太陽の靴、マグロの城

阿部 梅吉

太陽の靴、マグロの城

 一華は俺と二人きりのとき、いつも20分ほど泣いた。声を殺して、誰にも気づかれないように。

 変な話だが、俺は一華を思い出すとき、笑顔よりも真っ先にこの泣き顔を思い出す。

 泣いているとき、彼女は殆ど顔を見せない。いつも俺に気付かれないように泣く。俺が何かちょっとでも彼女に気にかけることを拒んでいるように。

 俺はいつも寝たふりをした。彼女の小さなしゃっくりとわずかに鼻をすする音、時折ぼつ、ぼつと厚い掛け布団に涙が落ちて広がってゆく音。ひとしきり泣き終わった後に白白しく振り返って見ると、布団は神様が筆で絵の具を空から垂らしたようにところどころ濡れている。

 今日も俺は、知らないふりをする。


 一華は気づいているのかもしれない。俺が気づいていること。でもそれはどっちだっていい。いや、本当は良くない。正直どうすればいいのかわからないだけ。それでも俺は安心している。一華が俺の隣で泣いていることに、彼女がほかの誰でもない、俺の隣で泣くことに。

 改めて言葉にすると、俺はとても「嫌な奴」だ。隣で泣いている幼なじみのことを考えると、すごくリラックスできる自分がいる。

 このことは誰にも言わない。ただ、試合が終わった後や大事な試合の前日に興奮してどうにも落ち着かないときーー特に体調を万全にしなければならないから走れもしないときーー俺は一華が俺の背中の後ろで泣いているところを想像する。不思議なことだが、それだけで俺は初めて一華に会ったとき、まだ俺たちが公園で砂遊びしていた頃のように、開放的で、それでいて穏やかな気分になる。


 このことは誰にも言えない。けれど誰にも奪わせない。


 18の時、俺と一華は離ればなれになった。俺は東京で生活することになり、一華はそのまま地元に残った。

 最後に会ったのは卒業式の夜。 

 その日俺は夜の十時まで部活のメンツと体育館でゲームをして走ってそのままカラオケに行っていたが、その後にはやり一華のうちに行った。一華はもう制服を脱いでパーカにウィンドブレーカを着込んでいた。俺は一華を部屋から連れ出し、当たり障りのない会話をして(残念ながら覚えていない)、公園のベンチで彼女を抱きしめてキスをした。顔を近づけているときにまだ歯を磨いていないことを思い出し一瞬ためらったが、そのまま続けることにした。

 一華は相変わらずひたすら受け身で、真顔のまま抱きしめられていた。ゆっくり体を離したあと、俺たちは何も言わなかった。何を言うべきなのかわからなかった。小さな溜息がーーしかしそれは俺に絶対に悟らせないとするほど小さなーーが聞こえたような気がした。或いはただ単に息が俺の首筋に当たっただけなのかもしれない。


 一華はまっすぐ俺を見ていた。

「変わってるね、相変わらず」いつもの平坦な口調。

「何が」と俺は返す。

「あたしと関わるなんて変わってる」

 これが一華の口癖だった。中学の時に徐々に言い出して、高校に入ってからは会うたびに言うようになった。

「どこが? 別にふつーじゃね?」

「んーー」と一華は上を見た。彼女が考えるときの癖だ。

「あんたは本当に自分を知らないんだね」とゆっくり言う。母親が子供をたしなめるように。

「別にいいだろ」と俺はいつも返す。いつもの変わらない会話。

「他人なんて」


 一華は高校に入ってから殆ど一人でいた。というより、覚えている限り誰かといたところは一度しか見たことがない。文化祭だってあいつは俺がいなきゃ一人でずっと美術室にでも隠れていたんだ。

 変な奴だ。外見がめちゃくちゃ悪いとか、性格がめちゃくちゃ悪いとかじゃない(それを言うなら俺の方が悪い)。ただ一華は黙々と絵を描いていた。一人でずっと、誰にも何も言わず。そのあまりの時分の世界の閉じように、一華も周りも戸惑っていただけで、ただその両者に不均衡があっただけで、誰も何も悪くなかった。しいて言うならば、彼女の強固な世界観を壊そうとする社会構造そのものが悪だった。

