第3話 実家と不思議な「妹」と
僕の実家では、第一次世界大戦が終わる頃まで狐が人を化かしていた。
近所の神社は信夫ヶ森と呼ばれる山の中にあるが、そこには昔、狐がたくさん棲んでいたらしい。
夜中に美女の家で接待を受けたと思ったら、険しい山々の奥にあるワラビ取りの小屋で寝ていたとか、曇った夜に帰りを急ぐ二人連れが、急に差してきた月明りにお互いの顔を見たら化物になっていて、それぞれの家に逃げ帰ったとか、とにかくそんな古くて近い時代の話が残っているくらい、僕の実家は田舎だった。
今、僕はそんな田舎を離れて、ずっと開けた場所の高校に独り暮らしで通っている。街は午後8時になったくらいじゃ寝静まったりしないし、ビデオもマンガも100円で1週間借りられる。海外旅行に行くのだって、パスポートを取るために県庁まで片道2時間の小旅行をしなくても済む。
ただし、学生生活を送るのは楽じゃない。なんとか授業料は払ってもらえるが、、仕送りは1円もない。親元を離れて高校生活を送る条件が、それだった。諸経費と修学旅行の費用までは何とか出してくれることになっている。だが、その他は全て、家賃から電気・水道・ガス代に至るまで、自分で何とかしろというのが実家の方針だった。
そんなわけで、僕は店の入り口で大きな水車が回る、大手うどんチェーンの支店でバイトをしている。結構流行っていて、注文取りもレジも皿洗いも、目が回るくらい忙しい。
それでもなんとか体力が持つのは、バイト入りの前にお替り自由の「まかない」が振る舞われるからだ。
巨大な飯櫃に山盛りの、揚げ醤油ご飯。
要は、細かく刻んだ油揚げを混ぜ込んだメシを丼に盛って、ネギを薬味に醤油をかけて食うだけの話だ。
だが、これがめっぽう美味かったりする。米がいいのか、炊き方がいいのか、いや、この街中で水っていうことはないだろう、僕の田舎ならともかく……たぶん、油揚げだ。この、油揚げに秘密があるんだろう、でも、チェーン店で使うようなのなんて、大量生産の安いやつのはずなんだけど……まあ、そんなことは考えたって仕方がない。
問題は、僕よりもヨウコだ。
行くところには、姿を消してどこにでもついてくる。バイト先だって例外ではない。大人しくしていてくれれば別に文句もないのだが、閉館前の図書館でさえ、アレなのだ。ましてや、大好物の油揚げを目の辺りにしたりなんかしたら……。
「はい、お兄ちゃん、お替り取ってくるね!」
なぜか僕は、コイツに「お兄ちゃん」と呼ばれている。僕も妹にツッコむように、
「いらんことすんな!」と止めるが、割と重大な問題ではある。
いかにシフト交代時の厨房が戦場のような騒ぎだとしても、丼がふわふわ空中に浮いていた日には、大パニックになるのは必定だ。僕は油揚げご飯を貪り食うヨウコのために、自分の食べる分もそこそこに、何度も飯櫃に足を運ばなければならなかった。
使っていいのは丼1個だけ、飯はどれだけ持って行ってもいいが、残したらバイト料は減給だ。
とにかくヨウコはよく食ったが、それでも胃袋が身体より大きくなることはあり得ない。おのずと限界というものがある。いつ、ギブアップするかも分からなかった。
その瞬間がいつ来るかいつ来るかと冷や冷やしながら、僕は小柄なヨウコを膝の上に置いて座り、自分で飯を食うふりをしなくてはならなかった。僕は当然、箸を持っているが、箸を空中浮遊させるわけにはいかないヨウコは、犬食いをするしかなかった……いや、狐食いというべきか。
「いらんことって、アタシがいつ?」
「しょっちゅうじゃねえか」
こんな姿勢で、男子高校生と中学生女子がひそひそ話しながら丼メシを代わりばんこにかっ食らう光景は、想像しただけでもかなり異様だ。しかも、ヨウコの姿は見えないのだから、僕がひとりで背中を丸めてなにやらぶつくさ言いながら物を食っているようにしか見えないだろう。
ありがたいことに、夜間シフト組は短い時間に夕食を済ませるのに精一杯で、僕の声も姿も気にしているような余裕はないようだった。
「覚えがないなあ」
「出会ったときからそうだったろ」
「ん~、だってあれは」
本当に、余計なことをする娘だったのだ。こいつは……。
「お兄ちゃんがそうしてほしいだろな、って思ったから」
「お前がそうしたかっただけだろ」
僕はちょっと凄んでみせたが、半分は図星だったからだ。実は半年前、故郷に逃げ帰ったことが一度だけある。
「そうかなあ、いやいやバスに乗ってるように見えたけど」
「日曜の夕方だったろが」
ヨウコは顔を丼に突っ込むのをやめて、くいと僕を見上げた。
「意味分かんない」
「みんなそうなるの、明日は学校とか会社に行かなくちゃいけないと思うと」
ごねる娘を父親がたしなめるように言うと、再び始まる。
犬食い、というか……。
「アタシ、狐だからはぐ、よく分かんない」
「全く、都合のいい時だけ」
