第35話 美味しいコーヒーを前にして

 その日はお昼休みにコーヒースタンド『ピーベリー』には行かずに、遠藤さんと一緒に「どうしたら話題作りができるか?」という所に会話が終始しました。

 遠藤さんは「話したい事を話しちゃえばいいのよー。後から会話はついてくるって」というような、ちょっと無計画な事を話していましたが、それでは私のお話のネタが尽きてしまうので、不採用という事に。

 結局、良い会話のネタが思いつかないので、いつも通りにコーヒーの話題に振ってみる事にしました。

 それでも限界はあるでしょうけど。


 お昼休みも終わり、午後の仕事をする時間になっても、『ピーベリー』でお話するネタは浮かんでこず、うんうんと考え込みながら仕事をこなしていました。

 ちゃんと仕事の方は注意して入力し、遠藤さんのダブルチェックも忘れなかったですよ。


 そんなこんなで仕事も終わり、定時ちょっと過ぎくらいに今日の片付けわ終わらせ、一旦自宅に帰ってまた出掛ける、いつものパターンの行動をしていました。一応、軽くお化粧はして行きますが。


 その日はコーヒースタンド『ピーベリー』に向かって歩いていくと、風上であるお店の方から「ふわり」と、コーヒーを焙煎するあの焦がした糖蜜のような香りが漂っていました。もう焙煎作業が始まっているようです。

 私はちょっと足早になってお店前に向かいました。そうしたら奥の店員さんは、すでに手回し焙煎機で焙煎を始めていて、カセットコンロの周りにチャフが飛び散っている状況で、焙煎も佳境に差し掛かっている状態でした。もうこの位になると、話しかける隙も無いくらい真剣な表情になるのが、奥の店員さんなのです。


 「ピチッ、ピチッ」と、コーヒー豆が爆ぜる音がわずかに出始めていて、その音がしたと同時にコーヒー豆の入った円筒形のカゴを取り上げ、中のコーヒー豆をザルにあけて、下から小型の扇風機で風を送りながら混ぜて冷ます作業に入りました。

 ここまで来ると、作業は一段落。落ち着いてお話もできる状態です。そしてやっとお店前の様子を見回してみると、二人の男の人が焙煎作業の見学をしていました。その男の人の一人から、質問が出てきます。

「今日は2ハゼが始まった所で上げていたけど、もっと深煎りにはしないの?」

 なかなかこの人もコーヒー通のようです。その質問に対して、奥の店員さんは淀みなく話してくれます。

「このコーヒーはフルーツのような、華やかな酸味が特徴らしくって、酸味を消さなように焙煎も浅めにしたんですよ」

 缶コーヒーのようなコーヒーの酸味は、イヤミのある酸味なので、私はあまり好きではないんですが、ここのコーヒーの酸味はイヤミ無く飲めてしまうんですよね。


「せっかくですし、どうです? 味見をしてみるのは?」

 奥の店員さんの提案に、男の人二人は「そりゃうれしいねぇ」と役得顔。私もご相伴に預かれる事に。今日はコーヒーを飲んでいませんので、楽しみな試飲会です。

 手際よくドリッパーとサーバーをセットして、豆をグラインダーで挽いて、お湯を沸かしてドリップして行きます。お湯を垂らした直後から、焙煎香の中にベリーっぽい感覚の香りも感じられます。もうこの時点で美味しそうで、喉が鳴ります。

 試飲用の小さな紙コップに注がれたコーヒーは、濃い琥珀色の、理想的な色合いのコーヒーでした。

 少し口に含んでみると、たしかにほんのりと酸味が感じられます。それも嫌は感覚は全く無く、本当にフルーツの果汁が混ぜてあるんじゃないかと勘違いさせてくれるくらい、芳醇でした。





 おしゃべりをしたい欲求はありますが、こんな美味しいコーヒーを前にしたら、味に集中してしまってそれどころじゃなくなります。

 言葉が要らない訳ではないですが、やはりこの距離感くらいがいいと感じてしまう、そんなひとときでした。

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