 俺らが一年の時、美術部はあいつと三年の先輩の二人しか部員がいなかった。その先輩も受験があるからと言ってあんまり部活に顔を出さず、一華はいつも一人で絵を描いていた。俺は絵なんか見る目がないから、あいつが何を描いていたのかはわからない。とはいえ、未だに一華だって俺が小さいころからずううっと続けているバレーボールのルールをわかっていない。

 バレーは六歳の頃からやっているし、あいつと出会ったのだって六歳の頃なのに、未だに俺のポジションだってろくに知らない(と思う)。俺が勝った日も「ふうん」って返すし、クソミソに負けた日も「ふうん」って返してくる。精一杯やって届かなかった日も「ふうん」って返し来るし、新しい技が決められた日も、全日本の選抜に選ばれたときも、全国大会で二位だった日も、全部「ふうん」で終わる。あいつはそういう奴だ。いつも、何が起きても、「ふうん」。ただ、それだけ。

 ただ、その変わらなさに少し救われている面もある。どうせ良いことが起きても悪いことが起きても、「ふうん」なのだから。


 あいつは何も言わない。俺が抱きしめてもキスしても何も言ってこない。

 そんで俺が抱きしめた後、誰にも気づかれないように、泣く。

 悲しみに捉えられてしまったように、彼女は20分間ひたすら泣く。なんで泣いているのかとかは知らない。ただの「パターン」だ。俺があいつを抱きしめて、キスして、そんでお互い携帯見たり漫画見たり、ノートに落書きしたり、爪を切ったりしている間に泣いている。いつもそうだ。そんときは大抵俺は寝るか、完璧なまでにヤスリで爪を磨く。一心不乱に磨く。

 それが俺たち、十代の時間。


 繰り返すが、あいつがなんで泣いているのかとかは知らない。俺のことが嫌なのかもしれないが、その割には抵抗しない。俺自身も、なんであいつを抱きしめるのかとかは知らない。

 中学の時は一華に対して軽いいじめみたいなのがあったけど、まあクラスメイトが全員持ち回りでいじめられるような学校だったから、ただの周期みたいなもので大したことじゃない。高校に入ってからはほとんど無かったように見える。


 中学の時、あいつは一度だけ、誰かに机と靴を隠されたことがある。机はどっかの倉庫に押し込まれていたし、靴はとうとう見つからなかった。一華はもう探さなくて良いと言ったが、俺はなぜかめちゃくちゃ頭にキて、なんでもいいから一華の机と靴を奪い去った奴をメタメタにしないと気が済まなかった。

 結局担任の先生が(今考えるととても良い先生だ)、新しい真っ白の余っている上履きを彼女にあげた。俺は何を血走ったのかわからないが、その靴の本来ならば名前を書く部分に、でかでかと赤のマジックで太陽の絵を書いた。渦巻きを描いて、その周りに放射状に線を描く。

「なに、してんの」と一華は真顔で言った。

「オシャレにしてんだよ。太陽の絵。テンション上がるだろ?」

「・・・・・・」

 一華と担任は黙っていた。俺みたいな絵心のない人間が書いた太陽の絵なんて、文字通り小学生が書くようなお粗末さで、今考えるとオシャレとは程遠かったーーと、今なら思える。

「けどなあ、これプレミアつくぞ。将来。俺が書いたんだからな」

 俺は当時からバレーで全日本だって行ってたし、将来は絶対有名になると信じて疑わなかった。当時から当然のようにそう思っていた。そして実際に今、プロとしてバレーで生計を立ていている。