そう、ヨウコは人間の女の子じゃない。
第一次世界大戦が終わるまで、僕の実家で人を化かし続けていた狐なのだ。もっとも、コイツに言わせれば「それアタシじゃない」ってことになるんだけど。
でも、僕が乗ったバスを強制的にバックさせたのは、間違いなくヨウコ……いや、妖狐というべきかもしれない。
「都合のいいこと言ってるのは、はぐ……。お兄ちゃんも、はぐはぐ……同じじゃないかなあ」
「食うのか悪態つくのかどっちかにしろ」
実際、できれば戻りたくないと思いながら、僕は1時間に1本しかないバスに乗り込んだのだ。
「まあ、何で実家帰ったか、見当はつくんだけど」
こういう口の利き方はムカッとくるが、これはこれで結構、楽しかったりする。膝の上のヨウコは、小さくて、温かかった。軽かったけど、柔らかかった。まあ、何というか、その、臀部っていうか、小さな尻の感触はちょっと本能を刺激して、危ない状態になることもあったけど。
「はい、今日はこれでおしまい!」
「え~!」
そんなとき、僕はさっさと飯を切り上げる。たいていの場合、ヨウコは食い足りないのか不平を言うが、飯を残して減給されたり、してはならない身体の反応を、尻の下で起こしたりするわけにはいかなかった。
「悪態選ぶんなら、もうごちそうさまだな」
「やだ、もう一杯」
「そんで終わりだぞ」
幼児のようにダダをこねる妖狐のヨウコをその場の丸椅子に座らせて、僕は平たい櫃に油揚げがたっぷり混ざっている辺りを狙って、飯を盛りに行った。
恥ずかしい話だが、進学して半年で、実家へ逃げ帰った原因は岬さんだ。バスに乗って下宿に戻れば、次の日の朝には彼女と顔を合わせなければならなかった。
「さ、そろそろ白状してもいいでしょ、あのときのこと。妹に話してみ?」
再び僕の膝に乗るなり、ヨウコは偉そうに人生相談など始めようとする。
「僕に狐の親類縁者はいない」
誰が教えるか、こんなみっともない過去。
「どーせ、岬ちゃんに嫌われたとか何とかいうんでしょ」
いちいち図星を突いてくるのは、コイツが妖狐だからなのか、それとも僕のやってることがベタだからなのか。
入学したときから、岬さんが気にはなっていたのだ。でも、田舎暮らしでろくに女の子と関わる機会もなかった僕は、どうやって声をかけたらいいのか分からなかった。
そのくせ、クラスの誰かがちょっかい出さないか心配していた辺り、ヨウコのいうご都合主義はあながち否定できない。
「もうつきあってる人がいたのがショックだったとか? はぐ」
「だから、食うならしゃべんな……つきあってないし」
でも、そのときはそう思ったのだ。岬さんが、僕なんかより遥かに頭が切れて、学問も金もある大学院生と休日を過ごしているという噂を聞いて。
「ホントに往生際悪いんだから、諦めりゃいいのに」
「だからもっと大事に食え、最後の一杯を」
ムキになって黙らせたが、本当に諦めるつもりだったのだ。そのためには、ちょっと冷却期間が必要だったというだけのことだ。
それを許さなかったのは、親父だった。
玄関に立った僕の顔を見るなり、帰れと怒鳴りつけたのだ。もう授業料も出さないとまで言われた。
そうなれば、高校中退で田舎へ帰り、安い給料で地元に勤めてくすぶっているしかない。たかが女の子一人のために人生を棒に振るのか、と言われたような気がした。
こんな親父に頭を下げるのだけは、ゴメンだった。
どんなことがあったとしても。
オフクロがなだめてくれて、僕は家の敷居をまたぐことなく下宿へ戻るだけで済んだ。でも、家よりも更に山奥から来たバスに乗り込んだ僕の心はやっぱり晴れなかった。
ほかに誰も乗らないまま発車した後には、夕暮れ時の懐かしい山々の影を眺めて思った。
……できれば、あっちには戻りたくない。
その時だった。バスが急にバックを始めたのは。
「ダメなの? お兄ちゃん」
ヨウコの不満気な声に、ハッと我に返ると、また僕を見上げる円らな瞳がある。あの時も、同じ姿勢で、同じことを言われた。
「ダメです」
キッパリ言い切って、空になった丼を取り上げる。ヨウコは面白くなさそうな顔つきで、僕の膝から飛び降りた。僕は流しで丼を洗うと、レジの仕事に戻る。
あの時も、そうすればよかったのかもしれない。だが、運転手がアナウンスで大騒ぎして安否を確かめる中、僕ができることは逃げようとしてじたばたすることだけだった。
「アタシも連れてって」
ヨウコが泣きながら言うことも、あの時と同じだ。半年前はさすがに騙されて、そのまま茫然とするしかなかったが、コイツがどんな娘か分かってからは、そうはいかない。
「ここにいろ。動くなしゃべるな何もするな」
食うべき油揚げがなければ、この店で妖狐のヨウコには何一つとしてすることがない。
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