彼女の煉獄

椰子草 奈那史

第1話


「なぁ、お前なら誰がいい?」

「俺は……佐々木とか、松野かな」

「何? お前ギャル好きなの!?」

「うるせーな、じゃあお前は誰よ?」

「オレは……水口とか、かな」

「うわ、何であの陰キャなんだよ」

「いや、そうだけど! アイツ……なんかエロいんだよ」

「ぶはッ、お前どんだけ飢えてんだよ」

「バカ、声でけぇって――」


 聞こえてるよ。

 よく飽きずにそんな話ばっかりできるよね。

 余計な心配しなくても、私を含めて名前の出ていた女の子は、君達のことなんて相手にしないと思うよ。

 だいたい口先では元気いいけど、君達、女の子とキスしたことだってあるの?

 無邪気な君達が、むしろ羨ましい。

 だって私は――。


 ※※※


「お姉ちゃん、今日の晩ご飯なにー?」

 妹のひびきが、流しの前の私にまとわりついてくる。

「今日は豚肉とキャベツの炒めものだよ」

「あー、それ私の好きなやつ」

「そうでーす。ほら、もう少しで出来るからそれまで宿題やってなさい」

「はーい」

 今年から中学生になったとはいえ、まだまだ子供っぽいところを残している響は素直にテーブルに戻った。

 私は夕食の準備を急ぐ。

 20分後、私と響は向かい合って食卓に座っていた。

「それじゃ、いただきまーす」

 響は、大好きな料理を美味しそうに頬張る。

 こうして今日も、2人だけの夕食が始まった。


 私の家には母はいない。

 母は5年前、私が12歳の時に家を出て行った。

 その頃、父と母は子供の目から見てもわかるほどに不仲になっていて、毎日のように起こる諍いを、私と幼い響はいつも部屋の片隅で抱き合って見ていた。

 その原因が主に父にあるのは当時の私でもわかった。

 建築関係の職人をしている父は酒癖が悪く金遣いも荒かった。

 母がそれをなじると父は激高し、時には暴力も振るった。

 いつのことかは忘れたけど、母が吐き捨てるように言ったのを憶えている。


「昔はあんな人じゃなかったのに……」


 母が出て行ったのはそれから間もなくだったと思う。

 子供の私の耳にも、近所の大人のヒソヒソ声は耳に入ってきた。


 ――相手は5つも年下の男だってよ。

 ――娘二人を捨てて、駆け落ちだって。


 それまで、私は母を可哀想な人だと思っていた。

 だけど母は私達ではなく、別な男の人との新しい生活を選んだのだと思うと、ただ悲しく、そして憎らしいと思った。

 こうして、父と取り残された私達姉妹だけの生活が始まった。

 母がいなくなって、父はさらに荒れた。

 毎日ではないけれど、お酒を飲んで機嫌が悪くなると私にも手をあげるようになった。

 仕事は行ったり休んだりを繰り返し、生活も苦しくなっていった。

 どういう事情かは知らないけれど、祖父母や親戚とは全く交渉がなかったから、親族で頼れる人もいない中、私は気まぐれに父が置いていくわずかなお金で必死に響と生きてきた。

