ルート5 新月の誇り 月野椿②


 世界が終わると知って、まず沸き起こる感情は何だろう。

 多くの場合それは恐怖より喪失感ではないだろうか。そう月野椿は考える。

 たとえ隣人を愛していなくても、見知った景色に愛着くらいは覚えるもの。

 また、この世が己という主観の付属物であるならば、自分の次に大切なのは己を刺激する全てである筈だ。

 そして、自己が受容できる全体、生きるために必要なありとあらゆるものに既に罅が入っていると知ることはきっととても悲しいこと。


「椿ちゃん、世界って終わっちゃうみたいなんだ」

「そっか」


 だが、日田百合の世界は終わるのだという告白を聞いて、椿が感じたのは幸福でしかなかった。

 無論それを嘘と思っている訳ではなく、信だけでなく情報として認めざるを得ないと把握はしている。椿とて伊達に未来が見えるとまで言われるほどものごとの真贋の精査が上手な月野家の生まれではない。少女が本気で信じていることは、間違いないのだろうと、彼女も肌で感じていた。


 高値に留まっていた一族の姫たる少女だからこそ、世界の腐臭が解る。

 ツギハギだらけの世界はあんまりなまでに、悲鳴に溢れていた。それを知らないのは、何故か終末に遅れているこの国の平凡だけ。

 天上にて高らかにも喇叭は鳴っているというのに、地べたの民は気づきもしていないのだ。高貴に親しんだ人として、それを憂う心は、当然ある。


「誰より先に、椿ちゃんには、知ってほしかったんだ」


 けれども、そんなことよりも百合が誰より先に頼りにしたのが自分であるという事実が、椿にとっては甘すぎた。

 唇をひと撫でし、感触に今の確かを感じながら、椿は呟く。


「そう……なの」

「あのね。信じられないかもしれないけれど……みんな無くなっちゃうのはなんて悲しいこと……ごめんね。こんな話をしちゃって」

「いいのよ、百合ちゃん……むしろ私に相談してくれてありがとう」

「信じて、くれるの?」

「ええ。たとえ嘘でも信じるけれど、私の知っていることとを合わせてみると間違いないみたい。……百合ちゃんもこれまで一人で世界の滅亡だのを抱えて辛かったでしょ? 察してあげられなくてごめんね」

「椿ちゃん……」


 日田の家にお呼ばれされ、妹さんの突き刺さる視線を無視しながら百合の可愛らしい部屋へと腰を据えだせたと思えば、愛する少女の口から語られたのは終末のお話。

 薄桃色の唇から紡がれたのが愛言葉ではなくてとても残念だが、だからって最愛の相手から転がった言葉はどんなものだって金である。

 そして、贅に慣れて黄金を当然のものとしていた身分だからこそ、百合の金言ほど大切なものはないだろうと椿は思うのだ。


 喪失。終末にて、世界のほぼ全てに版図を広げたTUKINOの中心に居る椿が、それを感じないなんてあり得ない。

 地球の上に数多引かれた線が徐々に途切れて、消えている。東に西に北に南に、これまでろくに聞いたことのないような地域の人々こそが謎の消失に遭っているのは、報じられずとも自ずと理解できていた。

 だが、実際にその身を千切られた訳でもない少女には当事者意識が欠けていて、哀悼を行う前にこれまでずっと消えゆく人々からも利を掬わんとすらしていたのだ。具体的には、喪失者、フォーラーを点と捉えその散布の仕方にて中心点、安全地帯を見つける試みなども月野の家は既に行っている。そして、算出結果に安堵したことだって、記憶に新しくって、そんなだからこそ。

 少女は最早微笑むことすら難しく、表情を酷く複雑にして呟くのだった。


「私はね、百合ちゃん。私達さえ良ければ、世界の殆どは消えてしまってもいいかな、って思ってたの」

「それは、どうして?」

「だって、世界を手にするのは、ちっぽけな程簡単でしょう? そして月野の夢は世界制覇。敵の居ない世界で何をしたいのかは分からないけれど……我々の夢が叶いつつあるのではって、父は昨日笑ってた。こうしている間にも誰かの大切が消え去っているのかもしれないのに……おかしいでしょう? でも、私はライバルが勝手に消えていく今に満足していたの」

「そんな、考えもあるんだね……」


 世界制覇という家の妄執。そして、大きな図体に秘められ過ぎた守るべき身内達。

 それを強く想ってしまったからこそ、冷たいばかりの世界は大切ではなくなった。むしろ終末を最期の好機と勘違いすらして、栄華を求めて励みつづけていたところ。

 愛がなくたって、車輪は動く。それが間違っているとは知っていたのだけれども。


「ごめんね、百合ちゃん……」


 幾ら彼女が努めずとも大体が美しかろうと、心というものばかりは努めずには綺麗になれやしない。

 何とも格好悪い己を改めて見直して、少女は思う。嫌われたかもしれないな、と。

 博愛を前に、自己愛はどうしたって決まりが悪くなって、縮こまる。みんなは、という題目の前にわたしが、なんてちっぽけに過ぎていて。


「ううん。あたし、分かったよ!」

「……え?」


 しかし椿の懺悔は、想い人の心を曇らせるまでにはいかないようである。手を広げて、まるでこの世を抱いているようにしながら、その実少女は真っ直ぐ前ばかり見つめている。

 自然と浮かんだのだろう笑顔は、痩けかけた頬を過日のなだらかなものに戻し、そして熱は痛いほどの白に紅に届かぬ桃色をつけさせた。

 違って、だからいい。そんなだからこそ、愛を告白する価値がある。

 そんな嘘のようなことを信じていた女の子は、故に高嶺の少女の悔恨にこそ花を見て取った。

 少女の言葉を思い出しながら、今更ながらに百合は語る。


「あたしはね。世界の全てを守りたいって思ってた。だから、守るのは無理だってあたしは考えちゃっててね……」


 日田百合という少女の愛は大好きな人の告白を受けて燦々と、太陽のように輝く。それは、末期の閃光としてもあまりに綺麗で椿には尊くすら見えて、陰りなんて見当たりやしないもの。