「・・・はは」

 一華は珍しく声を上げて笑った。一瞬だったけど。死んだ魚みたいな寂しそうな目が、少しだけ和らぐ。

「履いとけよ、これ」

「うーん」一華はまじまじと足下を見る。どこにでもある赤いマッキーで書かれた二個の日の丸。

「いいじゃん。ありがと」思えば、学校であいつの笑顔を見たのは、そのときが最後だった。


 一華は特に目立つ生徒じゃなかった。勉強もスポーツも普通。放課後はずっと絵を描いてて喋らないし、友達とも会話しない。部活だって地味(だと思われていた)で人の少ない美術部なのに、そこでさえ特に誰とも仲良くしていない様子だった。違うクラスの俺とだけはたまに喋る。周りの奴らはそれが気に入らなかったみたいだった。

 俺のいた中学はいわゆるバレーのの「強豪」校で、県内でも一番強いとこだった。部員はだいたい最初の2ヶ月で半分はやめていく。それでも20人くらいは残る。俺は二年の時からレギュラーだったから(それは本当に珍しいことだった)やっかみも多かったが、その分周りの見る目も変わった。へえ、あいつがバレー部の二年レギュラーなんだ、と。(大抵は、心の中で「そうだけど何か?」と返していた。)当時俺は他人や先輩に遠慮したり羨むことはなく(今でもあまりないが)、一秒でも多く試合に出てボールに触れていたかった。そんなわけで朝六時に朝練に来て三年生が練習している横でも、平気で俺は延々とトスの練習をしていたのだが、何人かはやはり「大丈夫か?」と声をかけてきた。俺にはその言葉の意味がわからなかった。

 決して俺が変わったわけじゃない。ただ周りの目が勝手に変わった。レギュラーになって全国行って、勝手に周りが俺の名前を口に出し始める。

 ふうん、あいつがあの二年レギュラーね。

 そんな中俺の隣にいるのが、殆ど喋らない根暗でスポーツにも興味のなさそうな一華なのだから、周りからは奇妙に写っただろう。しかしそんな些細なこと、俺にはどうでもよかった。一華はどう思っていたのか知らない。ただ、俺は勝手に人を判断して適当に言って嫉妬する奴をめちゃくちゃだせえと思った。

 一華に嫌がらせしている奴はめちゃくちゃだせえ。姿見せないで真っ向から意見言わないで物を隠すのはまじでだせえ。だせえ奴のことは見つけたかったし、見つけてだせえ奴より一華がめちゃくちゃイケてる奴だってことを見せつけたかったのだ。まあ、俺にはそのための絵心なんて無かったわけだが。


 一華はおそらくその頃から、俺と会うときに時折泣くようになった。初めはめちゃくちゃ焦ったし、何を言えば良いのかわからなかったが、次第に慣れた。というのも、20分ほど声を殺して泣いた後は、いつも通常の死んだ目のあいつに戻っていることがわかったからだ。俺がどんな話をしたところで、「ふうん」で返す、いつものあいつに。


 あいつと初めてキスしたのは中学の卒業式の後だった。あいつはあの靴事件があってから数週間後、自分で上履きを買ってそこに綺麗なレタリングで「ICHIKA」と書いた。文字の先っぽ、Aの三角の空間の中には花が描かれていた。俺が書いた靴はどうやら使わないつもりらしい。

 なんて思ってすっかりその靴の事なんか忘れていたが、卒業式の日、あいつは何食わぬ顔であの太陽上履きを履いてきた。周りは誰も突っ込まなかった。大事な卒業式の日に水を差すのも野暮だと思ったのだろう。教師もこの日はさすがにおとがめナシで、一華は誰にも何も言われず、何も言わず、足下に太陽を照らしたまま、じっと前だけを見ていた。

 俺は今でもその光景を覚えている。

 あいつの身長は女子の中でも中くらいで、俺はクラスの中で二番目に身長が高く、いつも列の後ろのからあいつの姿を見ることが出来た。あいつの凛とした横顔。死んだような目をしていると思っていたが……本当は前だけを見ていた。俺がそれに気づいていなかっただけだった。


 卒業式の後、家に帰って一華のくそ真面目な、それでいて目の死んだ卒アル写真を馬鹿にしようと俺は奴の部屋に行った。

 家に行くと一華の母さんが出て、俺に「大きくなった」だの「立派になって」だの言った。一華の母さんは娘とは違って、よく喋りかけてくる。会話を「ふうん」だけで終わらせない。

