第6話 アレクサンドリア大図書館とその〈娘〉セラペイオン

 ファロス島を占拠しているカエサルから、王立研究所の〈ムーセイオン〉と、その付属図書館である〈アレクサンドリア大図書館〉を視察のために訪れる、という一報が、まるで気まぐれな一迅の風のように、突然、アレクサンドリア図書館館長の許に届けられた。


 アレクサンドリアの王宮からは、広大なアレクサンドリア港を見下ろすことができた。

 その王宮の敷地内に、王立研究所の〈ムーセイオン〉は建てられており、その付属機関でもある〈アレクサンドリア大図書館〉もそのすぐ傍に在った。

 アレクサンドリアには、世界中から、毎日のように数多の本が送り届けられてきており、大図書館建設から半世紀も経った頃には、その蔵書数は、大図書館の収蔵能力を、遥かに越えてしまっていた。そこで、大図書館に入りきらなくなった膨大な書物を収めるために、新たな図書館が造られることになった。

 この図書館の別館は、王宮からかなり離れたエジプト人地区、〈ラコティス〉の南部に位置している〈セラペイオン〉の内に建設され、この別館は〈娘〉と呼ばれるようになった。

 プトレマイオス朝の始祖、プトレマイオス一世は、統治者であるマケドニア人によるエジプトの支配を円滑にするために、マケドニア人とエジプト人の両方から崇拝されるような神を据えようとした。そうして習合されたのが、エジプトの神オシリスと同一視されたセラピスで、そのセラピスを祀った神殿が〈セラペイオン〉である。

 世界各地からアレクサンドリアに持ち込まれた本は、先ず、大図書館に運び込まれる。そこで分類整理が行われ、そうして書物の選別が為された後、重要度が然して高くない本や、複写本が、〈セラペイオン〉の別館に運び込まれるという手順になっていた。


 このように、図書館館長の案内と説明を受けながら、カエサルは、何人もの従者を引き連れて、館内を隅から隅まで経巡り歩いた。

 書架のある一角では、棚の上に巻物が堆く積み上げられ、別の棚の上には、粘土板が何枚も並べ置かれていた。

「膨大な量だな。ここには、どれほどの数の書物があるのだ?」

「閣下、合計で七十万点になります」

「な、な・な・じゅうまんだとっ!」

「はい、それも、〈七十万〉というのは、現時点における数字です。わがアレクサンドリア図書館には、日々、世界各地から次々に新たな本が届いてきて、その数は増える一方なのです。ただ、この王宮図書館に所蔵されているのは、整理が完全に終わった書物だけで、重要度がさして高くない本や複写本は、エジプト人地区にある〈娘〉、つまり、別館のセラペイオンの方に置かれています」

 誇らし気に、館長は、図書館の収蔵数を強調したのであった。


 また、ある部屋の中では、机の上に置かれた粘土板や、机上に広げられたパピルスや羊皮紙の巻子本を見ながら、何人もの館員たちが一心不乱に手を動かしていた。

「館長、あれは、いったい何をしておるのだ?」

「筆写であります。閣下」

「『ひっしゃ』とは何ぞ?」

「書物を書き写すことです」

「何故に、そんな面倒なことをする必要があるのだ?」

「閣下、粘土板は誤って落とした場合には砕け散ってしまうこともあり、また、パピルスは耐久性が低く、長期間保存することができないのです。それゆえに、貴重な本の内容を失わないためには、定期的に本を複写することが必要なのです」

「な、七十万巻をかっ!」

「はい、閣下」

「ほう、それ程の数の、その『ひっしゃ』とかいう事をするために、ここでは、一体どれくらいの人間が働いておるのだ?」

「大図書館に詰めている正規の研究者、一等筆写師、筆写内容の確認をする二等以下の筆写師で、その数は百名ほどになります」

「ほう。一人あたり七千巻を担当するわけか……」

 カエサルは、素早く計算してみせたのであった。


「ところで、あの机に向かっていない者たちは、いったい何者だ?」

「閣下、彼らは、図書館の〈司書〉ではなく、見習いや、蔵書整理などの担当者、あるいは、雑務に従事している奴隷であります」

「なるほど、な。

 館長よ。実は、ワレの後に控えている、ワレの部下の中にも、学問に多大な関心を抱いている者がおるのだが、そういった者が、この図書館を利用することは可能か?」

「そ、そうですね、本来は正式な入館資格を得るためには、有力者の推薦や、あるいは、試験や面接が必要なのですが……。

 よいでしょう。館内には貴重な本もあって、閲覧には利用制限もあるのですが、カエサル閣下の推薦ということで、特別に、研究許可証を出しましょう」

「良きに計らえ」 

「……。この図書館は広く、蔵書数も多いので、部下の方には、指導・相談員として、特級館員である〈ムーサ〉をお付けいたしましょう」


 研究所、〈ムーセイオン〉とは、その名が示しているように、元々は、ギリシア神話における、学問と芸術の女神〈ムーサイ〉を祀った建物であった。それゆえに、研究所も図書館も、学問を司る九人の女神たちに捧げられており、アレクサンドリア図書館の最上位の常任司書たちは、〈ムーサイ(単数形はムーサ)〉と呼ばれ、その人数は、女神ムーサイと同じ九人に定められていた。

 

 カエサルが推薦した、ローマ人の特別研究員は非常に優秀かつ勤勉な男で、すぐに、ムーサの指導は不要になり、代わりに、雑務用の奴隷が一人当てがわれ、アレクサンドリア図書館内を自由に歩き回ることが許されるようになった。


 後日――

 ローマ人のムーセイオンの特別研究員は、ファロス島から王宮へと移されていた、カエサルの私室に呼び出された。

 入室すると、そこには、主であるカエサルと、彼の傍にぴたり寄り添うクレオパトラがいた。


「で、首尾はどうだ?」

「はっ、閣下。その……。〈魔術書〉と思しき書物は未だ見つけるには至っておりません」

 カエサルは、掌をひらひらさせながら言った。

「よいよい。なにせ、七十万点以上もの蔵書量だ。そう簡単に見付けられる、とは思ってはおらぬ。そもそも、魔術書が、いかなる代物かも分からぬしな。

 あの広大な図書館から、手掛かりもなしに、目当ての本を探し出すことは、砂漠において砂金を発見するようなものだ。

 おまえは、このまま図書館に潜入し続け、何か事が起こった場合に、常とは違う行動を取る者に注意を払うのだ。件の本の在処は、その者が案内してくれよう」

「閣下、何か、考えがおありで?」

「ああ、しばらくしたら、時宜を見て事を起こす。おまえは、いつ変事が起こっても、即座に対処できるように、準備だけは整えておくように。

 よいな」

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