100度目の願い事

鴫宮

100度目の願い事

「『執着』は想い人をただひたすら、自分のものにしたいと欲することで――『エゴ』はたとえその人が手足や五感を失ってもなお、生きていて欲しいと願うことだ」




     × × ×



 夢野、と呼ぶ声で目が覚める。とろんとした甘さの混じった少しハスキーな、そして狂おしいほど愛しい声。

 彼の綺麗な黒髪をそっと撫でて、人熱の残るベッドからそっと身を起こす――出来るだけ軋ませないように、起こさないように。ひと一人分の、生々しい痕跡がはっきりと残っている。その隣には、もういちど寝入った人。

 少し肌寒い。ぬくもりの残った布団が恋しかった。新調したてのパジャマだが、何せ夏用で薄い。今夜は一度、元の厚手のものに戻すべきか。

 冷たいフローリングを裸足で歩いて、窓際の日めくりカレンダーをめくる。

 六月二十日。六月が終わるまで、あと二週間。


「今朝は……そうだな、フレンチトースト?」

「大当たり」

「良い匂いだ、美味しそう」

 布団をめくっておけば肌寒い季節、さすがの夏目でも起きざるを得なかったようで、布団をめくって五分も経たないうちに目をこすりながら一階へ降りてきた。夏目を叩き起こすために行われる毎朝恒例の布団の奪い合いを思えば、驚異的な記録である。自然は偉大なり。

フレンチトーストの存在に気付くと先ほどの眠そうな表情はどこへやら、夏目は一瞬にして目を輝かせた。大好物を目の前にした子供のような表情。……まあ、あながち間違ってはいないが。

それだけなら本当に微笑ましいのに。

「早く食べて。冷めると美味しくなくなる」

「はいはい。わかったってば、我が親友よ」



 無闇な願いは終わりを招く。

 百の願いが叶うとしたら、貴方は何を願った?

 金、権力、愛――

 それとも――失ったものの復活?

 際限のない欲は身を亡ぼす。時効のない返り咲きは秩序を殺し、ひとの心と体を狂わせ奪い去る。

 だから俺は、そう望んだ。

「ひと月だけでいい――きっかり一か月だ」


 とおいあのひとを、よみがえらせて。


 ――甘い甘い金平糖が、願いと共に砕け乱れ溶け消えてゆく。






==============


「この人に降りかかる不幸を全部身代わり出来たなら、私とっても幸せなのに」




     × × ×



「  拝啓、■■さま


 貴方がこの手紙を読むときには、私はもう此の世に居ないでしょう。――なァんて、人生で一度は言ってみたい台詞でしょう? でも、いつもの悪趣味な冗談じゃアありません。私のような嘘吐きでも、長い永い人生の最後には正直になるのが道理というものでございますもの。

 私は殺されます。いつだったか貴方に言ったでしょう、覚えていらっしゃって? ――ことばは像を結んでうつつとなりました。くれぐれも、敵討ちなんて考えないでくださいましね。かたちのないものを相手取るのは、それこそ無謀というものでしょうから。

 さて、気ごころの知れました貴方相手に長い前置きは不要でございますね。

 ――私の存在は貴方にとって、呪いみたいなものだったでしょう。

 きっと貴方にしてみれば、不本意ながら決して振りほどけぬ、堅くきつく縛られた鎖のようなものです。えぇ、わかっております。この文を読まれましたときの貴方の苦痛、絶望、そういうものが一切合切手に取るように想像できますもの。あぁ、可哀想な貴方。ならば私は此の世への餞別がわりに、貴方へことばを贈ることに致しましょうか。呪いをかけた本人がそれを解くのは、謂わば義務ですからね。


