第15話 エスカルゴ専門店での会食とフランスの携帯電話
哲人は、アパルトマンを出る前に、真一と会食する「レスカルゴ・モントルグイユ(L'Escargot Montorgueil)」のホームページを閲覧した。
このレストランは、店名にもなっている、モントルグイユ通り三十八番地に位置している老舗レストランで、その歴史は一八三二年にまで遡ることができる。だが、老舗でも敷居が高いわけではなく、値段は実に手頃であった。
セーヌ河畔で古本巡りを楽しんだ後で、夕方の六時半頃に、哲人は、約束の場所に向かうべく、ロワイヤル橋を渡った。
橋を渡り切った後で右折し、フランソワ・ミッテラン河岸を取り、ルーヴル美術館の前を通り過ぎ、そのままルーヴル通りを直進して行くと、右にヌフ橋が見える。そこで、橋とは逆方向に左折し、ポン=ヌフ通りに入って進んでゆくと、レ・アールに行き着く。
レ・アールとは、かつてはパリの中央市場であった広大な空間で、その歴史は一一三五年にまで遡ることができる。ここは、〈パリの巨大な胃袋〉だったのだが、今では、大規模なショッピングセンターを備えた複合施設になっている。
このレ・アールを通り抜けると、サン=トゥスタッシュ教会が見える。この右手側にU字型の分岐路があり、左がモンマルトル通り、右がモントルグイユ通りである。その右の道を取り、石畳の細道を進んでゆくと、モントルグイユ通りがエティエンヌ・マルセル通りと交差する少し手前の、モントルグイユ通りの三十八番地に在るのが、目当てのレストラン、〈レスカルゴ・モントルグイユ〉であった。
右岸でセーヌ川を背にした場合、偶数番地は進行方向の右にあるため、哲人は右方面を注視していたのだが、店名が書かれた看板の上に、金色の巨大なカタツムリのオブジェが載っていたので、ここが真一との約束の店であることが直ぐに分かった。
ロワイヤル橋からこの料理店まで、徒歩で約二十五分の道行であった。
「それにしても、久しぶりだね、人(ジン)さん。最後に会ってから、どのくらい経った?」
「五年ぶりだよ。真(しん)さん」
真一は、哲人(てつと)の名前の漢字を音読みし、さらに前半を省略して「ジンさん」と呼び、一方、哲人は、真一のことを「シンさん」と呼んでいたのであった。
挨拶を交し合い、互いの近況を話している間に、食前酒として頼んでいたシャンパンを、ギャルソンが運んできた。
「それじゃ、再会を祝して、ア・タ・サンテ!」
「ア・テ・ジュー!」
そう言って、二人は、手に持ったグラスを軽く持ち上げた。
フランスでは乾杯の際に、「ア・タ・サンテ」と言う。「サンテ」とは健康という意味で、つまり、フランスでは乾杯の際に、同席者の健康のために杯を捧げるわけなのだ。
これに対して、普通は、「ア・タ・サンテ」とオウム返しをするか、あるいは、サンテという名詞を代名詞にして、「ア・ラ・ティヤン」と述べる。
だが、哲人は、「ア・テ・ジュー(君の両目に)」と切り返した。これは、古いアメリカ映画、『カサブランカ』におけるパリでの乾杯場面に使われていた、日本語字幕を参照したものであった。ちなみに、フランスでは乾杯の際に、グラス同士をぶつけ合わせない。グラスに傷がつくからだ。
二人のシャンパングラスが空いたところで、そのタイミングを見計らったように、ブルゴーニュ産の白ワインのボトルが運ばれてきた。
それから、ギャルソンは、料理を持って来て構わないかどうかを確認してきた。
真一が許可を出すと、ギャルソンは大皿に乗った三十六個のエスカルゴを持ってきたのだった。
「人さん、好きなだけ食べてよ。再会を祝して、今日は俺のおごりだから」
「そんなことを言って構わないの? 僕は、おごられる時には遠慮はしないよ。じゃ、ゴチになります」
「ハハハ、オーケー=ドーキー」
