ルート4 佳日の希望 日田アヤメ①

 現在傍流を除けば日田百合、アヤメら姉妹が仲良しこよしに残るばかりになった日田本家は、中々に複雑な成り立ちをしていた。


 元は豪農、と言えるほどに広大な田畑を持ち、大いに小作人を抱えた地主である日田家。

 彼らも戦後の農地改革により多くの土地を手放すことになったが、それでも富は細りながらもしばらく健在だった。


 それが変化してしまったのは、亡き百合等の祖父の代からだっただろうか。

 農地として耕し続けるより宅地として切り売りした方が銭になると判断した彼は、土地の売買を重ねた結果、一財産を得る。

 そして、蚕と寝所を共にした経験から、どうにも農家などと卑屈になっていた彼は、まとまった金を用いて政治の世界に足を踏み入れようとした。

 人を集めて、金はばらまき準備は万端。さて、これより日田家の名を上げようと、彼は選挙を前に一時大いに鼻を高くしていたそうだ。


 しかし、所詮は素人の手習い。大層勉強したそうだが色々とつけ込むところがあったのだろう。

 財布を預けた彼曰くお偉い学者さん相手に金を横領され、選挙でも敵わず日田の家を巻き込んだ祖父の夢は泡と消えることとなった。


 さて。土地と大金と面目を失い、ずっとふさぎ込むようになった祖父。

 そんな彼を見た彼の息子と娘、つまり百合らの父である楓太と叔母の菊子はこう考えるようになる。


 お金は大切にしないといけないし、そして分を越えた役を得ようとしてもろくなことにはならない、と。


 学び励んで銀行員になり、結婚し子を得た楓太とて死ぬまでキャリアのステップアップすら今ひとつ乗り気ではなかった。

 また、当座のお金に目をくらませ続けた菊子は、水商売を続けて身体を壊して介護の職に就いたところで心変わらず、姪っ子達の親代わりにまでなろうとは決して思わなかったのだ。



「……それは、どういうことだい、百合」

「おねがい、菊子さん。アヤメの助けになって欲しいの」

「はぁ……」


 だが、世には年貢の納め時という言葉もあり、農家の家の子という自認があった菊子の今には、それがまた相応しいものでもあったかもしれない。

 玄関先にて小さき儚げな少女がお願いと頭を下げてくる、そんなことは色々と苦渋も味わってきた自認がある菊子でもこれまで経験がなかった。ましてや、それが自分の姪っ子だなんて。