 でも、ここでようやく天国に一番近い少女は、この世に堕ちてくれたのかもしれなかった。

 日田百合という少女はテキストの全てを愛していて、全てが活きるよう願っている。そんな風に世界を単一と見ていた彼女は、だが高嶺の花一つに寄り添い、こう告げたのだった。


「ちっぽけなあたしはたった一人だけだから。皆じゃなくって、こうして手を繋ぐことの出来る、大好きな人だけを守るよ」

「えっ?」


 白魚の指を包むのは、更に細い陶磁の指先。そっと、二人は結ばれる。

 何もかもを愛するのも、いいだろう。だが誰か一人を愛せるということだってどれほど価値のある素晴らしいことか。

 それが己だって悪くはない。でも。

 少女はあくまで少女で。それこそ、殺されかけるくらいに恋しく想われることで意識した相手がいた。

 冷たくなりゆく身体で、でも心の近くばかりがかっかと燃える。

 それを繋がった手のひらの温度でなく瞳の熱さで感じながら、ぼうっと大切と言われた椿は震えながら呟く。


「それって、えっと?」

「あたしが死んでも椿ちゃんだけは、失くさない。一番大好きだよ、椿ちゃん」

「っ!」


 弱い力で、震えを止めるように強く強く。それは束縛ではない強い乞い。そして少女が少女を離さない、その理由をついに百合は愛言葉で述べたのだった。

 一番に、好き。それは他のすべてを置き去る文句。それが嬉しくって、悲しくって、たまらないのはそれを聞いたのが椿だからか。


「あ、う……うぅ、う……」


 涙を流す理由なんてないのに、椿はそれを堪えることはできなかった。

 月野椿は分からない。この胸の痛みが何か、を。それが、初恋の成就によるものでないのは間違いなく、でも。それはつまり。

 これは失恋であり、失望であり、新たな希望の発見。ああ、この子にだけは夢を見続けていて欲しかったというのに。でも、私は。

 向けられるは、優しいばかりの自分だけを認める瞳。そして、少女は震える唇にて、返答をする。


「あ……ぐ。わたし、も……百合ちゃんが一番好き!」

「良かった……」


 拙く紡がれた本音を聞き、ほっと胸なでおろす百合。骨と皮にうっすら乗った脂肪に、その所作は邪魔されなかった。


「百合ちゃん!」

「わわっ」


 反して、富んでばかりの椿はもう手で繋がっているばかりでは満足できずにその豊満な身を思う存分少女にこすりつけるように抱きしめた。すると、まるで大型犬の突進のような衝撃を受けた百合は目を白黒。びっくりさせたかしらと思い、それでも留まらない椿は、当たり前のように頬ずりまでを始めるのだった。


「んぅん……百合ちゃん」

「むあ……椿ちゃん」


 香る肉体をごしごしというマーキングに近い触れ合いをそのまましばし。柔らかをごつんごつん。気持ち良すぎて、ぽかぽかを越えて何だか熱くなってきたと百合が思い始めたその時。

 頬に雫が一つ、ぽとり。見上げれば椿はまた泣いていて、どうしたのと百合が問う前に彼女は先に答えるのだった。


「……貴女に、皆を諦めさせちゃって、ごめんね?」

「そんなこと、ないよ」

「そんなこと、あるの!」

「わぷ」


 文句なんて言わせないぞと、ぐうの音も出ないように椿は百合をその全身で抱く。大きな胸元を中心とした柔らかな全体に包まれ、百合はまたまた窒息しそうだ。

 まさかの事態に、ついつい眼の前が暗くなる。


「むぐぐ……」


 非力故に身動きが取れず、まあ、大好きな人のいい匂いのこんな中死んじゃうなら幸せな方かなあとか百合が血迷い出したそんな頃合い。勿論、恋する人を殺めるつもりなんてない椿は力を緩め、そのためようやく少女はおっきな胸元から顔を出すことが出来た。


「ぷあ」

「百合ちゃん」


 やがて至近から向かい合うは、赤と紅。互いは互いをのみ認めあって、それを良しとしている。


 でも。


 ようやく百合をその手の中から離した椿は、今度は百合の瞳を覗き込むようにして、こう宣言をするのだった。


「だから、私は貴女の代わりに、皆を守るわ」


 心なくても私には力がある。でも出来るギリギリまで、だろうけれどね。そう続けて片目を瞑って舌を出した椿。

 そんな出来立て恋人の可愛らしいところを見た百合は。


「んー」

「きゃ、ゆ、百合ちゃん! キスはその、もっと雰囲気がある時とか……ん!」

「んちゅ、ちゅ」


 唇を尖らし、椿が黙るまでその口元をついばむのだった。


 ありがとう、それは言葉にならなくとも、きっと繋がる唇から熱となって伝わったことだろう。

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