運ばれてきたエスカルゴ料理は、バジルとニンニク、そしてバターによる〈エスカルゴバター〉という伝統的な緑色のソースを使ったものだけではなく、ロックフォールというブルー・チーズ、カレーという三種類のソースによるものであった。
「うっっっまそおうぅぅぅ〜~~。それでは、いたがきます」
哲人は両手の掌を重ね合わせた。
「エスカルゴを存分に楽しんでね。ボナペティ(よい食欲を)!」
かくして、哲人は、ブルゴーニュのワインとエスカルゴに舌鼓を打ったのであった。
哲人と真一は、十九時に入店してから閉店時刻の二十三時まで、心ゆくまで会食を楽しんだ。
「人さん、今から、内の者(うちのもん)を呼ぶけれど、車で送って行こうか?」
飲酒していたので、真一は、携帯電話で、二区にある店の従業員に連絡して、レストランのある一区から、十六区にある自宅まで車で送らせることにしたようだ。
「うんにゃ、真さん、今日はいいや。酔い覚ましも兼ねて、家まで歩いて帰ることにするよ」
「マジっ!? ここから五区のアパルトまでだと、四、五十分はかかるよ」
「まあ、歩けない距離じゃないしさ。歩きじゃないと、見過ごしてしまう、そんな、パリの小さな発見ってものもあるし、久しぶりのパリの夜景を徒歩(かち)で楽しむよ。疲れたら、どこかで一休みでもするさ」
「まあ、そう言うのならば、無理強いはしないけれど。
あっ、そうだっ! 食事が楽し過ぎて、忘れてたわ」
そう言うと、真一は、鞄から掌大の物体を取り出した。
それはフランスの携帯電話であった。
「日本から、国際ローミングサービスができる携帯を持ってきているかもしれないけれど、二ヶ月近くフランスに滞在するんだし、レストランやホテルの予約、フランスで何かをするんだったら、フランスの携帯番号があった方が便利だよ」
「えっ、いいの?」
「別に機体を貸すだけだし。パリにいる間は自由に使ってちょ。ブツは、帰国前に返してくれれば、それでいいから。あっ、チャージ分が枯れたら、その後のカード・チャージは自分でしてね」
フランス現地で携帯電話を購入する場合、その契約方法は大きく二つに分かれる。
日本のように、ドコモやソフトバンク、あるいはauなどの携帯会社が決まった機種を販売しているのではなく、フランスでは、自分で好きな機種を購入してから、オランジュやブイグ・テレコム、あるいはSFRといった携帯会社を決めるという流れになっている。
そして、日本で一般的な方法になっている、毎月料金を支払ってゆく契約方式以外に、プリペイドカード方式というものがある。
長期滞在の場合、契約方式の方が割安になるのだが、観光や短期滞在の場合は、例えば、五ユーロで使用期限一週間、十五ユーロで一ヶ月といったように、使いたい分だけ、カードを購入し、チャージして使うプリペイドカード方式の方が利便性は高い。ちなみに、基本、一分・〇.四ユーロなので、五ユーロで十二分半、十五ユーロで三十七分半、電話ができる。
最近では、スマフォの利用拡大に伴って、外国人旅行者向けのSIMカードも販売されているのだが、二〇一五年現在である今、二週間で約四〇ユーロと少しお高い。それほど携帯を使って電話をするわけでもないし、短期滞在用の基本装備として、十桁のフランスの電話番号を手に入れるだけならば、SIMカードではなく、普通の携帯電話をプリペイド式で使えば、それで事足りるように哲人には思えたのであった。
「実は、明日、プラス・ディタリー(イタリア広場)で、プリペイド式の携帯を買おうと思っていたので、これは助かるわ。遠慮せずに使わせてもらうよ」
「それじゃ、人さん、また、何かあったら、その携帯の番号に電話をするから。ア・ビヤントー(近いうちにね)」
「色々ありがとう、真さん。オ・ルボワール(再会を)」
携帯電話を鞄にしまい込み、真一に別れを告げた後、哲人は、モントルグイユ通りを下って行ったのであった。
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