 貴方のことが嫌いです。誰よりも、何よりも。

 私のもとを訪れました死には、本当に感謝せねばなりませぬ。私と貴方との間に、何人たりとも壊せない壁を造ってくれましたもの。

 どうせなら、貴方となんてめぐり逢わなければ良かった。そうしましたらきっと、私の短き生涯はとてつもなくしあわせなものになったのでしょうから。


 地獄に堕ちましょう私と、天国へ昇られます貴方はきっともう二度と逢いますまい……


 取るに足らないこのような私の遺書に代えまして、この文を憂き世に遺してゆきます。

 さようなら。天国で逢いましょう。


 貴方さまが記憶を留めるにおよばない、名もなき娘より 」



 ハッピーバースデートゥーユー。

 世界で一番有名な、誕生日を祝う歌。夏目の柔らかい声が、蝋燭の薄明かりと一緒に部屋を満たしていく。

「夏目って、歌上手いよね」

「そう? 姉さんが凄く上手いから、どうもね……。あぁ、歌の上手さって遺伝するらしいよ。両親はどうだろう、上手かったっけ?」

 のんきにそういう夏目。

「――――ッ」

自分の犯したミスに気付いて、首を絞められたかのように息が詰まる。

「――覚えてないなぁ。……夢野? 大丈夫?」


 部屋に駆け入って、引き出しの奥底からひとつの瓶を取り出した。ずっしりとした瓶の中の、淡い色をした金平糖を一つ取り出して、勢いよく噛み砕く。

「――夏目が自然に、家族を忘れますように」

 あぁ醜い。なんて醜いんだろう。

 何かを願うたび、乞うたび、薄い皮膚がボロボロと剥がれ落ちて、自分のどうしようもなく醜い本性が晒されているように思えてならない。――まるで、人間の皮を纏った怪物の正体が白日の下にさらされるように。

 鏡は嫌いだ。日に日に欲を増して、更なる願いを重ねていく自分の姿なんて見たくない。刻一刻と醜くなっていく鏡像を見るたび、薄いガラスを叩き割りたい衝動に駆られる。そう思う自分さえもが醜く思えて、嫌だ。

 ――願うことをやめればいい。

 そんなことはとっくにわかっている。なのにやめられないのは――? 簡単だ、このまやかしが崩れてしまうから。

 綻びというのは、割合すぐ全体の瓦解に繋がる。物事は、案外壊れやすいものなのだ。終わりがどのように訪れるかなんて知らない。何もない自分がたった今持っているのは、百限りの願いを叶える能だけ。

 彼にとって自分の価値がそこまでではないことは十分知っていた――体験していた。

そして此処が堕ちたとき、一番先に切り捨てられるのはきっと自分に違いないから。

光のない暗い世界にたったひとり見捨てられて、放っておかれるのはもう耐えられない。あの時のことを思い出すだけで泥を飲み込んだように体中が重くなって、吐き気がする。

 ――お願いだ、置いていかないで。





==============


「耽溺、恋情、エトセトラエトセトラ」



     × × ×



 鏡子さんがね、死んだんだ。

 呆然としたようにそう言う夏目の目は、光を失っていた。今から思えば、それが前兆だったかもしれない。気づけなかった自分が、少し考えればわかっていたはずなのにそうしなかった自分が、今でも殺したいぐらい憎い。


 次に夏目に会ったのは、彼が白く脆い骨となった後だった。

 ひとを形作るはずのそれは、ひとつ肉を剥げばこんなにも細くて頼りないものなのかと頭の片隅で思ったのを覚えている。

 ――溺死体は酷いもんだ。見ない方が良い。

 残された夏目の家族はそう諭されて、結局死に顔を見ぬまま火葬に踏み切ったそうだ。

 俺は、見たかった――先に逝った鏡子さんが、とうに見ることのなかったそれを。夏目のすべてを、最後には心までも奪っていったあの人が手に入れられなかった光景を奪って、目に焼き付けたかった。

 夏目の体に醜いところなんてないのに。いつも綺麗だった。どんなときでも、すらりとまっすぐ立つその姿が目に浮かぶ。――夏目が目をそむけたくなるほど酷い姿になることなんて、神に誓っても有り得ない。

