4.まあいいわ。

 撫子なでしこは、いやアシャスは、自分の1DKマンションに帰り着いて、ブーツを脱いだ瞬間にへたり込んだ。


 両手には、百貨店の地下でこれでもかと買い込んだ、お上品なスイーツと豪華なお惣菜そうざいの紙袋がいっぱいだ。まったくの予定外で、エコバックなど用意していなかった。


 そもそも、婚約指輪と結納返ゆいのうがえしを準備するがてらのデートだったはずだ。


「いやあ、楽ちんね、これ! ちょいちょい任せるから、これからもよーろしくー!」


 頭の中で奈々美ななみ撫子なでしこ、本人がのんきに笑う。


 アシャスの方は疲労困憊ひろうこんぱいだ。人間の疲労は八割がた脳みその疲労だというから、感じているのがおもに活動したアシャスの意識だけというのも、それなりに筋が通っている。


 撫子なでしこは現代の成人女性だ。科学的、雑学的な知識が、おおむね記憶を共有するアシャスからすれば、無駄に豊富だった。


「そりゃ、口出しだけのそっちは楽なんだろうけど、こっちはヘトヘトだよ……こんなに荷物、増やしてさ」


「罰ゲームよ! あんな熱烈に愛の告白したんだから、その勢いで御休憩しても良かったのに、もー!」


 撫子なでしこの意識が、ニヤニヤと悪い顔をした。見えなくても、アシャスにはわかった。


 時計台の騒ぎから、アシャスとヒカロアの意識に、撫子なでしこ慎一郎しんいちろうも参加した。まったく状況も状態もわからないが、これもダブルデートと言えるのか、とにかく撫子なでしこのハイテンションに引っぱられて、百貨店地下のグルメ巡りになった。


 もちろん、すきあらばねじ込まれてくる撫子なでしこの、ストレートかつ趣味全開の誘導は、アシャスが断固として拒否していた。


「応援も協力もしてあげるって言ってんのに。ヘナチョコねえ」


「お、女の子は、もっとつつしみってものをだな……!」


「ふふん、まあいいわ。そういうモヤモヤ期もお約束、背徳的な愛の醍醐味だいごみだもんね!」


「背徳って言うな!」


「じゃ、あたし先に寝るから。部屋に帰って直寝ちょくねできるって、すっごい幸せ! おやすみー! お風呂でちゃんとお化粧を落として、上がったら化粧水と乳液、忘れないでねー!」


「お、おい! 風呂って、俺に入らせるのか? この状態で?」


「なによ、あたしの記憶があるんだから、自分の身体も同じでしょ? 手を抜かないで、しっかりケア、頼むわねー!」


 言うだけ言って、撫子なでしこの意識が途切れる。同時に出るとか、身体をどっちが使うとか、主導権は本人側にあるらしい。


 たましい、というものは基本的に一つだろうから、人格はその別側面べつそくめん重複ちょうふく、または乖離かいりしたのか。考えてもわかるわけがない。アシャスはため息をついて、あきらめた。


「順応が早いよな、まったく……。それにしても、まあ、撫子なでしこが一人暮らしで助かった、か……」


 ため息が、安堵あんどの深呼吸になる。とにかく思い出さないようにしていたが、もう夜だ。どうしようもない。


 昨日の土曜日は、都内のホテルの結婚式場を二人で予約した。イタリアンレストランで早めの夕食をとってから、シャンパンと小さめのフルーツタルトをホールで買って、慎一郎しんいちろうのマンションでささやかなパーティーをした。


 撫子なでしこの誕生日のお祝いだった。慎一郎しんいちろうが薄切りのフランスパンにトマト、カマンベール、スモークサーモンなんかを乗せてくれて、つまみながら、二人で結婚情報誌をながめたり、脱線してしマンガの今月の展開をあれこれ語ったりなんかした。


 それからキスをして、抱き合った。


 慎一郎しんいちろうはメーカー勤務、撫子なでしこはOLで、お互い立派に働いている社会人だ。結婚も、現実的に視野に入った。誰にはばかることもない。


 指の感触も、息遣いきづかいも、においもあたたかさも覚えていた。慎一郎しんいちろうは優しすぎるほど優しくて、それが嬉しくて、撫子なでしこの方から甘えて、いろいろせがむことも多かった。


「い、いやいやいや、ない! それはないって!」


 アシャスの意識が沸騰ふっとうして、顔中に汗が吹き出した。


 同じことをこの状態で、なんて、できるわけがなかった。ヒカロアはできるかも知れないが、それこそが問題かも知れないが、とにかく今、撫子なでしこの基本的な生活は一人だ。九死に一生とは、多分、このことだった。


「結婚、するんだよな……それまでに、どうにか……」


 どうにかもこうにかもないが、アシャスはもう一度ため息をついて、立ち上がった。


 いつまでも玄関先に、へたり込んでいるわけにはいかない。買いまくってきたスイーツもお惣菜そうざいも、要冷蔵だ。


 撫子なでしこに言われたように、化粧を落としてスキンケアもしなければ、寝ることさえできない。


「女の身体って本当、筋肉、少ないんだな」


 しようもない愚痴ぐちを言いながら、荷物をぶら下げてダイニングキッチンに入る。待ちかまえていたように、大柄おおがらで毛並みのつややかな黒猫が、にゃあ、と鳴いて出迎えた。


「ええ、と……ミツヒデか。一晩留守にして、悪かったな」


 ここはペット可の物件で、撫子なでしこは猫を一匹、飼っていた。


 撫子なでしこがファースト黒歴史三連星くろれきしさんれんせいの最後、脱法ハーブ騒ぎの破局から実家に避難していた時、どこからか住み着いた子猫だった。


 それなりに傷心だった撫子なでしこも可愛がっていて、大学を卒業後、就職で一人暮らしを再開するにあたって、心配した両親から預けられた。


 また迂闊うかつに引越しや同棲どうせいなどしでかさないように、とか、飲み会でうっかり持ち帰られないように、とか、そういう思惑がありありと見えたが、撫子なでしこにしてもいなやはなかった。


 実際、卒業式の日に慎一郎しんいちろうに告白されてつき合い始めたので、撫子なでしこも二重の意味で生活に気をつけた。それで今日に至るのだから、撫子なでしこにしてみれば、人生の好転とセットのようなものだ。


 ついでに、命名も撫子なでしこだった。


 戦国武将からだが、別に歴史がどうこうではない。ちょうどその頃、好きだったゲームの美形キャラだ。


 しかしながら、当のミツヒデは少なくとも六歳を超えて、むしろ本来の戦国武将的な風格があった。今も一声鳴いたきり、姿勢を正して撫子なでしこを見つめている。


えさか? まあ、昨日から給餌器きゅうじきのカリカリだけだったもんな。待ってろ、猫缶は確か、この辺に……」


「その様子なら、成功したらしいな」


 唐突に、声がした。


 低く落ち着いた、それでいてつやのある、ちょうどミツヒデの雰囲気に似合う声だった。

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