第22話 『博士の愛した数式』の構成要素
『博士の愛した数式』の構成要素
■完全数 28
このお話では数学(数字)が主な要素となりますが、いちばん重要なのがこの「完全数」28です。
□シーン5 博士のもとへ行く
「友愛数」という概念が出てきます。「220の約数の和は284、284の約数の和は220」という、不思議な繋がりを持ったふたつの数字のことです。
□シーン6 友愛数
私は友愛数を見つけようと思い立ちます。そして「28の約数を足すと、28になった」ことを見つけます。
□シーン11 三人の生活
博士は「江夏豊のファンだ」と言います。お話で重要な役割を果たす江夏の初めての登場であり、伏線でもあります。
□シーン12 散髪
私は博士に28の話をします。博士は28が完全数であることを説明します。
□シーン13 博士の宿題
博士はルートに数学の宿題を出します。ルートのラジオの修理と引き換えなのですが、ルートは「江夏はもう引退している」と博士に言います。
博士は1975年で時が止まっているので、ルートの言葉が理解できません。動かなくなった博士に、ルートは自分がいかに残酷なことを言ったかを思い知り、私に「明日になれば江夏は、博士のなかでタイガースのエースに戻るから」と慰められます。
□シーン15 ラジオが戻ってくる
「江夏はどう?」と聞いた博士に、ルートは「ローテーションからいくと、もう少し先だね」と優しい嘘をつきます。
江夏の背番号が28番であることに、私は気づきます。「江夏は完全数を背負った選手だった」と。
ここで初めて江夏と完全数28が繋がります。
□シーン23 クッキーの缶
私は書斎でクッキー缶を見つけます。なかには野球カードが入っており、江夏が特別な地位を占めています。
□シーン24 阪神戦
私は阪神戦のチケットを買います。ルートと、一度も野球観戦に行ったことがない博士との三人分です。
□シーン25 試合当日
阪神戦で博士は「江夏は?」と聞きます。「おととい先発したから、今日はベンチ入りしてない」。博士はファールボールからルートを守りますが、翌日熱を出して寝込み、私とルートを忘れてしまいます。
□シーン45 懸賞金が届く
紆余曲折の末、博士は懸賞論文で賞を獲り、過去最高の賞金を手にします。ルートの一一歳の誕生日といっしょに論文のお祝いをすることになります。
□シーン46 クッキー缶の秘密
私とルートは博士に江夏の野球カードを贈ろうという話をします。クッキー缶の野球カードを確かめようとしたところ、ルートがクッキー缶を落としてしまいます。そして、博士が若いころにクッキー缶に隠した秘密が露呈します。博士の義姉に対する秘めた思いです。
この秘密は後述しますが、「28―江夏豊―完全数―野球カード―博士の秘めた恋」とドミノ倒しのように続く、見事な展開です。
□シーン47 江夏の野球カード
江夏の野球カードが入手困難であることを知らされます。
□シーン48 棺
クッキー缶の秘密は誰にも言わずに隠しておこうという話になります。そして江夏の野球カードを家政婦仲間から入手します。
□シーン53 博士のプレゼント
博士とのパーティーで、ふたりは博士へ江夏の野球カードを渡します。ルートへの博士のプレゼントはグローブでした。博士が義姉に買ってきてもらったものです。
□シーン54 博士との別れ
博士は施設へ入ります。ふたりを記憶するために、博士は江夏の野球カードを身につけます。施設を訪れたルートとキャッチボールもします。博士は穏やかに余生を送り、施設で亡くなります。最後のシーンで博士はルートが中学の数学の先生になったことを知らされます。その胸にある江夏の野球カードの背番号で、お話は締めくくられます。
■義姉
お話にはあまり出てきませんが、重要なポストを占めるのが博士の義姉(博士の兄の未亡人)です。
□シーン2 私の境遇
私は義姉と出会います。義姉は、私が家政婦として世話をしてほしいのは義弟であること、義弟は記憶が不自由で80分しか記憶が続かないことを告げます。
□シーン4 博士のこと
博士の紹介のときに、母屋にいる義姉についての記述があります。義姉は、博士が交通事故に遭い記憶障害になってから面倒を見ているのですが、杖をついており、足が悪いせいか母屋にいます。家政婦組合に頼むほどの余裕があり、博士とはすこし距離を置きたいようです。
□シーン23 クッキーの缶
博士のノートの殴り書きがあります。それは「14:00図書館前、Nと」という文言で、伏線になっています。
□シーン31 組合
