第2話 クレオパトラとカエサル
プトレマイオス朝エジプトは麻のように乱れていた。
紀元前四十八年末のアレクサンドリアの大火から遡ること三年、紀元前五十一年のエジプトの状況は以下の如くであった。
死亡したファラオ、プトレマイオス十二世(在位:前八〇~五八年・前五五~五一年)の遺言に従って、十八歳の長子たるクレオパトラが弟と結婚し、クレオパトラ七世(在位:前五一~三〇年)としてエジプトを共同統治することになった。
王とその姉妹が夫婦になって、国を共同統治するのはエジプトの伝統であった。
エジプト神話において、オシリスが実妹のイシスを妻としたため、兄妹・姉弟婚は神聖化され、この婚姻形態はエジプト王家の慣習となっていたためである。
実際的な意味では、エジプト王は、遠征で国を留守にすることが多かったため、王が不在の間、王の姉妹が王妃となってエジプトを共同統治していたのだが、それは、王家の〈純血〉を維持する事こそが、エジプトにとっては最優先事項だったからである。
つまり、クレオパトラ七世とプトレマイオス十三世が、姉弟婚をして、プトレマイオス朝を共同統治していたのは、こういった神話的・歴史的伝統が背景になっていたのである。
しかし同時に、権力を巡る肉親間の骨肉の争いもまた、プトレマイオス朝の伝統であり、例えば、クレオパトラ七世とプトレマイオス十三世の父であるプトレマイオス十二世は、娘のベレニケ四世(在位:前五八~五五年)と権力争いをし、この実子を処刑してさえいた。
そうしたエジプトの権力者の中には、ローマとの同盟こそが、自身の権力基盤を固めるための唯一の道だと考えていた者も多くいて、先王プトレマイオス十二世や、現王妃のクレオパトラ七世もその一人であり、〈絶世の美女〉としても知られていたクレオパトラは、紀元前四十九年に、ローマ元老院派のポンペイウスの息子である小ポンペイウスが、アレクサンドリアを訪れた際に、小ポンペイウスの愛人となり、ローマとの繋がりを太くしようと努めたのだった。
だがしかし、プトレマイオス十三世の側近が、このローマの重鎮と王妃の不倫関係を王に密告した。これによって、クレオパトラ七世とプトレマイオス十三世の関係は、エジプトの伝統通りに悪化し、さらに、この醜聞を、ローマからの独立を目指している一派が利用し、かくして、エジプト王家の夫婦の諍いは、エジプトの内戦にまで発展してしまったのである。
そして、紀元前四十八年・春――
アレクサンドリアの市民は、反ローマ派の国王プトレマイオス十三世に味方し、親ローマ派のクレオパトラ七世に対して叛乱を起こした。戦いに敗れたクレオパトラ七世の一派は、エジプト東部の砂漠地帯に追いやられ、絶対的不利な状況にまで追い込まれてしまったのである。
折しも、当時のローマもまた、ガイウス・ユリウス・カエサルと、グナエウス・ポンペイウス・マグヌスが内戦状態にあり、カエサルに敗北したポンペイウスはエジプトに逃亡した。
紀元前四十八年の秋に、カエサルは、政敵であるポンペイウスを追ってエジプトを訪れたのだが、この時、反ローマ派のプトレマイオス十三世の一派は、ポンペイウスを殺害し、その首をカエサルに送ることによって、アレクサンドリアに上陸したカエサルが、速やかにローマに帰る事を望んだのであった。
地中海世界が、かくの如き状況下にあった、ある日のことである。
夜陰に紛れて、アレクサンドリアに近付いた一隻の小舟が、ファロス島の東端に到着した。
その当時、ファロス島はローマ軍によって占拠され、カエサルは、この島の巨大な灯台に、軍の本拠地を置いていた。
小舟から積み荷が降ろされ、その荷は、ファロス灯台で政務中であったカエサルの許に送り届けられたのである。それは、アレクサンドリアから追放されていたクレオパトラ一派からのカエサルへの献上品で、王妃からの贈物は絨毯に包まれていた。エジプトでは、貴重品を贈る場合には、宝物を絨毯に包む事が慣習であった。
カエサルの側近が、巻かれていた絨毯を広げると、ローマでは〈スマラグティ〉と呼ばれている翠玉が月光を反射し、半透明の結晶が緑色の輝きを放ち、それがカエサルの目を眩ませた。
カエサルが視力を取り戻した時、そこには、黄金の薄布だけを身に着けたエジプト人の女性が立っていた。
「……い、いったい、そなたは? ……………………………………………………」
目前の半裸の女性の美しさのせいで、カエサルはうまく言葉を継ぐことができなくなり、自分がつばを飲み込む、ひときわ大きな音だけが、その耳に届いてきたのであった。
「お初にお目にかかります。ワラワはクレオパトラと申します。閣下に、贈物を献上するために、ここにまかりこしました」
「お、贈物とは?」
クレオパトラは、翠玉の装飾具の一つ一つを次々に取り外し、それらを床に投げ捨てながら、カエサルに近付いていった。最後に、黄金の薄布までもその身から剥ぎ取ると、一糸纏わぬ裸体をカエサルに曝け出して、こう言ったのである。
「贈物はワラワ自身でございます、カエサルさま」
カエサルは、即座に、側近たちを下がらせ、クレオパトラと二人だけになった。
クレオパトラに魅了され、完全にその美貌の虜になったカエサルは、クレオパトラの閨房において、その肉体に溺れ、毎夜のように彼女を抱いた。
さらに、カエサルを虜にしたのは、その肉体だけではなかった。それは、楽器の如き魅力的な美声と、聞き手の興味を引き付けてやまない巧みな話術であり、かくして、夜毎の男女の交ぐわいの後に、カエサルは、様々な寝物語をクレオパトラから語り聞かされたのである。
そんなある夜のことであった。
その夜の情事が終わった後、いつものように、カエサルはクレオパトラに話を強請った。
「クレオパトラよ、今日は、いったいどんな話を語ってくれるのだ?」
「そうですね。今宵は、このアレクサンドリアという都市の成り立ちと、図書館創設にまつわる秘密などについてお話いたしましょうか」
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