第37話 大英博物館のグリモワール
「ところで、サンダー、お前が、大英博物館に行ったって話で思い出したんだけれど、かの博物館には、実際に〈グリモワール〉が所蔵されているって知っているかい?」
「ムッシュー、それって、中世時代の庶民には難解なラテン語の書物っていう意味のグリモワのことっすか? それなら、そんなに珍しい事じゃないって思うんすけど」
「よく覚えているな」
英語の〈グラマー〉、フランス語の〈グラムメール〉は、ラテン語の〈グラマティカ〉に由来し、〈グラムメール〉とは、語源的には〈ラテン語の文法〉のことを意味する。
そして、〈魔術書〉を意味する〈グリモワール〉と〈グラムメール〉は、頭の語が同じ事から推察できるように、語源を同じくしている。事実、現代の仏和辞典を開いてみると、〈グリモワール〉の項目には、「難解な書物」あるいは「判読できない文字」という意味が記載されている。
つまるところ、ラテン語を理解できない中世のフランス人にとっては、ラテン語の文法、すなわち、〈グラマティカ〉で記された書物は、自分たちにとって、まったく理解できない代物で、そんな訳が分からない言語であるラテン語で書かれている本が〈グリモワール〉であったようだ。
そしてさらに、中世の民衆にとって、全く理解できない不可思議な言語を駆使して、〈超〉自然的な現象を引き起こす者は、魔術師以外の何者でもなく、そのための術語が記された魔術書もまた〈グリモワール〉と呼ばれていたのであろう。
このようなう四方山話を、大学講師の哲人は、担当する第二外国語のフランス語のオリエンテーションで毎年語っており、この雑談を、大学二年生の雷太は、二年近くたった今なお覚えていたのである。
教え子の記憶力の良さに舌を巻きながらも、突き立てた人差し指を、顔の正面で左右に振りながら、雷太の反応を、哲人は否定した。
「いや、ちゃうちゃう。中世の民衆には理解できないラテン語の書物って意味の、比喩的なグリモワールのことではなくって、まさに、〈魔術書〉という意味でのグリモワールのことだよ」
「まじっすかっ! グリモワって、ラノベやアニメの中の想像物じゃなくって、実在するんすか!?
「あるよ。『まじ』で実在するよ」
哲人は、淡々とした口調で、雷太に応じた。
「お、驚きっす」
一方、雷太は、感情を抑えることができなくなって、TGVの車内であるにもかかわらず、また驚きの大声を上げてしまったのであった。
「じゃあ、話は、ちょっと長くなるかもしれないけれど、バスに乗り換えるレンヌまで、もう少し時間あるし、大英博物館のグリモワールについて、講義をぶつとしますか」
「お願いします。何気に、ムッシューの講義を受けるのって、一年生の時以来っす。自分、楽しみっす」
かくして、哲人による、TGVという、いわば、移動教室の中でのグリモワールを叩き台にしての文化史講義が始まることになったのである。
「サンダー、ソロモン王って知ってる?」
「モチのロンっすよ。
『旧約聖書』に出てくる古代イスラエルの王で、七十二柱(はしら)の悪魔を使役したっていう魔術師、ラノベやアニメ好きなら、知らないヲタクはいないって程の超有名人っすよ」
「それな。
ソロモンは、悪魔を使役していたらしいけれど、その悪魔の召喚方法などが書かれた魔術書、つまり、〈グリモワール〉が大英博物館に在るのさ」
「ま、まじっすかっ!」
「そっ。あるんだな、これが」
「ムッシュー、それって、どんなグリモワなんすか?」
ソロモンを由来とする数多の魔術書の原典は、歴史の流れの中で、その全てが失われてしまっているのだが、幾つかの写本や翻訳が残っている。そうした文献群の代表の一つが、『ソロモンの鍵』である。
現存する『ソロモンの鍵』の最古の写本は、十五世紀のギリシア語の手稿(ハーリアン写本五五九六)で、この手書きの書は『ソロモンの魔術論』と呼ばれており、やがて、これが、イタリア・ルネサンス期に、イタリア語やラテン語に翻訳されることになる魔術書の元になったと考えられている。
そのルネサンスのラテン語やイタリア語で書かれた完本も、原典同様に失われているのだが、このイタリア語・ラテン語版が、近世に各国言語で翻訳されたグリモワールの〈原本〉であるようだ。
したがって、現存する最古のラテン語版は、十七世紀初頭に印刷されたもので、十八世紀以降のラテン語のグリモワールは数多く残されている。
ラテン語以外の言語だと、『ギリシア人プトレマイオスによって明らかにされたソロモンの小鍵』が、十六世紀後半に英訳されている。
フランス語版は、数多くの版があるものの、十七世紀だと翻訳が一つあるだけで、それ以外は全て、十八世紀以降のものである。
かくの如く、『ソロモンの鍵』は、ギリシア語、ラテン語、イタリア語、英語、フランス語とヨーロッパ言語の翻訳が認められている。