私は熱を出した博士を泊まり込みで看病するのですが、それがルール違反だと義姉は言います。クレームのせいで、私は博士の家から解雇されます。
□シーン35 博士の家へ
ルートが義姉と言い争いをします。義姉は、なぜ辞めた家政婦の息子が家に来るのか、お金が目的かと私に聞き、私は友達だからですと答えます。博士は子供をいじめてはいかんと言い、数式のメモを残して去っていきます。
□シーン36 カムバック
博士の家で仕事をするよう組合から連絡が入ります。私は、義姉が私に嫉妬しているのではないかと思います。そして、博士の数式の意味を知るために図書館へ向かいます。
□シーン37 次の日
ふたたび図書館のシーンです。博士の交通事故の記事で、私は同乗していた義姉が足を骨折したことを知ります。義姉が杖をついているという伏線がここで回収されます。
□シーン38 博士のルート
博士がルートを彼にできる唯一の方法で義姉から救い出したことが語られます。義姉は博士の数式の意味を理解しており、それによって私をふたたび家政婦に戻したことが暗示されます。後で数式の意味に触れます。
□シーン46 クッキー缶の秘密
博士のクッキー缶の秘密が語られます。クッキー缶の二重底の下に博士と義姉の若いころの写真と、博士の手書きの言葉が綴られた論文がしまわれています。論文には、「~永遠に愛するNへ捧ぐ あなたが忘れてはならない者より~」と書かれています。Nはシーン23で書かれた殴り書きと同じ人物であり、それが義姉であることが推測できます。
□シーン53 博士のプレゼント
義姉は博士に頼まれてルートのプレゼントであるグローブを買ってきます。義姉の見方の変化を感じさせるシーンです。
□シーン54 博士との別れ
義姉は博士を施設に入れます。そして私に、「義弟は、あなたを覚えることは一生できないが、私のことは一生忘れない」と言います。が、博士と私たちの交流は容認しているようです。
お話には義姉の距離感の不思議さが通奏低音として流れています。
義弟を家政婦に面倒を見させて自分は母屋にいる、しかし私が博士と親しくなると、私を牽制したり排除したりしようとする、不思議な関係です。
義姉は義弟の秘めた思いに気づいていたのか、そして義姉が本当は義弟である博士をどう思っていたのか、直接語られるシーンはありません。
が、義姉も義弟に何かしらの思いを抱いていたのではないか、あるいは、以前の義弟の思いに気づいていて、距離を取っていたのではないかと考えさせられます。
■セーフティ・ブランケットとしての数学
博士の病気はおそらく後天的な前向性健忘です。1975年以降、80分しか記憶できないという状態にあります。
博士にとって世界は見知らぬ場所、見知らぬ人間、合わない時間という不条理な状態です。
博士は不安になると数学の話をするという癖がありますが、それは数学が博士にとって確実不変のものであるからです。数学が博士の不安を取り除く、セーフティ・ブランケットになっているのです。
博士は八十分の記憶のなかで、営々と数学の証明を積み重ねています。彼の身体に張りつけられたメモには、私やルートの記憶のほかにも、数学の論文や公式などの記述があります。自分の行動を忘れてしまう博士の並々ならぬ努力で、博士は論文を書いています。
□シーン18 静けさ
私は、博士が数学の問題を解いたときに得るのは「静けさ」だと述べています。あるべきものがあるべき場所に収まり、一切手を加えたり、削ったりする余地もなく昔からずっとそうであったかのような状態。それは調和であり、博士の時が永遠に繋がった状態であり、後述する0のように安定した状態です。博士が80分ごとの混沌のなかで失ってしまった平和な一瞬でもあります。
■数が象徴するもの
お話のなかでさまざまな数字が出て来ますが、数式が現実の象徴になっています。
まずは私の誕生日である2月20日(220)と、先生が論文のお祝いにもらった時計の文字284。これは友愛数という組み合わせで、私と先生との深い繋がりを象徴する数になっています。
博士は素数を大切にします。素数は1より大きい自然数で、正の約数(割りきれる数)が 1と自分自身のみであるもののことです。
博士は子供の正当な庇護者であり、素数を愛するように私の子供であるルートを愛します。博士は、私には必ず数字の紹介から入りますが、ルートには無条件の抱擁を与えます。博士にとって素数も子供も慈しみ、無償で尽くし、敬いの心を忘れない対象です。
作中に双子素数の紹介がありますが、その文章がとても美しいです。
