第139話 涙
コンコン
扉をノックする音がする。佐三は机に座り、ペンを走らせながら「どうぞ」とだけ返事をした。
「失礼します?……何か変な感じね」
イエリナが少しぎこちなく笑ってそう言った。
佐三とイエリナは夫婦でありながら別に同じ部屋で過ごしているわけではない。したがってイエリナは数えるほどしか佐三の部屋に入ったことはなかった。
そんな二人の関係をどこか不思議がる人もいないわけではなかったが、それ以上に忙しい事や、部屋の大きさの関係から、『まあそういうものだろう』とそれ以上に興味をもつ人は少なかった。
それに子供ができれば新居を構えるとも噂されていた。当の本人達は最近になってようやく一度手を繋いだ程度なのであるのだが。
佐三の部屋はいつも通りに殺風景であった。ベッドと机、それに大量の書類。ほとんどは自分で書き溜めたものであろう。部屋の隅で積み上げられている。それは綺麗好きな人間の部屋というわけではなかったが、机の上だけは徹底的に整頓されており、ある種のポリシーのようなものを感じさせた。
「ああ、イエリナ。他に椅子はないから……適当にベッドにでも腰掛けてくれ」
佐三はそう言ってイエリナに座るように促す。イエリナは促されるままにベッドに腰掛けた。
佐三のベッド。普段であれば少し気になってしまうところではあるが、現状そんなことを気にしている余裕はなかった。
「……よし」
佐三はペンを置き、椅子をイエリナに対して正対するように向ける。そしてそのままその椅子に腰掛けた。
「じゃあ、話をしようか。イエリナ」
佐三の言葉を合図に、二人は今後の話を始めていった。
「まず、現状の整理をしよう」
佐三はそう言って昼間にした説明を再びはじめる。
前回は急だったこともあり、より順序立てて、分かりやすく説明した。イエリナも時間をおいてある程度冷静になれたおかげか、そこはただ静かに話を聞いていた。
「ここまでの話は、理解できたか?」
佐三がイエリナに確認する。イエリナは黙って頷いた。
「そうか。そこで俺の結論だが」
佐三が落ちついた声で述べる。
「この町を放棄し、分散疎開するべきだ」
佐三が理由を説明していく。
「まず相手の軍事力。これがあまりにも強大すぎる。しかし最大の問題はここじゃない。強さというものはあくまで相対的なものだからだ」
佐三の言葉が何を言わんとしているかはイエリナにも分かった。こちら側があまりにも弱すぎるのである。イエリナも長である以上、打開策をいくらか考えた。
王国や近隣の大領主に援助や救援を求めること、森を利用して奇襲をかけるなどである。幸いハチやチリウ達に加えてドニー達の人狼の部隊もいる。獣人達をもっとも大きな組織単位でまとめているのがこの町の強みであった。いくら相手が強くても、地の利を生かしながら戦えば人数の多いこちらにも勝ち目はあった。
しかし問題はそれが機能するかである。大領主や王国の軍隊は基本的に人間で構成されている。佐三の指摘通り、彼等は無理に戦う必要はないし、獣人のために戦う義理もない。それにドニー達の人狼部隊はあくまで利益があるからこの町の仕事を請け負っているだけである。わざわざ勝てるかどうか分からない戦いに参加してくれるとは思えない。
しかしイエリナもそんなことは分かっていた。
「だから……何だって言うの?」
イエリナは漏らすように呟く。佐三は黙ってイエリナをみつめていた。
「だからこの町を捨てろって言うの?私たちの故郷を」
「………」
「生き残るためにこの町を捨てましょうって言うの?長である私が?戦うこともせずに」
「戦っても死ぬだけだ。それに別の土地をまた住処にすれば良い」
「分かってない。貴方は何も分かっていない……」
イエリナは俯きながらそう言う。しかし佐三もその気持ちが分かった上で言っているのである。それにイエリナ自身も、佐三がそれを理解していないと本気で思っているわけでもなかった。
「前に言ったな、イエリナ」
佐三がゆっくりとイエリナに語りかける。
「トップは決断を迫られる。そして選ぶことは捨てることだと」
「…………」
「これは経営者だろうが町の長だろうが関係ない。何かをとるためには、何かを捨てなければならない。今その決断を迫られているに過ぎない」
「だからって……」
「じゃあ戦えと命じるか?」
「っ!?」
佐三の言葉にイエリナは言葉を失ってしまう。あえて目を背けていた現実を、まざまざと突きつけられていた。
「敵は強大だ。この町を守るためには犠牲が出るだろう。それも途方もないほどの」
「それでも、作戦次第では……」
「作戦?ではどうする?」
「どうするって……」
「それが思いつきもしないのに、戦うのは無謀だろう」
イエリナの口からもう少しで声が漏れそうになる。『どうしてそれを貴方が考えてくれないのか』と。今までのように、救ってくれないのかと。
それがあまりにも人任せで、都合が良いことも分かっていた。自分の夫は経営者ではあるが、戦略家ではない。軍人ではなく商人なのだ。仕方がないのである。
それでもイエリナは悔しかった。この状況に何もできないことが。自分の夫でもどうにでもならないことがあることが。
一方でそれとは別に不安もあった。というよりはむしろ、これが本音だったかもしれない。
その不安とは町を捨て、獣人と人間がバラバラになったとき、果たして彼はどこへ行ってしまうのだろうかということである。
おそらく……いや、きっと。彼はこの場所に見切りを付けるだろう。そして去ってしまう。どこか別の場所、あるいは彼がいた世界に。イエリナの心にはそんな不安があった。
(私は……卑怯だ)
イエリナの瞳から涙がこぼれ出す。理不尽への憤りもあるだろう。何もできない事への悔しさもあるだろう。しかし何より、イエリナにとっては佐三がいない未来を考えることがたまらなく辛かった。
長としての意見を言っているようで、それは最早言い訳である。どんな苦況であっても、隣に彼がいれば乗り越えられる。心の底でそれが分かっているからこそ、止めどなく涙が溢れていた。自分が気にしているのは、長としてではなく、一人の女としての未来なのだと。
(私は……卑怯だ。本当は町のことなんて考えていない。考えているのは……)
イエリナは涙がこぼれ落ちそうになるのは必至に堪えて佐三の方を見る。その視界は歪み、佐三の顔がうまく見れなかった。
佐三はだまってイエリナの横に座り、肩を抱き寄せる。イエリナは佐三の胸に顔をうずめ、大声で泣いた。
まるで一人の少女のように。
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