第16話 真夜中のリュテス円形闘技場
パリの第一区の「モントルグイユ通り」に位置している「レスカルゴ・モントルグイユ」での会食を終え、森田真一と別れた有栖川哲人は、一区から五区までを、一時間ほどかけて、ゆっくりと歩いて帰ることにしたのだった。
先ず、セーヌ川に浮かぶシテ島の方に向かってゆき、それから、右岸からノートル=ダム橋を渡ってシテ島に入った。
次いで左手に、シテ島の病院、オテル=デューを見ながらシテ通りを進んでゆき、病院の敷地が終わった所で左折すると、右斜め方向にノートル=ダム大聖堂が見えてきた。
昼間だと、この歴史建造物の天辺からパリを一望するために、長い入場待機列が形成されている。だが今は、人気はほとんどなく、大聖堂の正面は白色の光でライトアップされている。
「やはり、美しいな」
人が全く居ない夜のノートル=ダムは、建物それ自体の壮麗さを示し、そこにさらに、照明が当てられることによって、美しさが倍加されているように、哲人には思われた。
そんな夜のノートル=ダムの姿態を、デジカメに何枚も収めた哲人は、夜のピクニックを再開したのであった。
左手側にノートル=ダム大聖堂の横顔を眺めながら、シテ島沿いの道を進んでゆき、右手側に見えたアルシュヴェ橋を渡り切った後、トゥルネル河岸を横断した哲人は、そのままベルナルダン通りに入った。
それから、この通りがモンジュ通りと交差したところで、今度は、モンジュ通りを取って、この道を直進した。
「モンジュまで来れば、おウチまで、あと少しだし、そうだな……、リュテスにでも寄って行こうかな」
不意に、哲人は、モンジュ通りに近接する遺跡に立ち寄ってみたくなったのである。
フランスで、「レ・ザレーヌ・ド・リュテス」と呼ばれている遺跡は、ソルボンヌ大学の傍にあるクリュニー浴場跡と同じように、ガロ=ロマン時代の、紀元一世紀に建造されたローマの遺跡である。
その時代、この古代ローマの施設では、野生動物の展示や演劇の上演、そして、剣闘士の戦闘などが催されていた。それゆえに、レ・ザレーヌ・ド・リュテスは、日本では、「リュテス円形劇場」、あるいは「リュテス円形闘技場」と呼ばれている。
ガロ=ロマン時代、当時のリュテスは、長軸五十二.五メートル、短軸四十六.八メートルの楕円形の建造物であった。
リュテス円形闘技場は、演劇の上演や剣闘士の闘技が行われる〈アリーナ〉と、最大一万七千人を収容できる〈観客席〉によって構成され、そのアリーナと観客席との間を、高さ二.五メートルの壁が取り囲むような構造を成していたそうだ。ちなみに、最大収容観客数一万七千人というのは、現代の日本では日本武道館と同じ規模である。
アリーナを取り囲む観客席の上段は、ガリア人の奴隷や貧民、あるいは、ローマ人の女性向けの座席で、下方の、舞台であるアリーナ近くの最前部は、男性ローマ市民向けの席であった。
そして、男性ローマ市民向けの観客席下方のその直ぐ下には、動物の檻や、剣闘士が控えている小部屋が在って、アリーナ側に、その出入り口が設けられていた、と言う。
残念ながら、現在、リュテス円形闘技場の遺跡は、完全な形で残っているわけではない。かつて存在していたであろう観客席部分は、現在のモンジュ通りに在り、その部分は、今では失われてしまっているからだ。
そして、現存している闘技場跡の部分は、十九世紀末に公園とされ、今にいたっている次第なのである。
「ノートル=ダムもそうだけれど、町中で、こうして歴史建造物に普通に出会える、これこそが、まさにパリの魅力なんだよな。
パリって都市は、町それ自体が一個のミュージアムみたいだ。
ちょ、待てよ、ミュージアムは英語だから、フランス語で言い直すとするか。要するに、パリは一個の〈ミュゼ〉なんだよな」
英語の〈ミュージアム〉にせよ、仏語の〈ミュゼ〉にせよ、その語は、ローマ神話における、学問と芸術を司る九柱の女神たち、ミューズを祀る御堂が、その由来なのである。
ギリシア=ローマ神話として習合してしまってはいるものの、そもそも、ローマ神話におけるミューズとは、ギリシア神話の〈ムーサイ〉で、そして、ムーサイの御堂が〈ムーセイオン〉であり、これこそが〈ミュージアム〉あるいは〈ミュゼ〉の語源なのである。
たしか……、今のパリには現存してはいない、と記憶しているのだが、パリの地下の何処かに、ガロ=ロマン時代のミューズの御堂も眠っていたりするのかな?
そんなことを考えながら、哲人は、今では公園になっている、人っ子一人いないリュテス円形闘技場に足を踏み入れたのであった。
「今から、二千年も昔に、この場で、グラディアトゥールが命懸けの闘いを……」
観客席の下段から、星が瞬く、真夜中の夜空の天頂を見上げた哲人は、ガロ=ロマン時代に思いを馳せたのであった。
「誰もいないし、ちょっとくらい構わないかな……」
そう呟くと、哲人は、観客席と闘技場を区切っている壁を軽やかに跳び越えた。
それから、アリーナの壁際に鞄を置くと、ベルトに着けていた自衛用の特殊棒を右手に持ち、コートのボタンを左手で一個一個外し終えると、黒いトレンチコートを翻しながら、アリーナの中央部にまで進んでいった。
アリーナの真ん中に至った有栖川哲人(ありすがわ・てつと)は、能う限りの想像力を駆使して、目前に、倒すべき対戦相手を思い描きながら、こう言い放ったのである。
「俺は、〈黒の剣士〉アリス・フィーロっ! 貴様に恨みはないが、己が自由を手に入れるため、これから、お前を倒させてもらうっ!」
そう独り言ちるや、右手を一振りして得物を伸ばすと、有栖川哲人、もとい、黒の剣士アリス・フィーロは、アリーナで演武を開始したのであった。
型通り、ひとしきり舞った後、哲人は、特殊警棒を元の長さに戻すと、それをベルトに装着した。
突如、二月の冬風が吹き掛かってきて、哲人は、思わずコートの襟を引き上げてしまった。
「アリーナで、かなり動き回ったので、けっこう温まったけれど、さすがに、冬のパリの風は冷たいな。身体が冷え切る前にアパルトに戻るとするか……」
その時である。
「ムッシュゥゥゥ~~~」
突如、哲人は、真夜中のリュテス円形闘技場で声を掛けられたのであった。
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