災厄の魔法使いと、緑の魔女。

さくも

第1章 はじまりの夜

何かが起きそうな、特別な夜のこと①

 幻想的な夜だった。空に浮かんだ三つの月の明かりが、地上をぼんやりと照らし出している。月はどれも美しいまでの円になっており、それぞれ紅色と黄色、それに薄青色に輝いている。

 月明かりが照らし出すのは、人里離れた山岳地帯だった。人間の身長で言えば十人分くらいもの高さのある針葉樹が、びっしりと山の斜面を覆っている。今は緑一色の山岳地帯だったが、冬には針葉樹の先っぽだけしか見えない程に雪が降り積もる。


 そんな山奥に、針葉樹の間に隠れるようにして、家が一軒ポツンと建っていた。

 ずいぶん変わった形状の建物だった。細長い二等辺三角形の形をしていて、長い一辺が平らにならした地面にぺたりとくっついている。もう一つの長い辺は緩やかな傾斜を描く屋根になっていて、短い辺は建物を支える壁というか柱としての役割を担っているようだ。


 その屋根の上に寝転んで、月を見上げている男がいる。


「いやぁ、良い月だ。三つとも満月だなんて、なかなか見られるものじゃないね」


 継ぎ接ぎだらけのロングコートを着込み、先っぽの折れた三角帽子を被っている。歳は四十そこそこといったところだろうか。鼻は高く、少し頬はこけていて、若い頃はたいそうな美男子だったのだろうと思わせる風貌をしている。長く伸ばしている金色の髪が、三角帽子のすそから覗いている。三色の月明かりに照らされて、箔糸のようにきらきらと美しく輝いていた。


 男の名は、ウェルテイン=リンドハット。彼を親しく知る人は、ウェルと呼ぶ。


「三つの満月ガー重なるのは、だいたい十七年に一度しかカーない。なかなか貴重な夜じゃないカー」


 ウェルのすぐそばで、カラスが相槌を打った。羽根をぱたぱたと震わせて、桶の中に嘴を入れて酒を飲んでいる。真っ黒い頬に少しだけ朱が混じっているように思えるのは、きっと月明かりのせいだろう。

 はウェルの使い魔で、名をクーガーと言う。月があんまりに綺麗だからと、魔法使いとその使い魔であるカラスは、家の屋根に寝転んで、月見と洒落こんでいるのだ。


 緩やかな傾斜を描いて地面にまで達する屋根は、確かに上るのには適していた。こうやって月や星を見るのには、ちょうどいい空間になっている。クーガーのために止まり木まで用意されている。夏の間は、こうして屋根に上って星空を楽しむのが、魔法使いの楽しみだった。

 山奥である。都会のようにガス灯の明かりがあるわけでもなく、きついスモッグに覆われているわけでもない。澄んだ空気の中で、静かに月明かりが降り注いでいる。


「へぇ。十七年に一度ね」


 しばらくの間を置いて、ウェルは呟いた。


「何カガー起きそうじゃないカー」

「何か、ねぇ。流れ星でもたくさん落ちてくるのかな? じゃあいまのうちに、何か願い事考えておかなきゃなぁ……」

「こういう日に、何カー特別なことガー起きるって、本当はそう期待しているんじゃないカー? たとえば、あの子が帰ってくるとカー」

「まさか。いつもと同じ、静かな夜だよ」


 ウェルは苦笑し、だんごを口に運んでもぐもぐと咀嚼した。ウェルは東洋料理が好きだったが、とりわけだんごが好きだった。弾力のある食感で、噛んでいるうちに口いっぱいに甘さが広がる。

 程よく食感と甘味を楽しんだ後、ウェルは上半身を起こしてカップに口をつけた。カップからはまだ湯気が立っている。熱を閉じ込める魔法を使っているのだ。


「あんまり聞きたくないんだガー、主人はいま何を飲んでいるのカー?」


 酒をちびちび飲んでいるクーガーが訊く。


「蛇の抜け殻でだしをとったコーヒーに、唐辛子とマンドラゴラの根っことトカゲの尻尾をすりつぶして入れた、特製ジュース」

「そ、それはジュースというのカー?」

「わからないけれど、とにかく、だんごには合うよ。とても良く合う」

「う、嘘だといってくれないカー」


 クーガーは呆れて溜息をついた。いくら主人の言うこととはいえ、ウェルの味覚にだけは同調できない。


「まあ、そういうなって。試しに飲んでみなよ?」

「え、遠慮させてくれないカー」


 ウェルはクーガーの飲んでいる酒に特製ジュースを混ぜようとする。もういい年をしたおっさんなのに、その瞳はいたずら心を抑えきれない少年といった感じである。対するクーガーは翼を広げて、必死で自分のお酒を守る。

 魔法使いと使い魔がそんなじゃれ合いをしているとき、ウェルの頬に微かな痛みが走った。ひりついた空気が肌を刺したような、微かな痛みだ。ふざけていたウェルの表情が、スッと変わる。


「結界の中に、誰か入ってきたみたいだな。だが、どうやって?」


 ただでさえ針葉樹に囲まれているから、山の麓からこの家を発見することはできない。

 その上にさらに、ウェルはこの家の周辺を結界で何重にも覆っていた。ここに家があると知っていなければ、この近くに入ってこられないはずだ。たとえ近くにまでやってきても、自然と他の方向へ誘導される。そういう、人の意識に働きかける結界を、この辺り一帯に張り巡らせているのだ。


 だが、ウェルの頬に走る痛みは、間違いなく結界が破られたことを伝える痛みだった。


「……ほんとにあの子が帰ってきたんじゃないカー?」


 この場所に家があるということを知ってさえいれば、入ってこられるのだ。

 ウェルがこんな場所に隠れ住んでいるということを知っているのは、数えられる程の人数しかいない。『あの子』だったとしてもおかしくはなかった。


 ウェルの突然の真面目モードに、クーガーはほっとして答えた。自分の酒を守ることができたと思ったのだ。しかしウェルは何食わぬ顔で、クーガーが油断したすきをついて特製ジュースを垂らす。酒に特製ジュースが混じり、クーガーは悲しそうな顔で桶の中を見つめた。


「いや、違うな、けっこうな数だよ」


 真面目な表情のまま、ウェルは言い放つ。ウェルの両頬には、針で刺されたような痛みが続いていた。

 十人、二十人……ざっと百人余りが、この家に向かって進んできている。


「どうやら月見はここまでのようだ。お客さんは人数が多くて、しかも殺気がすごい。私を殺したくて仕方ない、そういう感じがぷんぷんとしている。これは間違いなく、ここに私がいると分かっていてやってきている気配だ」


 風に乗って、微かな金属どうしがこすれ合う音が聞こえてくる。


「静かな夜になると思ってたんだけどなぁ」


 ウェルのぼやきは、夜風に消えた。

 針葉樹の間から、騎士たちが続々と姿を現した。一糸乱れぬ動きで、ウェルとクーガーを取り囲むように展開していく。ウェルはその間、屋根の上から動かなかった。ただずれた三角帽子を直して、騎士たちが展開を終えるのを待っている。


「災厄の魔法使い――ウェルテイン=リンドハットだな」


 立派な白髭をたくわえた年配の騎士が、前に進み出てきて、そう訊ねた。

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