ルート5 新月の誇り 月野椿①

 田所恒美は月野家のメイドさんである。それも、中々のベテランメイドだ。

 彼女はメイド長としてもうすぐで33歳になる今も、年下メイドさん達に紛れて家事に全体の進捗管理に簡単な事務仕事等にと励んでいた。

 ちょっと丈の短めスカートをひらひら、昨年ぎっくり腰を経験した身体にむち打ち、楚々と動き回る。

 その働きぶりは評判で、特に人事決定権を何故か持っているこの家の長女には無駄に信頼されてもいた。

 しかし、長く月野の主人達の背景に徹していた彼女も、流石にそろそろこう思うのである。


「いつまで、こうしていられるのかなぁ……」


 勿論、いつまでもが望ましい。それは主に面倒を見ている娘さん等の可愛らしいことや、彼女らが友と見せる尊い光景のたまらなさが理由である。

 また、顔で選ばれてんのかい、とでも言いたくなるくらいに目麗しい同僚メイドさん達と親しくするのもまあ、悪くないとは思う。

 そして、もう一つは。


「ここ、金払いが最高に良いからなぁ」


 そんな、現金理由もあった。



 月野家は、いわゆるお金持ちの家である。

 元を辿れば貴族様だか何だからしいが、そんなことはまあどうでもよく、結局のところ毎年のようにお金を増やし続けている経済のバケモノという点が何より他と比べて特異だった。

 月野の屋号が入った会社は果たしていくつあるか。そこの家に、完全なコネクションで女中として入った恒美は、最初はそれこそ圧倒されるばかりだった。

 家の広さ、物の高さ、そして人の傲慢さにも。


『なんであなた、私の前でそんなに頭が高いの? 分を弁えなさい!』

『いや、身長のせいで頭を下げてもこれで……』

『なら、這いつくばりなさい! このデカメイド!』

『はぁ……』


 中でも、その跡取り娘であるだろう長女の月野椿という幼女が酷かった。

 持ち前の長身のせいで目に付くせいか、その度に腹ばいに這いつくばりにさせられた、そんな思い出を恒美は未だに忘れられない。

 幼女に虐められて屈辱、ではあった。だがまあしかし、それも子供のすることと割切れはする。今までと比べれば、これくらいと。そして何より、何となく。


『お嬢様は、お友達はいらっしゃいますか?』

『え? そんなの沢山よ!』

『……なら、その内の誰かをお家にお呼びはしないのですか?』

『それは……ふん! 何となくよ! そんなことより、見なさい! サッシのところに埃がついてたわよ!』

『あ、ごめんなさいー。直ぐにお拭きします!』


 そんな少女のいやがらせ染みたわがままが、全て構って欲しいというサインであることを次第に理解できるようになったというのが大きかったのだろう。

 嫌がるという分かりやすい反応のみを愛の代わりとして、親の真似して生きていた悪い悪い乙女。そんなのを嫌ってしまう大人はちょっと小さい。

 さて、このくるくる巻き髪のどう見たところで悪役なお嬢様は、果たしてどうこらしめられるのだろう、でもそうなったらちょっと可哀想かなと思っていたところ、転機は訪れる。