 俺は一華の母さんの「怒濤の質問攻めと見せかけた自分語り」を終えると、部屋からあいつが出てきた。

「・・・なしたの」

「お前さ、卒アル、やる気なさ過ぎだろ」

「あー、…… そんなんあったね」

 卒アルにはクラス紹介のページが両開きで二枚に渡ってあるのだが、一華がそのレイアウトを担当していた。クラス中の人間の笑顔の写真の切り抜きが張ってある中、一華だけはそこにいなかった。ただでっかく書かれた「2組」の下に、小さく「題字 早川 一華」と書いてあるだけだった。

「いんじゃん、別に。あんただって写真、猫かぶってるじゃん。マジメな顔してさ」

「いんだよ俺のことは。つうかおばさん、お前が卒アル見せないって悲しんでたぞ」

「いいじゃん、別に」

「中表紙にお前の絵があんのにな」

 それは一華がなんかのコンクールで賞を取った絵だった。海の中で何か銀色の魚が泳いでいる絵で、その姿は黒くて曖昧だ。顔は見えない。俺たちはその魚を腹から眺めることが出来る。海の上は光り輝いていて、どこかで太陽が照らしていることがなんとなくわかる。

「あーあれね」と一華は興味なさそうに言った。

「あのページくらいは見せてやれよ」

「でも現物がもう居間に飾ってあるし」

「そっか」

「あれね・・・・・・」

「お前、魚好きなの?」

「たぶん」

「・・・・・・」 「・・・・・・・」


 会話が途切れ、俺は一華の唇に口をつけた。

 脈絡なんかなかった。ただそうするのが自然なように思えただけ。なんとなく顔を近くに寄せて、口をつけてみただけ。

 俺たちは四秒くらい黙っていた。あいつはさして何も思っていないらしかった。少なくとも何かしらの反応は見て取れなかった。

「・・・今日、お前、あの靴履いたべ」俺は例の太陽上履きのことを突っ込んだ。

「ああ・・・うん。せっかく、最後だしさ」

「やるなお前。不良かよ」

「あんただって猫かぶりなくせに」

「猫かぶりじゃねえ、俺は実力がありすぎて勝手にみんながびびってくんだよ」

「あんたそれ、自分で言っちゃうとこがすごいわ」

 一華は呆れているのか笑っているのか、よくわからない顔をした。俺たちはいつも通りの会話をしていた。いつも通りの流れ。いつも通りの空気。

 でもさっきより、正確には俺がキスする前よりーーほんのちょっとだけ世界の重心がずれてしまったような気がする。俺たちは何かが決定的に何か変わってしまったのに、お互いに何か別のことを頭で考えているはずなのに、口にしない。大きな戦争を経た兵士たちが戦場をやすやすと語らないように、俺たちは意識的に日常を作ろうとしていた。それを「お互いがわかっている」こともわかっていた。

 目が、合わなかった。


 その日は一華と目が合わなかった。確実に笑っているのに、俺の方を見ない。

 そのまま俺はだらだらとあいつの部屋で携帯を見たり少女漫画を手に取った。なかなか面白かったが、主人公の女子は理由もなくクラスの男子に惹かれていたのがよくわからなかった。

 漫画に退屈を感じ始めたころ、あいつは、例の泣き方をした。

  きっかり20分間。かすかに強く息を吸うしゃっくりと肩が震えて服がこすれる音がした。

 俺は携帯を見ながら、背中の後ろ、すぐ手を伸ばせば触れられる距離にある、あいつの泣き顔を想像した。

 ダメだった。赤い目をして、鼻から水が出て、喋ることも出来なくなっているあいつのことを、俺はめいっぱい想像した。いや、してしまった。自分の持てる限り最大の想像力を使って。


