

 バイト先のまかないで、山盛りにされた油揚げ醤油ご飯を、ひたすらがっついているイメージしかない。

「我慢してるの! 結構、気い張るんだから! 才が……アンタがいると!」

「才?」

「あ……」

 ヨウコは真っ赤になって、その場にうずくまった。僕を名前で呼んだのは、これが初めてだったのだ。

 僕はすぐにフォローした。

「い、いいよ、才で。だって、ほら……僕の、あの、ええと、妹、なんだし」

「ありがと」

 はにかみながら頷くと、ヨウコは照れ臭いのか、その場に丸くなって横たわった。まるで、ねぐらの中の狐のように。

 僕もようやく一息ついて、大の字に寝そべった。

 でも、それは長くは続かなかった。急に跳ね起きるなり、セーラー服のなかをごそごそやりはじめる。素肌が見えそうになってズキンと胸が痛み、思わず目をそらす。

 ヨウコが服の下から取り出したのは、例の絵馬だった。

「あ、何か来た」

 さっきは散々ヘンタイ呼ばわりしておきながら、今度は気にも留めない。ふんふん言いながら眺めているところを見ると、狐ネットワークらしい。

「またアテにならんあれ?」

 今までの気まずい空気をごまかそうとして、ちょっとからかってみたのだが、ヨウコは思いっきりふてくされた。

「教えてやらん」

 絵馬を抱えて向けたセーラー服の白い背中に、僕は再び慇懃にひれ伏した。

「お願いします、百年狐大明神様」

 ふざけたつもりだったのだが、「大明神」の一言は、妖狐の虚栄心をくすぐったようだった。

 おもむろに正面を向いたヨウコは、重々しくのたまったものである。

「お兄ちゃんの実家にヒントがあります……岬さんとご一緒にどうぞ」

 実家、の一言で背筋がざわついた。

 僕は身体を起こすと、胸を張って宣言する。

「絶対、嫌だ」

 そのまま話を打ち切るつもりで、テレビのリモコン電源を入れる。アフリカ内戦のニュースが流れ始めた。


「文民保護をめぐる同盟国の発砲事件が原因で、政府側と反政府側の衝突は……」


 地球の裏側のこととはいえ、他人事ではなかった。

 実家に行けば、両親と顔を合わせることになる。

 それは、僕にとって内戦にも等しい危機だった。

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