 高校に入ってからは、近所の定食屋のご夫婦の厚意でアルバイトを始めた。

 響をあまり1人にはできないから得られるお金はそんなに多くはないけれど、生活の足しにはなっている。


「お父さん、今日は遅いのかな」

 不意に、響が私の様子をうかがうようにたずねる。

「今日はたぶん遅いと思うよ」

 私の答えに響は小さく「そう」とつぶやく。

 響は父親恋しさで私にたずねたわけではない。

 むしろその逆だ。

 響は父のことを怖がっている。

 だから、父の帰りが遅いのを望んでの問いかけだった。

 父は、仕事に行っている。

 だけど、仕事をした日はほぼ間違いなくどこかへお酒を飲みに行ってしまうから、帰ってくるのはまだだいぶ先だろう。

「心配しなくてもいいよ」

 私の言葉に、響は小さくうなづいた。


 ※※※


 今日出された宿題がようやく終わりそうな頃、アパートの廊下を不規則に踏み鳴らす足音が聞こえてきた。

 時計をみると、午後11時半を過ぎている。

 足音は私の家の前で止まり、ドアを乱暴にガチャガチャと揺する音がした。

 やがて、足音の人物はようやく鍵を開けることが出来たのか、ドアが開く。

 家の中に入ってきた父は、仕事道具の入ったバッグを玄関に置くと、ふらふらとした足どりで部屋に入ってきて、ボソッと「帰ったぞ」と言った。

「……おかえり」

 私は振り向きもせずにノートと教科書を片付け始める。

香奈かな、響はもう寝てるのか」

「そうだよ、だからうるさくしないで」

 私の素っ気ない答えに、咳き込むような笑い声をあげた父が近づいてきて、私の背後に座り込んだ。

「なんだ、ずいぶん冷てぇな。ここまで育ててやった親に対してよぉ」

 私の腰のあたりを撫でる手の感触がした。

「やめてっ! 何が育ててやったよ。もう食材を買うお金もなくなったよ! どうするつもり!?」

 その手を払いのけて立ち上がった私に、床に座ったまま父は顔をしかめた。

「へっ、お前、だんだんに似てくるな」

 父は、ズボンのポケットに手を入れて何かを漁ると、テーブルの上に何枚かのクシャクシャの紙幣を投げつけた。

 それを拾って延ばすと、五千円札が一枚、千円札が三枚あった。

 私が黙ってそれを自分の部屋着のポケットにしまおうとしたとき、私の手首を父の強い力が引いた。

 重心を崩して私は床に転がる。

 その上に、父が覆い被さってきた。

「やめてよ!」

「響が起きたら困るだろ? だから、騒ぐなよ」

 目の前には、ドロリと淀み血走った父の目があった。

 酒混じりの不快な呼気が、私の鼻先にかかる。

 私は目を閉じた。

 私の部屋着が、乱暴に引き下ろされる。

 そのまま、父の汗臭い体が私の上に覆い被さってきた――。


 私が初めて父に犯されたのは、15歳の時だった。

 その時の状況も今と同じようなものだ。

 響はすでに眠っていて、私が1人で宿題をしていた時だった。

 酔った父が、背後から私の胸のあたりに手を這わせてきた。

 驚いた私は逃れようとしたが、父の力には全く逆らえず床に組み伏せられた。

 私は、先生や警察に言う、と精一杯の抵抗をした。

 しかし父は、「俺が捕まったら、お前と響は施設行きだ。ただし、姉妹一緒に居られるとは限らないぜ」とあざ笑った。

 響と離れるのはイヤだ。

 それにもし私が激しく抵抗したら、父の矛先は響に向かうかもしれない。

 そう思った時、私は抵抗するのを止めた。

 受け入れたのではない。ただ諦めたのだ。

 それは、嫌悪と苦痛しかない行為だった。

 獣のような声をあげて自分の劣情を吐き出すと、父は満足したのか醜悪な裸体をさらしたまま、床でいびきをかき始めた。

 私は浴室に駆け込むと、まるで自分を罰するかのように冷たい水のシャワーを浴び続けた。

 視線を落としたとき、内腿を伝う赤い筋が見えた。

 私は激しく嗚咽しながら身体を洗い続けた。

 それからも、時々父は酔った時に私の身体を求めてきた。

 無力だった私は心の中では激しく拒絶しながらも、生活のため、響のためにと思い、その何の情もない交わりを続けてきた。

 父は私に母の姿を重ねているふしがあった。

 時折、私との行為の最中に母の名前を口にする事があったからだ。

 私は、それでなくても唾棄すべき行為に加えて、憎んでいる母の代用品にされている惨めさに耐えながら、この2年あまりを過ごしてきた――。


 シャワーを浴び終えて部屋に戻ると、父はすでにいびきをかきながら床に転がっていた。緩んだ毛むくじゃらの身体と、だらしなくさらけ出した陰部を見ると言いようのない殺意が湧き上がってくる。

 実際、台所から包丁を手にして父に突き立てようとしたことは、一度や二度ではない。

 それを押し止めたのは、やはり響の存在だった。

 こんな父親でも、もし私が殺してしまったら響は殺人犯の妹になってしまう。

 響にそんな辛い想いをさせる訳にはいかない。


 私は、響の寝ている部屋に入ると隣の布団に潜り込んだ。

 暗闇の中で、私は考えていた。


 ――そろそろ、「計画」を実行しなきゃいけない時だ。

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