第7話 アレクサンドリア攻防戦
プトレマイオス十三世がアレクサンドリア王宮に忍び込ませていた間諜の報告によると、親衛隊を引き連れて王宮に入ったカエサルは、宮殿にて、あたかもファラオの如く振舞っているらしい。
さらに、クレオパトラがカエサルを篭絡し、カエサルはクレオパトラ側に与してしまった、との事であった。
この報を受けた、遠征中のプトレマイオス十三世は、被っていたネメス(頭巾)を、プスケント(王冠)ごと剥ぎ取ると、それを地面に思い切り叩き付けた。
その衝突の激しさのあまり、王冠の額部分に取り付けられていたコブラは床の上でひしゃげてしまった。
プトレマイオス十三世が着用していた王冠、〈プスケント〉とは、ファラオのみに許された紅白の冠である。
紅の冠、〈デシュレト〉は、コブラの女神ウアジェトを表わし、かつて、下エジプトの王が着用していた。
白の冠、〈ヘジェト〉は、ハゲタカの女神ネクベトを表わし、かつて、上エジプトの王が被っていた。
そして、紅白の冠、〈プスケント〉は、これら〈デシュレト〉と〈ヘジェト〉、紅白の二つの王冠を組み合わせて作られたもので、すなわち〈プスケント〉とは、上下エジプトの統一の象徴であり、それゆえに、〈ファラオの二重冠〉とも呼ばれていたのである。
「おのれぇぇぇ〜〜〜、カエサルぅぅぅ~~~。ゆ、許さん、許さんぞっ! ゆ、許せるものかっ! よ、よくも、余のクレオパトラをぉぉぉ~~~~!」
反ローマ派のプトレマイオス十三世は、エジプトに逃亡してきた、カエサルの政敵であるポンペイウスを謀殺し、その首をカエサルに届けていた。そして、カエサルにはエジプトから速やかに出て行ってもらいたい、と考えていた。だが、当のカエサルは、エジプトから立ち去るどころか、プトレマイオス十三世の政敵であるクレオパトラに与してしまい、エジプトに居座ってしまったのである。
自分の政略の失敗に、王が口惜しさを覚えたのは紛れもない事実であろう。だがしかし、それよりなにより、王妃であったクレオパトラが、カエサルの愛人になったという報告を受けて、無自覚なまま、怒髪天を衝き、頭巾や王冠を被っていられない程、プトレマイオス王は激怒してしまったのである。
「正当な権利など持ち合わせていないくせに、アレクサンドリアに居座っているローマ軍を取り除く以外に、もはや道はあるまい」
プトレマイオス十三世は、配下の者たちに命じ、カエサルとの戦闘の準備を急がせたのであった。
プトレマイオス十三世は、ナイル河河口の東端の町、ペルシウムから、歩兵二万、騎兵二千、計二万二千の将兵を、陸路にて、アレクサンドリアに向けて進軍させた。
さらに海路にて、七十二隻からなるエジプト海軍をアレクサンドリアに向かわせた。
これに対して、アレクサンドリア港内に停泊しているカエサル率いるローマ軍は、歩兵三千二百、騎兵八百の計四千、船はわずか十隻しかなかった。
かくの如く、エジプト軍とローマ軍との戦力差は歴然であり、絶望的なまでに圧倒的不利な状況にあるカエサル軍の敗北は、〈火〉をを見るよりも明らかであるように思われた。
アレクサンドリアの海港は、ファロス島とロキアス岬によって形作られていたのだが、このファロス島の大灯台をカエサルの軍は拠点にしていた。そのため、エジプト軍は、先ず、ファロス大灯台を制圧せんとしたのである。
潮流が港の方に向かってゆく満潮に乗った足の速い船を利用したエジプト海軍は、ファロス大灯台を急襲した。
だが、ファロス大灯台はもぬけの殻で、灯台内にローマ軍は一兵もおらず、それゆえに、エジプト軍は一滴の血を流すこともなく、容易にファロス大灯台の占拠に成功した。
それから、エジプト海軍は、ファロス島東端から、都市アレクサンドリアの沿岸までの間を、七十二隻から成る船隊を横に並べ置き、その横列隊形によって、アレクサンドリア港の出入り口を完全に封鎖してしまった。
かくの如く、アレクサンドリアからの脱出口を船によって封鎖した今、あとは、二万二千にも及ぶ、陸軍の到着を待てば、十倍近くもの圧倒的な戦力差によって、カエサル軍を容易に包囲殲滅できるという寸法である。
エジプト海軍の急襲前——
ファロス大灯台に置いていた見張りから、エジプト艦隊接近の報告を受けたカエサルは、ファロス大灯台に詰めていた兵全員を速やかに引き上げさせ、拠点であるファロス大灯台を放棄すると、全軍をアレクサンドリアの都市内に集結させたのだった。
このファロス大灯台の放棄は〈戦術的撤退〉である。
カエサルは、都市沿岸部に着けていた十隻の船から、その乗員全てを下船させると、船から積み荷も全て降ろし、さらには、船を飾っていた装飾全てさえも取り外して、船を可能な限り軽くしたのであった。
そして、カエサルは、アレクサンドリア港内の潮の流れが変わるのをじっと待った。
やがて——
干潮になった。
満潮時に、港の中に入り込み溜まっていた水量は、干潮になった時、アレクサンドリア港の外へと流れ出てゆく。
つまり、潮の干満によって、水面に勾配が生じて、それが水の流れとなって、干潮時には港の外に潮が流れ出るのだ。ちなみに、水量に応じて潮流の速さも変化し、その水量が多ければ多いほど、流れは速くなってゆく。
カエサル軍は、干潮時、それも、最も水量が多くなる時宜に合わせて、十隻の船全てを潮の流れに乗せた。
「要は、馬鹿みたいに横に並んでいる船のどれかに当たればよいのだよ」
カエサルの命を受けた現場指揮官は口角を上げながら、そう言った。
そして、兵の中から選抜した弓兵に、射程距離ギリギリの所で、事前に油をたっぷりと染み込ませていた自軍の船に向かって火矢を放たたせたのだ。
着火したカエサル軍の船は、潮流に乗って港の外に向かって走ってゆき、猛速でエジプト軍の船団に突進していった。
燃え盛るローマの船が次々にエジプトの船に衝突した。
横列隊形を組んでいたエジプト船団は、アレクサンドリア港からのローマの逃亡を許さない、という目的で、船と船との間隔は可能な限り狭めて整列させられていた。
まさに、それゆえにこそ、ローマの火船がぶつかった船から、隣の船へと火は次々に燃え移ってゆき、エジプト艦隊は、瞬く間に大損害を被ってしまったのである。
「で、伝令です。背後から、ローマの大船団が、せ、迫って来ておりますっ!」
情報を持って来たエジプトの伝令兵は、唾を飛ばしながら上官に、こう報告した。
「なっ、なにいいいぃぃぃ~~~」
アレクサンドリアに先行して到着していたカエサルは、都市沿岸の島々にローマ軍の船団を密かに逗留させていた。そして、時宜を見計らって、その味方への援軍要請を、光信号にてファロス大灯台から送っていたのだった。
かくして、這う這うの体で、残存勢力をまとめ上げたエジプト海軍は、ナイル川西端のアレクサンドリアから、東端のペルシウムへの撤退を余儀なくされてしまったのである。
紀元前四十七年・二月――
カエサル率いるローマ軍と、プトレマイオス十三世率いるエジプト軍は、ナイル河下流のデルタ地帯で激突した。この〈ナイル川〉の戦いにおいて、プトレマイオス十三世は溺死してしまったのだが、それはまた別の話である。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます