奈落のタルト

西翔蒼

一章

プロローグ

 闇の中で女はこう思った。

 ――――此処はどこ? 

 記憶にあるのは、炎が街を赤く染め上げ、怒号や悲鳴が聞こえきて、固く閉ざされていた部屋のドアが破壊されて剣を握った男が押し入ってきて、その剣を振り下ろされたところまでだった。

 本当に此処は何処だろうと、周りを見渡してみたが真っ暗で何も見えず、何の音もせず、体がふわふわと浮いた感じだけがあり、何となく、いや恐らくきっとと、今いる場所が死後の世界のような気がして、「冥界かな?」と思うと、


「――いいや、お前は奈落に落ちるのさね」


 と、しわがれた声が近くから聞こえきて、それで老婆を連想した女は、話し掛けてきた相手にこう尋ねた。


「奈落? ねぇお婆さん、それはどんな場所?」

「死人が集う場所だよ」

「そう。やっぱり私は死んでいたのね。でも死んだら、奈落なんて所じゃなくて、冥界に落ちると思ってた」

「冥界は普通の死人が落ちる所さね。お前はそうじゃなかったろう」

「――そう、ね。そうじゃなかったわ」


 女は、『普通』ではなかった。そのせいで、いつも一人ぼっちだった。


「大変だったねぇ。苦労したろう」

「――ええ。苦労したわ。それに、退屈だった」

「ずっと閉じ込められていたからねぇ。顔を見せないように。お前のそのひどく醜い顔をね」

 

 そう言われ、少し震え、唇を噛む女は、生まれつき顔が醜く、それを一番気にしていた。

 他にも、動きにくい左の手足や、喉から呻くような声しか出せないことも気にしていたが、

 

「私は――――、私だって好きでこんな醜い顔に生まれてきたわけじゃないわっ!」


 今は声を出していた。そのことを疑問にすら思わずに。 


「呪いなんて振り撒かないわよっ、私が何したっていうの……ねぇ、私がみんなに何したっていうのよ!」

「煩い子だねぇ。よく喋る子だよ」


 そこで、女は自分が今何をしているかに気付き、ハっとして喉を右手で触った。

 しかし、手を使っているという感覚はあれど、触れた感触はなく、


「分からない。なんで、私の喉から声が……?」


 とまた喉から声が漏れて、そんな自分自身に驚き、しかし意識してみると、その声は、頭の中で使っていた声のように思い、それがそのまま外に出ているような、何とも不思議な感覚に陥った。


「お前の喉からは声なんて出ちゃいないよ。魂の声を響かせてるだけさね」

「――魂の? ああ、死んだから、私は魂になって、それで」


 どこかこの場を夢現のように思っていたが、それで自身の死を実感でき、静かに右手を下ろして、女は安堵した。

 死にたいと思ったことが、一度や二度ではなかったから。

 無論、自ら生に幕を下ろそうとしたことも何度もあった。

 しかし、その度に怖くなって、手が震えて出来ずに楽しくもない日々を今日この時まで無為に過ごしてきた。

 それがやっと終わってくれた。しかし未練がない訳でもなかった。

 それは年頃の娘特有のもの、女はそういう歳だった。


「本当に不憫な子だね。あたしの顔でも見て笑うといい。あたしの悩みの種だよ」

「お婆さんの、顔を? 暗くて何も見えないわ」

「あたしはしわっしわの皺塗れ、お前なんかより、ずっと醜い顔をしているよ」


 きょとんとしたあと、「ふ、ふふ」と女は笑いだす。

 それは一体どんな顔だろうか。そう思うだけで可笑しく、自分と同じで嬉しくもあったから。


「人様の顔見て笑うんじゃないよ。なんて子だい、まったく」 

「お婆さんが笑えって言ったんじゃない。驚いたわ。お婆さんは私と同じ悩みを持っていたのね」

「ああ。同じ悩みを持つもの同士、仲良くしようじゃないか」

「友達に――――なってくれるってこと?」

「何言ってんだい。あたしたちはもう友達じゃないか」


 女にとって、その言葉は本当に嬉しいものだった。

 嘘ではないのかと確かめたかった。

 しかし、聞くのが怖くて口に出そうとした言葉を飲み込み、「――ありがとう」とだけ伝え、身の上話をし始める。


「私ね、小さい頃に親と引き離されて、それからずっと一人だったの。だから友達がずっと欲しくて、死んでしまってから、それが叶うなんて。あの時は怖かったけど、剣を突き立てて、私をここに送ってくれたあの人には感謝しないと」

 

「自分を殺した相手に感謝なんてするんじゃないよ。なんて子だい、まったく」

「でも、嬉しくて。ずっと誰かと、こうやってお話しをしてみたかったの」

 

「喜んで貰ってるとこ悪いけどね。長いことお喋りは出来ないんだよ。お前を自分の花嫁にしようと狙ってる奴がいてね。ぼやぼやしてるとそいつにお前を奪われちまうんだ」

「私なんかを、自分の花嫁に?」


 醜い女を態々嫁に。そんな奇特な人がいるとは意外でしかなかったが、嬉しくはあり、その気持ちがそのまま女の顔に出て、声の響きに出ていた。


「喜ぶんじゃないよ。そいつはただの狂った王。いや、狂わせる王かね。見初められたお前も狂わされたろう、人生を。お前は奈落でも、また同じ目に遭いたいのかい?」


「話がよく分からないわ。でも、また同じ目に遭うのだけは嫌、絶対に嫌よ。死んでからくらい、私は、楽しく生きたい――――」


「そうだろうねぇ。まぁ生きるって言い方も変だけどね。実際、お前はまだ死んではいないのさ。肉体を失っただけ。魂が崩れていく時が本当の死さね。だいたいの奴らは冥界に落ちる前にそうなっちまうが、お前は生きていられる側で良かったね。楽しく生きられるかはお前しだいだけどね」