 俺が前に泣いたのはいつだろう。

 あいつはなんであんなに泣くんだろう。

 あんな泣いて飽きないのかな。

 水分ないと美容に良くないんじゃないか。

 つうかなんか声かけるべきなのかな。

 も俺絶対地雷踏む自信ある。

 ただでさえチームメイトから散々毎日「うるさい」とか「生意気」とか言われているのに。

 俺がなんか言ったところで解決なんかしないしな。

 だいたい20分すれば泣き止むんだ。理由なんて毎回同じとも限らないし。

 俺が言ったところで・・・。

 俺は目をパンパンに赤くした一華のことを考えた。

 

 20分後、ようやく深呼吸をし、布団で顔を拭った音がした。俺はずっと携帯を見ていた。意識はずっと背中の後ろにあった。自分の背中の真ん中がやけに熱いような気がした。ゆっくりと振り返るチャンスを伺っていた。はあ、と奴は短い溜息をついた。


「そういやさ、あの絵の魚、何?」俺は携帯を見たまま聞いてみる。

「あの絵? あの卒アルに載せたコンクールの?」

「そ」

「マグロ。動いてないと死んじゃうマグロ」

「マグロ? マグロってあんな感じなんか?」

「うん、そう。けっこうかわいいでしょ」その声はもう震えていなかった。


 その日、夢の中で一華は声を出して子供みたいに泣きじゃくった。俺は頭を撫でたり何か言ってみたりしたが全然だめで、ただ背中をさするくらいしかできなかった。嗚咽し、床に唾液を吐き、滝のように流れる涙で、俺の胸と太ももが濡れた。

 起きた時に生暖かい嫌な感触があって確認してみたら、やっぱり射精していた。俺は下着ごとコンビニの袋に詰めてきつく縛り、真っ黒のゴミ箱の中に入れた。それからもたびたび一華の泣いているところを想像し、我に返ったところでめちゃくちゃ嫌な気分になった。



 多くの場合、人生の中で大事なこと、語るべきことは語られず、語るべきことではないことは饒舌に語られる。それに気づいたのはごく最近のことで、言葉はいつも俺をすり抜ける。うまく捕まえることは出来ない。イメージしていたことの1パーセントも表現できないし、あとからなんであんなことを言ったのだろう、と後悔もする。

 ただ俺はなるべく誠実にありたいと思う。しかし誠実でありたいと思えば思うほど、それは俺をあざ笑うかのように軽く手からすり抜ける。

 なぜか。それは技術だからだ。それゆえに物事がシンプルであればあるほど難しい。たった何文字かの言葉で足りるようなことも、俺にとっては未だ六千文字あってもまだ足りなかったりもする。



 高校三年のある日、正確には全国大会で俺がベストフォーまで行ったのに負けてしまった翌日、俺は東京から戻り、一華の部屋にいた。ぼうっとしていた。三年間の集大成。全てが一瞬の煌めきのようだった。永遠のようで、それでいて日常のようだった。

 ボールをあげたときの感触、体育館のライト、歓声、汗と湿布の臭い、靴のこすれる音、小気味よく床に叩きつけられるボールの音……。

 俺は目を閉じれば、試合のことをありありと思い出すことが出来た。一瞬を永遠に引き延ばすこともできたし、永遠を一瞬に短縮することも出来た。俺の頭の中では試合がまだ残っていた。