『ん?』


 華飾に彩られた、まあどこもかしこも凝りに凝られた装飾だらけの家の外。

 暗い夜に染められた飛び石の真ん中、どこか赤い毛色の違った石の上で、うずくまるようにしていた跡取り少女は、月野椿。見るに何時もの彼女の覇気はどこにもない。

 さてこれはどうしたことやらと近づいて、恒美もびっくり。なんと、お嬢様の頬には泣き腫らした痕がくっきりと残っていた。

 ああ、これは何か取り巻きにされた結果だな、と理解した恒美は静かに隣に立ち、訊ねる。


『どうしました、お嬢様?』

『あんたも……私が悪いって言うの?』

『さあ、私は何も知りません。お嬢様が何をしたのか何をされたのかなんて、これっぽっちも』

『……全部聞いたら、あんたも私をきっと悪いって言うわ』


 上に立ち慣れた血のためか、はたまたこれまで踏みつけてきた数が違うのか、椿は落ち込みながらも、赤い瞳の奥に挫けぬ強いものを持っていた。

 でも、こんなの持っていたらそれは辛いよな、とも傅く乙女は思うのである。

 頭を下げ続けて、そうして生き長らえてきた雑巾は、だからこそここでその身を持って尊い少女を輝かせたいとも考えたのかもしれない。


 少女が悪いことをしたのは、きっと間違いないことだろう。

 能力が高いことを良いことに弱者に悪態をつくことばかりを矜持にしてきたこの家は、普通に悪役的だったし、この子の性格的にいじめくらいやっていてもおかしくはない。

 また、実のところ半分くらい最低な人生を歩んできた恒美の実感からしても、生は悪だし、贅は最低だと取れる。とすると、少女が悪いのは当たり前。


『なら、お聞きしません』

『えっ?』


 でも、泣くほどその文句を言われたことに感じた少女に、追い打ちをかけるほど恒美は非情ではなかった。

 泣いていても、誰も助けてくれないのは、辛かった。だからこそ、目の前で泣いて困っている子が居たら助けましょう。

 そんな性根は果たして負けん気からか、幽かな幸せの経験から来たものか。


 そも、悪にだって程度がある。

 これの親なんて酷いもんだし、恒美の親なんてそれこそ鬼畜だった。

 あの傲慢な両親から生まれて、この少女がむしろ可愛い程度の意地悪で、泣いて許して貰える程度の悪態をつく程度であるのが、不思議である。

 なら、それは性に抗う努力があったのではないか。自分のように。そう、勘違いしたっていいだろうとメイドは贔屓に思うのだった。


『私の知っているお嬢様は、意地悪な方ですが、決して悪い人ではございません。ですから……』

『あ』

『いいこいいこはしてあげられませんが、でも。私の頑張りましたで賞くらいは受け取って下さい』

『う……ぅうわぁーん!』


 泣き叫ぶ、少女に佳し、良し。あら、この子可愛いし柔らかいなと恒美は思うのだった。

 刺々しいのが常だったのが、なんと勿体ない子か。ああ、やっぱり世界はこんなにも怖くなくって、優しくする価値がある。

 そう考える恒美に、そして、今まで見下げてばかりいた温かい人に優しくされて、椿もようやく理解する。


『ありがとう……』

『ふふ、どういたしまして』


 この世の触れ方は、突くような力ではなく、柔らかく撫でるようにすることこそが、正しいのだと。

 私はあの子に、謝らなければならない。そして、この家の誤りを正さなければ。


『ごめんなさい、みんな』


 誤って、はじまった一歩。しかしそれはどうしたって力強くて邪道とは程遠く。

 悪役令嬢たらんとさせるレールを踏み切って、正道こそを椿は志すのだった。



「ふぁ、そんなこともあったねぇ」


 仕事合間に欠伸を一つ。定刻にメイド達と洗濯物を運ぶ、そんないつものルーチンの合間に思ったのは、今のお嬢様との馴れ初め。

 あの泣き腫らした夜に優しくしたところ、なんだかとんでもなく元気になった椿お嬢様はその後、お家の中で大暴走。

 妹と喧嘩し、母を泣かし、父を叩いて、祖父に啖呵を切って、そうして一族は無理でも家族の体質が変わるまで、椿という少女は一人懸命に独りになろうとしたがる家族達に抗ったのだった。