「私――しだい?」

「ああ、そうさ。でも、今のままじゃ無理だろう? だからもし、そんなお前が別の誰かに生まれ変われるとしたら、お前は誰になりたい」

「そんなの、沢山いて。誰かって言われても」


 決めきれなかった。なりたい子なんて沢山いたのだ。

 鉄格子で閉じられた小窓から見えた子達は、みんな自分のように醜くなくて、羨ましく思っていた。


「本当にそうなのかい?」

「――そう、だけど」

「いいや違うね。お前は孤独の中、焦がれたろう、願ったろう、夢見たろうに。その子のように生まれてこれたらと。強く、強くね」

「誰のことを、言ってるの?」

「よーく思い出すことだね。小さい頃の自分がどう過ごしていたかを」

 

 小さい頃も何も、部屋に閉じ込められてからの生活はずっと同じだった。

 外を眺めているか、たまたま部屋に置かれてあったみっちり本の詰まった本棚から、中身を手に取り持て余す暇を潰す日々。


 強いてではあるが、今と昔で違いがあるとすれば、幼い頃は文字が読めず、一冊の本を、それだけをずっと食い入るように見ていたこと。


 その本は、子供向けではなかったが、写実絵画のようなリアル挿絵が入り、そうしているだけでも面白く、月日の経過と共に文字を覚えてくると、今度はその本の中で繰り広げられる物語の方に引き込まれていき、年頃の近かった、お転婆で、皆に愛されていた王国のお姫様になりきって、中を駆け巡り思いを馳せていた。

 

 もしかして、その子かなと思い、「タルト姫?」と言うと、老婆が薄気味悪い声を上げた。

「ヒッヒッヒ」と。まるで、怪しげな魔女のようだった。


「お前はその子になりたいのかい?」

「なりたいかって言われたら、なりたいけど。タルト姫は子供よ?」


「だったら何だって言うんだい。なりたいんだったら、もっとその子のことを強く想いな。そうしたら、あたしがその願いを叶えてやるよ」


「願いを叶えるって……、そんなこと出来るの?」

 

「出来るとも。あたしを誰だと思ってんだい。まぁ、流石のあたしでも、お前をお姫様にはしてやれなくてね、ただそっくりにはしてやれる。だから、そこからはお前しだいさね。堂々と表に出られる顔になるんだから。いや、誰もがお前の顔を羨むようになるんだからねぇ」


「本当に――本当に私がタルト姫そっくりになれるの? 顔を変えられるの?」


「お前はまったく、しつこい子だね。もう黙りな。黙って今からあたしが言うことをよく聞くんだ。分かったね?」


 言われた通り、女は口を結んで頷いた。


「いいかい。あたしが、 、余計なことを言わず、ただひたすらにその子のことを想ってな。決して途中でやめるんじゃないよ。分かったね?」


 女はもう一度頷き、タルト姫を頭に思い浮かべる。


「いい子だね。お前の名は今日から『タルト』。自分の名を間違ったらいけないよ。もし、本当の名を口に出せば、お前は火炙りにされてしまうからねぇ。さぁ、魂の契約を始めようじゃないか」


 最後、よく分からないことを言われたが、怖い話ではあり、その手の話が大の苦手な女は大分肝を冷やしていた。

 少し震えてもきて、口が開きそうになり、咄嗟に手で口を塞いだ瞬間、

「ヒーヒッヒッヒ」と唐突に耳元で大きな声を上げられ、思わず悲鳴を上げそうになり、


「ああ、そういえば。魔女の前での沈黙が何を意味するか、お前は知っているかい?」


 女は、頭を振ってそれに返し、


「魔女に、自らの全てを委ねるということさね。お前の沈黙の返答をもって、魂の契約はここに成立した。ああ、 。これからは楽しく生きるんだよ、タルト」


 老婆がそう言い終えるや否や、闇が晴れ、灰色の空を見つめていた。

 雲が渦を巻いている。ねっとりとした空気が肌に纏わりつく。


「――ここ、は?」


 と澄んだ声が耳に届き、女は相手を探して周りを見た。

 誰もいなかった――――いや、一人いた。声の主と同じことを思った人物が。

 自分だ。

 女は、恐る恐る自らの喉に右手を持っていき、触ると感触があって、試しに声を出してみると、先ほどと同じ声が聞こえてきて、心底驚いた。

 しかし、そんなものはまだ序の口で、随分小さくなった左手が、左足が、滑らかに動き、一番気になる顔を最後に触ると、醜く曲がっていたはずの鼻が真っ直ぐになっていた。


それで自分は変わったのだと、タルト姫になったのだと思うと自然と笑みがこぼれてきて、風に引かれ棚引く、小麦色の綺麗な自身の髪に見惚れ、指の隙間にそれをさらさらと流して、その後、込み上げてくる喜びに身を任せて広がる緑の上を駆け始め、直ぐに転んで空を見上げ、肺一杯に息を吸い込んで、歌詞のないラだけの歌をうたい始めた。


 その歌には、自分の声を聴いていたい、誰かに聴かせたい、そんな想いが込められていて、沢山うたったあと、打って変わって静かに泣き始め、泣き止むまでの長い間、女はずっと、ずっと老婆への感謝の言葉を口にしていた。


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