 ちょっとぼんやりはするが、想像していたよりは冷静だった。泣かなかった。泣いている奴もいたが、俺にはわかっていた。自分が何をすべきかを。


「おまえさ、」

俺は机で鉛筆を走らせている一華に聞いた。俺は一華のベッドで寝ていた。

「俺の試合中も全然顔、変わんねえのな。じっと座ってるだけで」

「なんで見てんの」

 コートチェンジの時にたまたま一華がいることに気づいただけだ。あいつは自分から声とか出さないから、普段は来てくれてもどこにいるのかわからない。

「いや、適当に言った。図星だな」

「あ、そう」一華は俺の方も見ずに言った。

「可愛くねえな・・・」

「別にあんたたなら大丈夫じゃん、いつも」一華はひたすらに右手を動かしていた。かり、さら、と鉛筆の粉が紙につく。

「は?」

「だから大丈夫じゃん。あんたなんて特に声なんかかけなくても」かり、かり、と鉛筆の流れる音がする。

「まあ・・・」

 その時初めて、俺は俺のことがわかった。俺が大丈夫なのは俺のことだけで、でもそれだって、俺だけの力じゃない。だからこそ俺はいつも大丈夫なんだ。


 ゆっくり起き上がる。顔を俺から背け、ただ机に向かって目を前髪で隠していたあいつを、俺は後ろから抱きしめた。一瞬肩を震わせたが、右手を止めない。小さな溜息のような、嗚咽を我慢するいつもの「あれ」が聞こえた。俺も小さく深呼吸した。

 あーあ。何やってんだろうな。

 あいつの右手の上に手を置き、そのまま横から無理矢理頬にキスした。冷たく濡れていて、ちょっとだけ塩の味がした。口を移動させ、水滴が伝ったであろう部分にすべて口をつける。

「・・・・・・・」「・・・・・・・」

 かた、と鉛筆が机から転がって落ちた。

 やっと音が止まる。

 これでいい。 これで・・・・・・




  声を上げたら永遠に何かに捕まってしまうとでも言うように、一華は必死で声を抑えた。吐息と服のずれる音だけが響いた。改めてこいつは細いな、と思った。俺と違って殆ど筋肉がない。骨自体だって細い。こうして抱いているといつかぽきっと折れてしまいそうで、怖いんだよ。わかるかな。

 肩は震えていた。それがあんまりに漫画みたいで、人間って本当に緊張すると震えるんだな、と感動さえ覚えた。どこを触っても小さく息を吐くだけで、声を出した方が楽なんじゃないかと思ったが、何も言えなかった。

 よりきつく腕を絡ませ、初めて一華の小さな胸の存在を感じた。俺が見る限り中学二年の時からずっと成長していない。こいつの体は全体的にコンパクトなのだ。

 俺は一華のミニマムな骨格を想像した。ずっと絵を描いてきて、そしてこれからも描き続けるであろう、エネルギーに満ちた小さな体を。鉛筆の跡が真っ黒についていて、布団に写らないかといつもひやひやする右手の小指を。

 一華の、まだ膨らみが始まったばかりの中学生みたいな胸を撫でる。形は綺麗だし張りもあるが、残念ながら成長する見込みはない。俺はなんとなく胸のでかい一華を想像することが出来ない。下着だって中学生が着ていそうな白と水色のやつだった。余談だが、俺はこの時初めてブラジャーの構造を知った。

 一華は顔を隠していた。枕に自分の顔を打ち付け、あるいは自分の両手で顔を覆っていた。枕と顔の隙間から漏れ出る息の音で、かすかにあいつが生きていると感じられた。臍の横を触るとわずかに体を震えさせ、腰を反らせた。それがどういう意味なのかはわからなくて、もう少し強く触ったら、足をばたつかせた。腰と太ももの間を触ったら、少しだけ声が出た。泣いているような笑っているような声で、くすぐったかったのかもしれない。小さな胸の上のぴんと張った乳首に口をつけたら、両足で力を込めて、俺の腰部分を掴んできた。俺は一華の口を離さないまま、舌先を動かしながら自分で自分にゴムをつけ、(当然だがすごい時間がかかった。ちゃんと見てやるべきだった)あいつの中に入れようとした。

 けど残念なことに……よくわからなかった。手で触ってみてもいまいち場所がわからない。俺の想像ではもっと上にあると思ったのだが、意外と下に入れるべき場所があった。それですっかり「流れ」が切れてしまって、一華もだんだん震えが収まってきて、いったん入れることを諦めた。俺は一華の体を眺めた。太ももも腰も細い。筋肉は殆ど無い。腰から太ももを両腕で抱きかかえてみた。やはり細い。