 色々と彼女は行ったが、ちなみに一番に彼らの心を変えていったのは、それこそボディタッチだったような気もする。

 相手の手を握り、挨拶ではないハグをして。それだけで、険だらけだった家族には笑顔が生まれて、やがて自然と踏みつけてきた者達に謝る心まで生まれたのだった。


「お嬢様のお陰で、私の財布はすごいことになったけどさぁ……ただお嬢様のせいで、私はずっとメイドのままなんだよね……」


 謝礼はとりあえず下げた頭とお金で。

 そんな方針にて、金持ちが彼らの基準で下に贈った給料は凄まじいことになった。

 一時、椿が間に入って調整しなければならないくらいだったが、それを終えた今でも基準より随分と口座には給金が入っている。

 迷惑料、ってまあ捻くれた大人子供の世話なんて、世に蔓延る地獄と比べたら大したもんじゃなかったけどなあ、と思いながらもそっと懐に過分なお金はしまった。

 税金がウザいとは、その年久しぶりに心から思った。


 だがさて、しかし身分はまあそこから八つ程年月重ねてメイドに長が付いて、給金も更に上がりはしたが、それだけ。

 いやいや、三十路を超えて流石にそろそろ女中ごっこは卒業したい年齢になってきて、他になにかないかと問ったのに、結果人事を握る椿の判断として、メイド据え置きである。

 これはまあ、自分の近くに置きたがるくらいに彼女に懐かれているというかむしろ依存されてもいるのだろうから嬉しいが、だがしかし。


「婚期がやべぇ……」


 そう、メイドの仕事に、出会いは驚くほどない。お嬢様方は女の子同士いちゃいちゃしていて目の保養になるが、しかし自分は普通に男の子といちゃいちゃしたかった。

 いやでも、長身メイドな上司っていうのは、実はそこそこ同じメイド女子にはモテたりもするのだ。曰く、クールと萌えのギャップが良いとかなんとか。

 こんな、ちゃらんぽらんを捕まえて何を言っているのだと、恒美は思うが。その子にやんわりと諦めさせるのは、なかなか彼女も苦労した。

 百合の尊さは自分に離れたところに咲いているからこそ良いのだというのが、恒美の持論である。


 まあ、勿論間近に男性がゼロという訳はない。月野家の内にも男子は居るし、取り仕切る執事は男性だった。これはチャンスと猛アタックしたこともある。

 おかげで執事の長野さんと良い関係になりそうだった時もあった。だが、だが告白したら普通に振られてそのままなんだかなあな今がある。


「お嬢様に、また相談してみようかな……」


 正直に、今は幸せだけれど、もっと幸せになりたいというのが人間である。

 というよりも、自分だけでこの幸せを独占するより、分かち合いたいと願うのが、この女性の優しさでもあった。後、性欲を持て余してしまっている、という悲しい現実もあって。


「あ、お嬢様、こんにちは」

「あら、田所メイド長じゃない。こんにちは」


 そこに渡りに船と、この家の柱になってしまっている椿お嬢様がやってきたのに、恒美は頬を綻ばせる。

 普通にそれは愛らしくて、いつもの無表情と相まって、周囲の田所ファンのメイド達に黄色い悲鳴のような声をあげさせるに十分な威力を持っていた。

 やっぱりメイド長かけるお嬢様よね、いや、お嬢様かけるじゃない、とか話し合いながら仕事の手は止めない優れて抜けているメイドさんたちをよそ目に、朗らかに恒美は椿に声をかける。


「いや、珍しいですね、こんなところに。どうしました、今日は?」

「あー……ちょうど良さそうね。ちょっとBも混じってるけど、ここにA組は全員いそうね」

「えっと……はい。メイド部隊Aは、確かに6人全員揃っていますが……それが?」


 椿の言に首をかしげる恒美。A組ことメイド部隊A、つまりは自分を含めた上位メイド達の存在確認をしてから話すことなんて、ただ事ではない。

 いや、慶事であればそれに越したことはないのだが。後ろの副メイド長なんて、これは給料アップかとアホなことをほざいてもいたりするくらいに、場の空気は軽い。

 それは、TUKINOグループのこれまでにない急成長の報道と、そもそも日本全体の好景気を知っているからこそに他ならなかった。


 まるでかのように、異常に転がってくる幸せ。その真実を知っている者は、今のところ少ない。


 そして、当然偶々好景気で上の人達が頑張っているのだろうなという程度に思っている一般人の恒美は、しかし椿の硬い表情の奥になにか恐ろしいものを見て取る。

 あ、これは。そう思って一歩前に出たところ、遅かった。


「メイドの貴女達には今日より全員に暇を与えます! この決定による補償はしますし、また当家より提示する新しい契約を申請した者にはこれまで通りの給金を与え続けますが、別段この屋敷にて働く必要はなくなります!」

「つまり?」

「こんな籠に囚えてしまって、ごめんなさいね。私達は、これより貴女方を自由にします」


 呆然とした問いに、とても苦しそうに月野椿当主代理は答える。

 ああ、そういうことか。恒美は理解する。

 仕事はしないで金は入ってくるなんて、なんとも望ましいことである。だが、お金を払ってポイなんて、正道を目指す椿らしくない。


 なら、これはもう彼女らしくしていられなくなったような事態が起きているというその証左で。

 ならば、と突然の不労所得に湧く周囲を無視して、更に一歩。そうして震えていた椿の頬に触れるのだった。


「分かりました。なら、私も自由にします」

「恒美? 貴女も、どこへ行ったっていいのよ? それこそ、貴女ほどの器量よしだったら男なんて取っ替え引っ替え……」

「はぁ……そんなのもう、どうでもいいんですよ」


 そして、もうどうでも良くなったことを、椿は言い出すから、恒美は残念そうに笑わざるを得ない。

 そう、幸せなら分け与えるのが一番。でも、それを与えてくれた人に大変が迫っているというのなら。


「私は、貴女の下にいるのが一番幸せなのです。お嬢様。私にも役割をお与え下さい」

「……そう」


 この、ボロ雑巾じみた苦労に汚れた身で良いのであれば、使ってもらいたい。そう思えるのが、これまでの人生で一番いいことだったと恒美は信じて。


「なら、貴女も覚悟して付いてきなさい」

「はい!」


 そうしてはじまるのは、茨の道。特別でもない彼女は、棘に足を取られて転んで全身を傷で痛めることだろう。

 でもそれでも。


「あたし、あたしだって、椿ちゃんのこと、大好きだよ!」

「百合ちゃんだけは、失わせないからっ!」


 尊い彼女らの勇気をならいに、最期まで血の跡を確りつけながら一歩後を進んで。


「――そんなことは、ないの。私は全てを知らなかったけど。あなたに教えてもらったから。だから、皆の幸せを望めた」


 そして、彼女らの終わりの世界に救いを見つけるのだろう。

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