第3話 師父アリストテレスのミエザの学園とリュケイオン
「そうですね、まずは、メガス・アレクサンドロス(アレクサンドロス大王)(前三五六~三二三年・在位:前三三六~三二三年)さまと、その師アリストテレス(前三八四~三二二年)のことから始めましょうか」
そう言うと、クレオパトラは、豊かな胸の先端にかかっていた長い黒髪を、中指に絡めながら、次のように語り始めたのであった。
*
紀元前三四七年――
地中海世界にその名を轟かせていた〈知〉の巨人、プラトン(前四二七~三四七年)が、八十歳で亡くなった。プラトンは、ギリシアのアテナイ郊外北西部に、学園アカデメイアを創設し、ここには、アテナイのみならず、外国からも数多の学徒が、プラトンを慕って留学してきており、アリストテレスもその一人であった。
アリストテレスは、当時、マケドニア王国の支配下にあったカルキディケ半島のスタゲイロスで誕生したのだが、両親が共に亡くなってしまい、その後、小アジアのアタルネウスに住む姉夫婦に引き取られ、アタルネウスにて基礎的な教育を受けた。やがて、成年である十八歳に達し、姉夫婦の後見が不要になった時、アリストテレスはプラトンを慕って、アテナイを訪れた。それから二十年の間、アリストテレスはアカデメイアで研究活動をしてきたのである。
プラトンの教育方法の主軸は〈ディアレクティケー(問答法)〉であった。
これは、プラトンが、師であるソクラテスの教育方法を継承したもので、その教育方法とは、師と弟子との間で交わされる〈対話〉を通して、無知や問題点を弟子に気付かせ、対話相手を一段階上の高次の認識へと導くというものである。そして同時に、弟子との対話によって、師もまた新たな〈気付き〉をする場合もあり得るのであった。
それゆえに、師プラトンの死によって、最良の対話相手を失ってしまったアリストテレスは、二十年間、研究拠点にしてきたアカデメイアを去る決意をしたのである。
アテナイを後にしたアリストテレスは、アカデメイア時代の学友で、小アジアのアッソスの僭主になっていたヘルミアスの許に身を寄せ、ここで、ヘルミアスの姪であったピュティアスと結婚した。
だが、アリストテレスとピュティアスの幸福時代は長くは続かなかった。
〈万学の雄〉としてオリエント世界に名を轟かせていたアリストテレスの身柄を、ペルシア帝国が手に入れようとし、アッソスを襲撃したのだ。
アリストテレスは、ペルシアの追跡から逃れ、アッソスから、その対岸のレスボス島のミュティレネへと移り住んだ。しかし、その潜伏先も帝国に露見してしまった。
その絶体絶命のアリストテレスを救ったのが、マケドニア王ピリポス二世の軍であった。
実は、マケドニア支配下のスタゲイロスに住んでいた当時、アリストテレスとピリポス二世は遊び仲間であり、王は、幼馴染であるアリストテレスをペルシア帝国の手から救い、自らの庇護下に置くと同時に、当時十三歳であった王子アレクサンドロスの教育係とすべく、アリストテレスをマケドニアに招かんとしたのである。
このアリストテレスのマケドニア招聘は紀元前三四二年のことであった。
やがて――
アリストテレスは、王子のみならず、将来のアレクサンドロスの王国の中核を担う文官・武官の育成に力を注ぐために、マケドニアの首都ペラ近郊の〈ミエザ〉に学園を創設した。そして、ここには、王子アレクサンドロスと年齢の近い、マケドニア王国、国内外の有力者の子弟が集められた。
ミエザの学園の周囲は自然豊かな地であった。
ここで、アリストテレスは、学園内で講義をするだけではなく、弟子たちと野山を歩き回って身体を鍛えながら、同時に、弟子たちと様々な話題について議論を交わし合った。
こうした〈対話〉こそが、ソクラテス、プラトン、そしてアリストテレスへと継承されてきた教育方法であった。
そして、アリストテレスは、ミエザの学園生との間で交わし合った数多の対話を通して、真の弟子の〈選別〉を密かに行っていたのである。
ある夜――
ミエザの学園生の一人であったプトレマイオスは、師アリストテレスから呼び出しを受けた。
王子アレクサンドロスよりも十歳年長のプトレマイオスは、マケドニア王国の貴族ラゴスの息子であり、プトレマイオスは、幼少時より王の側近となるべく教育され、若くして、王子の〈ヘタイロイ(側近騎兵隊将校)〉の一人に抜擢された程の人物であった。
プトレマイオスが、アリストテレスの研究室に入ると、部屋の中には既に、王子アレクサンドロスと、王子の影武者であるヘファイスティオン、そして、王子よりも五歳年上のエウメネスなどが、師アリストテレスの周りに集まっていた。
「これで、儂が特別に召集をかけた弟子たちは全て揃ったな。皆よ、これから儂が語ることは、ゆめゆめ口外しないように」
そう言ってアリストテレスは、選び抜いた弟子たちに、アリストテレスの学問の目的と、その秘密について語り出したのであった。
「…………。それで、だ。我が〈真〉の弟子たちよ。…………その研究のためにも、世界中から、ありとあらゆる書を蒐集してきて欲しいのだ。頼んだぞ」
アリストテレスが、ミエザの学園で教師を務めていたのは、紀元前三四〇年までの、わずか二年間という短い期間であった。だが、アリストテレスによる教育によって育てた弟子たちが、後に、アレクサンドロスが打ち立てた帝国の基盤になったのは紛れもない事実であろう。
紀元前三三六年――
アリストテレスがマケドニア王国にやって来てから六年の月日が流れ去っていた。
この頃、王ピリポス二世が暗殺されたことによって、 アリストテレスの弟子でもある、王太子アレクサンドロスがマケドニア国王として即位することになった。
そして、この翌年の紀元前三三五年、王子の教育係としての役目を完全に終えたアリストテレスは、この新王の庇護の下、十二年ぶりにアテナイに戻ることになったのである。
しかし、アリストテレスは、母校であったアカデミア学園には戻らなかった。アリストテレスがアカデメイアを去ってから、この学園の教育・研究方針は数学偏重になっていたため、万学を対象とするアリストテレスにはそぐわなくなっていたのだ。
そこで、アリストテレスは、自分独自の教育方針の下、アテナイの東部郊外、アポロン・リュケイオスの神域に、学園〈リュケイオン〉を創設したのである。
リュケイオン学園でのアリストテレスの教育方針は、学園のペリパトス(歩廊)を、弟子たちと一緒にそぞろ歩きしながら、さまざまな学術的な議論を交わすというもので、ソクラテス以来の伝統である〈対話〉を基本としていた。この際、マケドニアのミエザの学園で、野山を散策しながら、学園生と交わし合った対話の経験も活きた。
こうした教育方針ゆえに、アリストテレス学派は、〈ペリパトス(逍遥)学派〉と呼ばれるようになったのである。
アレクサンドロスの即位から二年が経った紀元前三三四年――
王は、十年にも及ぶことになる大遠征を開始した。
やがて、アケメネス朝ペルシア帝国との戦いの途上で、アレクサンドロス王はエジプトのファラオとなり、その後、ペルシア帝国を滅亡させ、最終的に、アレクサンドロス大王の帝国の領域は、西はアドリア海、東はインダス川にまで及ぶ広大なものとなったのである。
この東方遠征の十年の間、アレクサンドロスを始めとする、アリストテレスの〈真〉の弟子たちは、その征服地において、可能な限り全ての書物を回収し、それらを、リュケイオンに居る師アリストテレスの許に送り届け続けたのである。
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