第2話 絶望の始まり 2
話は少し遡る。
恭介らがオーストラリアへ出発した夜のこと。
恭介の父、創介は、部下の男性から報告を受けていた。
「順調です、社長。すべて滞りなく進行しています」
部下といっても社員ではなく、表向きは藤影家の使用人である。
大型企業につきものの、悪質なクレームや総会あらしといった案件を、人知れず解決するのが彼の主な仕事だ。
時と場合によっては、手段を選ばない男。名を仙波せんばという。
「…担任の女、真鍋といったか、どうした?」
前髪をかき上げながら、仙波は答える。
「夢の中ですよ、これから。…一生」
ふん、と創介は横を向く。有能であるが、恐い男でもある。
息子、恭介の通う学校に、意のままに動かせる駒を置くために、仙波は数年かけて女を送り込んだ。そして用済みになったところで、簡単にポイ捨てだ。
「それよりも社長、本当によろしいのですね?」
仙波は話続けた。
「フェリーの会社は、去年買収済みです。もちろん、海外のダミー会社を複数経由していますので、ウチまでたどり着くのは困難でしょう」
切れ長の仙波の目が、一層細くなる。
「社長、新堂家はともかく、ほかの子どもたちは大丈夫でしょうか?」
パラパラと資料を見ながら、創介は答えた。
「戸賀崎の親父は子会社、牧江の母親は下請け、原沢の親父は支社にいるが、リストラ候補。藤影に逆らうような、馬鹿はするまい」
「なるほど、それなら、まあ」
ただし、と仙波は言葉をつなぐ。
「いよいよとなったら、私がなんとかしましょう」
アデレードから車で約一時間半の所にある港。
そこから、カンガルー島へはフェリーで五十分程度だ。
恭介の班は、新堂侑太のほかに、侑太といつもつるんでいる、戸賀崎翼や原沢廉也れんや。唯一の女子、牧江果菜りながいる。
自由行動に持参するのは小さめのバッグとされていたのだが、恭介以外は、けっこう大きな袋を持ち込んでいた。
各班に一人ずつ、通訳をかねたガイドがつき、小型フェリーは貸し切り状態で碧色の海を進んだ。
島は美しかった。
草原の走り抜けていくカンガルーやワラビー。
どこまでも続く白い砂浜。
風変わりな、アーチ型の岩。
恭介は、あとで悠斗にも見せようと、何枚か写真を撮った。
どこで着替えたのか、侑太や果菜は、水着らしきものの上にシャツを羽織っていた。
「ああ、お前、泳げないんだっけ」
見下すような目で、侑太が笑った。
フェリーから、南半球の夕焼けを甲板から見たいという果菜の意見により、島から帰る時には、空は朱色に変わっていた。
ガイドは一足先に帰ったらしく、子どもだけを乗せたままフェリーは出発した。
恭介は、皆と少し離れたところで、朱色から紫色に移り行く空を眺めた。
月が昇り始めた。
満月のようだ。
「スーパームーンだってよ」
いきなり肩を組んできたのは、戸賀崎だった。
そういえば戸賀崎は、科学部に入っていて、理科は得意だった。
「知っているか? 満月のときって、波がいつもより高くなるんだぜ」
まあ、そのくらいなら恭介も知っている。
「スーパームーンのときは、さらにスゲーんだよ」
戸賀崎はぺらぺらと、何年か前のスーパームーンの日、イギリスでは五艘の難破があったと語った。
「だからさあ、沈むんだよ、このフェリーも」
「えっ」
恭介が問い返す前に、轟音と共に、フェリーが大きく傾いた。
あわてて甲板の手すりをつかもうとする恭介を、後ろから原沢廉也が羽交い絞めにした。
「正確にいえば、沈むのは、お前だけ」
太いロープを片手でぐるぐる回しながら、侑太が恭介を見下ろした。
「ずっと、ずっと昔から、大嫌いだったんだよ、お前」
侑太は、恭介の両足首をロープで縛りながら、話を続けた。
「だいたいお前ってさ、総資産、百億を超える会社の跡取りで、生まれたときからチート人生じゃん。ずりいよな」
侑太の口から次々と、恭介が思いもしなかった言葉がこぼれ出る。
「いっつも他人を小馬鹿にしたような顔つきで」
「イジっても集っても、顔色一つ変えない」
「俺の親父なんか、藤影家から追い出され、小さな会社与えられただけの負け組だし」
「だから神様って不公平だなって、よし、終わりっと。原沢、腕も縛っとけ」
原沢は、恭介の両腕を背中にまわし、ロープを巻き付け、ぼそりと言う。
「俺は、藤影の顔が嫌いだ。女みたいで」
その原沢に、侑太は「ほら」と小さなナイフを投げた。
「さっき昼飯食った店で取っといた。廉也、気に食わない顔なら、切るなり刺すなり好きにしていいぞ」
「いやー! 顔は傷つけちゃだめえ」
牧江果菜が騒ぐ。
「でも、恭くんがいけないんだよ。何度も果菜が匂わせたのに、ちっとも振り向いてくれなかったんだから」
果菜は原沢からナイフを取り上げ、恭介の首筋に刃を当てた。
「果菜はね、自分のものにならないものって、壊しちゃうの」
五年生とは思えないほどの妖艶さを見せながら、果菜は当てた刃を斜めに引いた。恭介の首筋に、赤い筋が流れた。
「お前に総合順位で負けるのが、納得いかなかったよ」
そう言って戸賀崎は、恭介の頭をぱーんと叩いた。
みんな
何を言っているんだろう。
何をしているのだろう。
両手両足を拘束されながら、恭介は、今自分の身に起こっていることがよく分からなかった。
さっきまで、普通に会話して、島を巡って、一緒にご飯を食べていたじゃないか。
昔から嫌いって、
親が金持ちだとか、
女顔とか、
成績とか、
関係あるのか?
それに、沈む?
僕だけが?
コツコツと足音が近づいた。
「君たち、準備は済んだか?」
恭介の知っている声だった。
「せ、仙波さん? 僕、今、何…」
恭介の言葉は途中で遮られた。
「恭介様、見ての通り、聞いての通りです」
月の光が仙波を照らす。
「あなたは今日、海難事故で行方不明になる。永遠に」
仙波の眼光は、青く冷たい。
仙波の次の科白で、恭介の心は折れた。
「このことは、藤影社長のたってのご意向です」
数分後、側面が損傷した小型フェリーは水没する。
近くを通りかかった他の船に、自力で泳いでたどりついた児童は四名。
一名は行方不明である。
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