欧州言語以外だと、ヘブライ語の写本が二点存在しており、そのうちの一つが、大英図書館オリエンタル・コレクションの〈写本六三六〇〉と〈写本一四七五九〉に分けられ、大英博物館に保管されている〈羊皮紙文書〉である。しかし、このヘブライ語の写本は、ソロモンの子孫の言語とはいえ、実は、中世末期のラテン語〈原本〉を翻案した逆輸入版であるらしい。
「羊皮紙にヘブライ語で書かれているのに、実は、原典から遠くて、むしろ新しいなんて、なんか、ちょっとガッカリっすね」
「なっ。
で、今、現代に生きている僕たちが読むことが可能な『ソロモンの鍵』ってのは二つあって、一つが『ソロモンの小さな鍵』、もう一つが『ソロモンの大いなる鍵』なんだよね」
「それ、名前だけは聞いたこと、あります」
「で、ここで登場させたいのが、十九世紀のマグレガー・メイザースってオカルティストなんだよね。ちなみに、これ、本名じゃなくて、二つ名な」
「まぐ、マグレガー……、めい、メイザース、……、マグレガー・メイザマス、よしっ、覚えた」
「サンダー、メイ〈ざます〉じゃなくて、メイザースな。このマグレガー・メイザースは、ロンドンの北部の生まれらしいんだけど、自分は、スコットランドのハイランダーの末裔だと思い込んでいたらしいんだよ」
「あっ、だから、〈マック〉なんすね」
「そゆこと」
元々、アイルランドとスコットランドのゲール語における〈マック〉とは〈息子〉の意味で、現代では、マックは姓の一部に組み込まれているのだが、苗字にマックが入っているという事実は、ルーツがアイルランドか、スコットランドである事を示しているのである。
「大英博物館には、十五世紀前後の写本と思われる「〈ソロモン〉の名を冠する七種類の断章」ってフラグメントが保管されていたんだけれど、このマグレガー・メイザースさん、たぶん、大英博物館の図書閲覧室に通い詰めたんだろうな、その大英博物館の七種の断片の内容を編集して、英訳しちゃったんだよ。そして、それを、一八八九年に『ソロモンの大いなる鍵』として出版したんだよね。そのおかげで、今、一般人の僕たちも、普通にソロモンの魔術書の翻訳を手に取る事ができるってわけ」
「まさしく、ザッツ・グリモワールっすね。ところで、『大いなる鍵』ってどんな内容なんすか?」
「魔道具の作成法、魔術儀式の約束事、さらには、惑星と対応した精霊の召喚術式の解説さえ書かれていたらしいよ」
「ほぉう、今のラノベの魔術書のイメージ、そのまんまっすね」
「まさしく典型にして、今、僕らがイメージする魔術書のモデルだよね」
「でも、なんで、七つの断片が現存しているだけで、完全な本が失われているんすかね?」
「そりゃ、欧州の中世や近世だぜ」
「あっ、そっか。異端審問や魔女裁判を避けるためっすね」
「多分な」
で、話を戻すけれど、『大いなる鍵』の最大のウリってのは、豊富な図と、大量の〈ペンタクル〉で、イメージ、現代の図録本なんだよな」
「ムッシュー、ところで、『ペンタクル』って何すか?」
「えっと、魔術用の護符、簡単に言うと、縮小化した魔法陣みたいのだよ。円に五芒星とか、六芒星みたいなのが入っているのが典型かな。で、『大いなる鍵』には、付録として、そのペンタクルが、たくさん入っていたわけ」
「理解っす」
「とまれ、この『大いなる鍵』の基になった断片が、大英博物館に保管されているって話なんだよね」
「ムッシュー、自分、そのマックさんが、すげぇ気になったんすけど、なんか他におもしろエピソードとかないんすか?」
「あとは、ゴールデン・ドーン、〈黄金の暁会〉の話かな」
「なんすか、その怪しげな団体は?」
「メイザースが『大いなる鍵』を英訳する少し前の出来事なんだけれど、のちに、世紀末のヨーロッパ最大のオカルト団体になる〈黄金の暁会〉ってのが創設されたんだよね。マグレガーは、その会の三人の創設メンバーの一人だったんだよね」
「マックさん、ただのスコットランド〈おし〉のコスプレ好きのおっさんじゃなかったんすね」
「でな。その後、メイザースは、ロンドンからパリに移住して、パリで、グランストリー伯マグレガー って自称してたらしいんだよ」
「なんか、怪しさマックスっすね。しかも、自分で『伯』って言っちゃうなんて、モンテクリスト伯みたい。あっ、なるほど、十九世紀のパリだから、その時代を専門にしているムッシュー、この人の事を知ってたんすね」
「そおゆうこと」
「それから、メイザンスはどうなったんすか?」
「メイザースな。もういいや。
結局、黄金の暁会は内部分裂して、メイザース率いる一派は、〈A∴O∴(アルファ・エト・オメガ)〉に改名したんだよね」
「派閥争いって世の常なんすかね」
「かもな」
「ところで、すっかり忘れてましたけど、『ソロモンの鍵』って大きい鍵と小さい鍵があるって話でしたけれど、その小さい方ってどんな本んなんすか、ムッシュー」
有栖川哲人は、咳払いを一つした後、マグレガー・メイザースと『ソロモンの大いなる鍵』から、『小さな鍵』に話を移したのであった。
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