第39話 黄色いテープとアマンド
パリからレンヌまでは、距離にして約三〇〇キロメートル、フランスの新幹線であるTGVを利用すれば、約一時間半の道行きである。
この距離と移動時間は、日本の鉄道に置き換えてみると、東京から名古屋、あるいは、東京から仙台、または、東京から新潟とほぼ等しい。
別の言い方をすると、大学の一講義分の時間なので、特に、短くも長くもないのだが、とは言えども、独り旅だと、暇をやや持て余す、一時間半とは移動時間である。
であったのだが、ロンドン旅行で大英博物館を訪れた大学生の話や、講師の〈グリモワール〉を題材とした車内講義のお陰で、有栖川哲人のガーディアンである黒いスーツの若者、蛇石理音(へびいし・りおん)は、一講義分の移動時間を退屈せずに過ごすことができたのであった。
就職活動に失敗し、さらに、春学期の段階で早くも、留年が決定的になった大学四年の七月末、一年半の間、片思いをしていたサークルの後輩に振られると、二十二歳の蛇石は、そのまま、バックパックを背負って、友人たちには、「自分を見つめ直すために旅に出る」とだけ言い残して、日本から飛び出したのであった。
さして、語学が堪能でもなく,とくに、海外事情に詳しい分けでもなく、さらに、行き先も決めていないノー・プランでの出国だったのだが、本やテレビの中のバック・パッカーたちが、数多のトラブルに見舞われつつも、それらを乗り越え、旅した者にしか分からない体験を積み重ねてゆく姿を読んだり、観たりしていたので、〈行けばなんとかなる〉と、このように、蛇石は楽観視していたのだが……。
結局、なんともならなかったのである。
八月の初めに日本を出て、九月半ばに、憧れのパリに到着した時には、日本から持ち出した路銀は底をつき、さりとて、日銭を稼ごうとしても、滞在許可証も持たないバック・パッカーを雇ってくれる所など見付からず、日本恋しさから、日本人街が在るオペラ座周辺をフラフラしていた時に、森田真一から声を掛けられ、以降、恩人であるドン・シンイチの部下となり、今に至っているのであった。
レンヌでTGVを降りた蛇石が、駅から出ようとした時、ホームの出口が黄色のテープで塞がれているのに気が付いた。
「なんだ? 何か事件か?」
しばらく、黄色のテープの辺りを観察していると、ホームの出口は完全に塞がれているのではなく、二人が横に並んで通れるくらいの隙間があって、そこに、フランス人が居て、どうやら、降車客の乗車券を検札しているらしかった。
「なんだ。あの黄色いテープが簡易改札なのかな? なんか、しょぼいな」
だが、かく言う瀧は、TGVの乗車券を持ってさえいないのだ。
「まあ、『チケット、ロスト、ロスト』、失くしたって言って、泣いたり、喚いたりすれば、自分、日本人だし、ワンチャン、なんとかなるだろう」
だがしかし——
ノー・チャンであった。
蛇石は、カタコトの英語で、乗車券を失くしたという事を伝え、モンマルトル駅でもらった、パリからモンサンミシェルまでのルートが書かれた英語版のコピーを、私服のフランス国鉄の職員に見せ、パリからレンヌまでの運賃、七五ユーロをカードで支払うと伝えたのだが、それにもかかわらず、フランス人の職員は、なにやら『ノン,ノン、アマンド、サン・トゥーロ、アン・ネスペース』と言い続けているのだ。
蛇石は、持っていた電子辞書に「amando」と打ち込み、調べてみたのだが、そんな単語は検索に引っかからない。
しまいには、相手は「パスポール」と言ってきたのだ。
これは調べなくても分かる。
まずい。今の自分は、〈ノワール〉、すなわち、不法滞在者なので、パスポートだけはヤバいのだ。
その時である。
「ケスキスパス? 君、どうしたの?」
駅の出入り口あたりから黄色いテープの簡易改札まで戻ってきて、私服職員と蛇石に声を掛けてきた者がいたのだ。
*
「ムッシュー、なんか、後の方、少しザワザワしていませんか? 後続の人の流れも悪いみたいだし」
そう教え子に指摘された哲人が振り返って、黄色い簡易改札の方に視線を送ると、何やら、検察の私服職員と揉めている東洋人の姿が目に入った。
フランスの鉄道では、改札を常設していない駅も多いのだが、時折、検札をし、キセル客や、コンポステをし忘れた乗客に罰金を請求する事があるのだ。
今、私服職員に捕まっている東洋人は、コンポステをする事を知らずに乗車したとか、おそらく、そんな理由で揉めているのであろう。
「ちょっくら、行ってくるわ」
私服職員に「パスポール」と言われた直後、一瞬、青ざめた表情をさせた東洋人が「まじかよ」って呟いたのを耳にして、哲人は、その若者が日本人だと分かった。
「君、どうしたの?」
「えっ!」
哲人が声を掛けると、日本人の若者は、人差し指で自分の鼻を指差していた。
哲人が首肯すると、その若者は説明をし始めた。
「自分、切符を失くしたんで、その分の運賃を払うって言っているのに、聞く耳もってくれないんです。このフランス人」
「なるほど」
「いったい、どうしたらいいんですか? アリ………」
「『蟻』? まっ、イイや。
〈アマンド〉を要求されているんだよ」
「アマンドって何ですか?」
「〈amende〉で、アマンド、コンポステをしていない客への罰金だよ。黄色い機械に乗車券を通していない客は、罰金を払えって言っているんだよ」
「自分の場合、切符の紛失なのですが」
「ダメダメ。それも罰金の対象。そおいったトコ、フランス人は融通効かないんよ。もしかして、罰金額、百ユーロの現金、持っていない?」
「あっ、ハイ。あとから現地で合流するツレに財布を預けていて」
「ちょっと待ってな」
そう言うと、哲人は、私服職員を連れ出して、その耳元で何やら小声で話すと、そのフランス人の手に何かを握らせた。
「君、通っても大丈夫だって。話ついたから」
黄色の簡易改札を後にする瀧と哲人に、とびっきりの笑顔を浮かべた私服職員は、「ボヌ・ジュルネ、メシュー(良い一日を)!」と挨拶してきた。
「も、もしかしてかて……」
何かを言い掛けた蛇石の口先に、哲人は、立てた人差し指を向けた。
「みなまで言わなくて、いいよ。
異国の、しかも地方で、今日こうして出会ったのも何かの縁、いつか君が同じような状況に出くわした時に、今日のことを思い出してくれれば、それでいいから」
そう言った哲人は、雷太が待つ方に戻っていったのであった。
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