双子素数とは、17・19、41・43など、続きの奇数がふたつとも素数であるところを指します。
友愛数でも双子素数でも、的確さと同時に、詩の一節から抜け出してきたような恥じらいが感じられる。イメージが鮮やかに沸き上がり、その中で数字が抱擁を交わしていたり、お揃いの洋服を着て手をつないで立っていたりする。
概念として数字を捉えると、数学がわからない自分でもその美しさがわかるような気がします。小川氏や博士は、数学の翻訳者でもあるのです。
■オイラーの公式
作中でもっとも重要な役割を果たす公式です。
熱を出した博士を泊まり込みで看病した私は、ルール違反だということで博士の家の家政婦を解雇されてしまいます。
その後ルートが博士のもとへ行き、義姉と私は言い争いをします。「お金が目的か」と聞く義姉に私は「友達だからです」と答えます。
博士は「子供をいじめたらいかん」と数式のメモを置いて去り、その数式を見た義姉がふたたび私とルートを博士の家に受け入れます。そのきっかけとなった数式が、オイラーの公式です。
πとiを掛け合わせた数でeを累乗し、1を足すと0になる。式で書くとこうなります。
eiπ + 1 = 0
eはネイピア数 (自然対数の底)
e= 2.71828 18284 59045 23536 02874 71352.....と延々と続く超越数です。
iは虚数単位(2乗するとマイナス1となる数)
虚数とは想像上の数「Imaginary number」のことです。√のなかが負の数になると、実数の範囲では「解なし」となりますが、2乗するとマイナス1になるiという数(虚数単位)を考え出したことで、√のなかが負の数になる2次方程式が解けるようになります。
そしてπは円周率です。
円周率と虚数単位を掛け合わせた数でネイピア数を累乗(同じ数をかけ算)する。
その数に1を足すと、結果が0になる。
こういう式ですが説明している私がよくわかりません。
頭が算数で止まっているので、「πとiを掛け合わせた数でeを累乗するとマイナス1になるの?」くらい単純なことしか思いつきません。
ですが「πとiを掛け合わせた数でeを累乗」が非常にややこしそうであることだけは、私にもわかります。
思いきり簡単に解釈すると、混沌の状態が、整数の1を足す(違う要素が入る)ことで、調和が取れた状態、0になる。
博士の80分が何度も続く混沌の状態が、訪れた友人たちのおかげで調和の取れた状態になる。
そういう解釈でいいのだろうかと思います。
このオイラーの公式を、小川氏はとても美しい文章で表現しています。
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果ての果てまで循環する数と、決して正体を見せない虚ろな数が、簡潔な軌跡を描き、一点に着地する。どこにも円は登場しないのに、予期せぬ宙からπがeの元に舞い下り、恥ずかしがり屋のiと握手をする。彼らは身を寄せ合い、じっと息をひそめているのだが、一人の人間が1つだけ足算をした途端、何の前触れもなく世界が転換する。すべてが0に抱き留められる。
オイラーの公式は暗闇に光る一筋の流星だった。暗黒の洞窟に刻まれた詩の一行だった。
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■0の概念
ルートがキャンプに行き、私は博士とふたりになります。ルートがいないと淋しくなる私は、空っぽとはつまり0を意味するのだろうかと博士に問います。
博士は0を発見した人間は偉大だという話をし、0を発見したのは名もないインドの数学者だと説明します。
博士は0の概念をこのように説明します。
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梢に小鳥が一羽とまっている。澄んだ声でさえずる鳥だ。くちばしは愛らしく、羽根にはきれいな模様がある。思わず見惚れて、ふっと息をした瞬間、小鳥は飛び去る。もはや梢には影さえ残っていない。ただ枯葉が揺れているだけだ」(中略)
「1-1=0
美しいと思わないかい?」
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数式が哲学のように見える、美しい瞬間です。
数学や数式の美しさを翻訳することにかけては随一の小説です。
興味がある方はぜひ小説を手に取ってみてください。
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