「ちゃんと食ってんのか? 普段」

「食べてるし・・・。なんでそんなこと言うの?」じゃあ何を言えばいいんだ。

「お前成長したいとか思わねえの? 俺、まだ身長伸びてるんだけど」

「別に」明らかに拗ねている。

「食えよ、ちゃんと」

「お前はオカンか」声の震えはなくなっていた。


 そのまま俺たちは布団で寝た。一華の全身を愛撫しながら。相変わらずあいつはされるがままだった。

 寝る前、わずかにあいつの話を聞いた。

「また魚、描いてんの?」

「うん・・・」

「魚ばっか描いてんの?」

「なんとなく、好きで。でも今回は人も描いている。高校生の男の子」

「俺だ?」

「はあ……(一華は俺の返事をスルーした)高校生の男の子で、美形で、スポーツができて、」

「俺じゃん」

「ついでに頭も良くて、」

「……」毎回赤点ギリギリの俺からは特に言うことはない。

「みんなから好かれているの。そういう男の子が、特に理由も無く魚になっちゃう絵」

「理由もなく?」

「うん。理由なんてないの。ただそうなるだけ。別に悪い子としたとか良いことしたとか、そういうんじゃない。ただ、そうなっちゃうの。そういうふうに出来てるの。世界は」

 よくわからなかった。

 ただ、奇妙にその光景が、才能にも人望にも恵まれた少年が魚になってしまう様が俺の脳内で繰り広げられ、妙に頭にこびりついた。


 眠りに落ちる前、わずかに抱きしめられたような気がしたが、ただ寝返りを打っただけなのかもしれない。

 あいつの声が、反響する。


 理由なんてないの。ただ、そうなっちゃうの、


 そういうふうにできてうの、世界は。


 


 十八の時、高校を卒業して東京に向かった。女子禁制の寮で、俺はバレー一色の生活を送った。時折楽しかったし、時折楽しくもなかった。ただボールを触って、あの小さな、それでいて無限の可能性を持つ9メートルの正方形の中にいると、俺は本当の意味で「俺」自身になれる気がする。体が世界になじむ。空気が肌に浸透する。足はちゃんと床についている。すべての感触は、自分のメモリの中にある。何か掴んだと思ったら一瞬でそれを失う。それでもまた、何かを得ようとする。その繰り返し。こうしないことには生きていけない。


 この二年の間、一華には何度か会った。あいつは俺の試合に来てくれた。観客席のどこにいるかまではわからない。目印でもなにかつければいいのだが、あいつはそんなことしてくれない。ただじっと黙って、いつもノリ悪く座っているのだろう。試合中は会わないが、終わったあとの夜はあいつに会った。高校を卒業してすぐ、あいつは髪を銀色に染めた。そのおかげで人混みの中でもすぐに見つけられるようになったが、まだ試合では見つけられない。

 

 後から一華のおばさんに聞いた話では、あいつは俺の試合の後、少しだけ泣いたらしい。相変わらず泣くのな、とからかおうとしたが、タイミングを逃したまま今に至っている。

 一華が東京に来てくれる日は、寮で外泊許可をもらう。一日だけ、いや、一夜だけ、俺たちは一緒にいる。


 相変わらずあいつは声を出さない。俺も声を出さない。でも前よりはずっとあいつの考えていることがわかる気がする。たまにわからなくて痛くしてしまい、腹を蹴ってくることもあるが。


 人生で考えなきゃいけないことは多すぎるが、ひとつひとつ解いていけば、案外わかったりするものだ。それでもわからないことはある。ただそれはそれで、そのままでも良いと思う。いつかわかる日は来るのかもしれないし、来ないのかもしれない。そもそも理由なんてないのかもしれない。


 そういうふうにできているの、世界は。




 眠れない日、リラックスしなきゃいけない時、興奮を静めるために俺はその言葉を繰り返す。

 美形でスポーツが出来て頭の良い少年が魚になってゆくところを想像する。

 誰からも好かれ、これからも好かれて行くであろう少年が特に理由も無く魚になるところを。

 少年の足は一つになり、うろこが出来、やがて水の中でしか生きられなくなる。

 みんなは彼のことを覚えているのだろうか?

 俺にはまだその答えが出ない。


<了>

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太陽の靴、マグロの城 阿部 梅吉 @abeumekichi

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