 その点、あの骨は美しかった――穢れを一切感じさせない、すこしざらりとした純白の表面。あれこそ、夏目の躰を構成するに値するパーツだ。そういう価値が、ある。

雨の降ったあの日、骨壺へ向かう夏目の残骸に向かって、心の中でそっと感謝した。

 ――今まで夏目を支えてくれてありがとう。よい眠りを。



 朝焼けが暗闇に差した。紅い日の出が重い瞼をゆすり起こす。

「ん……?」

 薄いシーツの波からのそりと這い出して、風で半分開いていたらしいカーテンを開けきる。――夏目はいつも通り、まだ起きていない。

 右から出づる太陽をぼんやり眺めた。今日の朝食のメニューと――六月の終わりについて考えながら。





==============


「眠るように死ねたら良いわね」



     × × ×


「自分の欲望の障害となるものは奪いなさい。殺しなさい。方法は、それだけよ」

 奇しくも、俺にそう教えたのは鏡子さんだった。俺にとって障害となるのは貴女しかいない。そういう俺の心のうちを踏んで、そう言ったのだろう。

 貴方に私は殺せないわよ――、と。

 黒い瞳がそう告げていた。白い肌は何の感情も示していなかった。赤い唇の端が、歪んでいた。

 あぁ――宣言通りだ。まるで一つの、完成された絵画。脚本のとおりに進んだ大衆劇のような予定調和だった。

 ――一切の乱れのない、筋書き。

 その見事さに拍手喝采を贈ろう。とっておきのワインを開けよう。磨かれぬいたグラスを掲げて、貴女の冥福を祈ろうじゃないか――。


 ソファに横たわって、死んだように眠る夏目。最後の一日。午後十一時半を示す時計。瓶に一つだけ残った、百粒目の金平糖。

「致死性の毒が欲しいな――二人分」

 そう言って、最後の金平糖を舐める。甘さを感じることが出来ないまま口の中で溶かし終えると、テーブルの上にはいつのまにかコルク栓の小さな瓶がひとつ置かれていた。中の液体は闇夜のような、けれど透き通った濃紺。

 栓を開けて、それを全部口の中へ流し込む。味はよくわからない。全てを終わらせることに、感覚を何もかも奪われていたから。

 空になった用済みの瓶は、床に放った。そして眠ったままの夏目に口づけて無理やり、それを注ぐ。

 彼の嚥下を確認してから、自分もそれを飲み込んだ。

(最初から、こうしていれば)

 初めに呼吸音が消えた。次に心拍音。そして、ひとのぬくもりさえも失った静かで冷たい部屋にあるのは、折り重なった二人の亡骸と。

 ――風に揺れる、六月三十一日を示した日めくりカレンダー。



 どこか遠くで、鳴り響くアラートの音が聞こえる。








『 鎌倉連続投身事件 終幕を迎える

枕元に幻覚剤 薬物による中毒死か


7月5日、夢野■■さん(26)が、入院していた病院で亡くなっていたことが分かった。夢野さんは5月下旬神奈川県鎌倉市由比ヶ浜にて投身自殺を図るも、近隣住民に引き上げられ未遂に終わっていた。(中略)

また、夢野さんの友人であった夏目■■さん(26)も5月中旬ごろ、同場所で自殺していたことが判明。夏目さんの自殺は交際していた女性の病死を受けてのものとみられる。

夢野さんと夏目さんは生前から非常に仲が良く、夏目さんの亡くなった直後、夢野さんは大きなショックを受けていたようだと夢野さんの友人は証言している。投身した現場も一致することから、夏目さんの自殺が夢野さんの自殺未遂に影響したという見解が最有力となっていた。

夢野さんの病室からは市販の金平糖の空き瓶が発見されたが、幻覚作用を及ぼす危険薬物の成分が検出された。関係者によれば、夢野さんは入院後日常的にそれを服用していたようだという。

夢野さんが薬物を手にした経緯ははっきりとしていないが、先月大規模な摘発をされた違法薬物売買人との関連性が疑われている。(下略)

(■■■■年7月6日 ■■新聞朝刊より一部抜粋) 』


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