 困り、とりあえずはと菊子は百合に促した。


「顔を上げなよ、百合。どうしたんだい、家に来るなり急に……」

「ごめんね。でも、あたし……」

「何があったんだい?」

「もう、死んじゃいそう、なんだ」

「ああ、そうか……お医者さんも、確かもう一度発作でも何でも起きるとヤバいって言ってたが……とりあえず、ここじゃ何だ。家の中に入りな」

「うん……」


 世間体を気にした菊子は、マンションの中に姪っ子の柔い手を引っ張る。途端、感じるその抵抗の弱さに、彼女は舌打ち一つでもしたくなった。

 ああ、また全体軽くなった。これじゃあ、命も相応に削れているだろう。どうしてこの子ばかりが、こんな目に。

 それくらいは、続けて思う。そして。


 なんで私が結局面倒を背負うことになるんだ。とまで考えて落ち込んでしまうのが菊子の小ささであり、人間らしさでもあった。


 この子を健康に産んでくれなかったねえさんたら、恨むよ、と見当外れなことを思いながら、そうしてリビングにて菊子は百合と向かい合う。

 小さい少女を背高の菊子は悪い目つき――生来の持ち物――で見つめ、少し経ってからぽつりと零した。


「やつれたね」

「分かっちゃう?」

「ああ。あんたったら、化粧下手だねぇ、後でちゃんと教えてやるよ。子供くらいは化かせるけど、これくらいじゃ大人相手はダメだ」

「そっかー……うん、ありがとう菊子さん!」

「はぁ」


 溜息は、どうしたって禁じきれない。

 百合は素直だ。見目も含めて可愛い子とは、思っている。つい愛してあげたくもなったりした。

 でも、結局は信じ切れない他人だと思い突き放してしまっていた過去がある。

 分を越えたことをしようとして誰もかもに裏切られ、それこそ妻にすら逃げられ孤独になった父親を見た子供時代があったのだ。

 だから、私はこの子に決して親身にはならない。


 だってこんな可愛い子の親愛を裏切ってしまったら、とてもじゃないが自分すら信じることが出来なくなってしまうから。


 自分すら愛せなくなったら、孤独は生きられない。それを菊子は知っていた。


「で、百合。あんた死んじまうって話だけれどさ……大体どんくらいとか、決まってる訳じゃないんだろう?」

「菊子さん……あたしは心肺機能から崩れやすいからって、もしそれが悪くなったら直ぐ言いなさいってお医者様に言われてるのは知ってるかな?」

「ああ。そんくらいは知ってるよ。あんた、妹に心配かけたくないからって、何時も診断書とか紙くず置いてくからね。あん中にクソ下手な字でメモってあったよ、そんなことが」

「あはは……確り見てくれてたんだね。ありがとう」

「ふん。それくらい、当たり前さ」


 そう。病院への送り迎えと、生活費の負担。それに体調把握くらいの面倒を見るのは、兄貴より任された二人ぼっちの姉妹のためを思えば当たり前過ぎた。

 むしろ、虚弱な姉とその妹に対してそれきりしかしないで居は別のまま勝手にさせているなんて、親代わりとは呼べない、むしろ拙い方だろう。

 菊子は、それを理解したアヤメに嫌われていることなんて、とっくに分かっている。


「兄貴に頼まれたからって、そんだけだよ。そうでもなけりゃ、紙くずだってほっぽって知らんぷりだったさ。そんな冷たいのが私だ」


 そも、菊子は責任というものが嫌いな性質である。

 子供が出来ない身体と医者に診断されて、むしろほっとしたくらいの人間だ。

 姪と叔母の交わりがこんな風になってしまうのは自然だった。

 でも。


「百合、あんたはどうして……こんな私を信じるんだい?」


 そう。どうしてだか、一人の姪っ子は、こんな弱い女を心より愛していた。

 気まぐれに病院帰りにあげたアイスに大げさなまでにはしゃいだり、熱を出したと知ってさてどれくらいだと戯れに触れた額の熱さに驚く菊子に涙目でありがとうと言ったり。

 与えたのは、どれもさわりばかりの愛の欠片。しかし、百合はそれをとても大切にして、頼りにした。

 それは、何故だろう。今更になって発された叔母の疑問は。


「え? だって、菊子さんって、お母さんみたいな人だから」


 ぽかんとした表情の姪っ子にそんな、簡単な答えで返されるのだった。

 思わず、くらりとするような心地を菊子は覚える。


 私は、二人目の産後に弱かった身体を更に崩して亡くなった、あの優しかった姉さんとは違う。

 顔立ちもキツければ、心根に猜疑心が根付いていて、身体ですら母親に向いていない。そもそも、子供を見てウザいとしか感じられない程度の低さ。

 まこと、こんなのを母と思うなんて、良くないだろうに。


「あたし達を見捨てないで、見守ってくれる人なんて、他にいないもの。菊子さんはあたしの大切な人だよ」


 でも、この子はなんてその気にさせるのが上手い子なのだと、菊子は思うのだった。

 百合は知らないだろう。四十過ぎの未婚が女社会で陰日向に何を言われるのか、水商売崩れの仕事下手が職場でどんな扱いを受けているのかなんて、きっと想像もしやしていない。

 つまらない、人生。大切だと言われたことなんて指で数えられるほどで。その中でも極まって本気なこの少女の言葉は、心に響いた。


「はぁ……分かったよ。あんたがそのつもりだったら仕方ない。親代わりにだってなってやるよ。ついでに、アヤメの面倒だって見てやるさ」

「ありがとう、菊子さん!」

「ったく、抱きつくなっての、子供かい、あんたは」


 ふわりふわり、そんな飛んで消えてしまうような命が、ひしと抱きついて愛を示す。そんなぬくもりに、思わず菊子は少女の頭をこわごわ手で撫でるのだった。


 全く、今まで無理な理由でごまかしていたけれども。私だって本当は、母親になりたかったのだ。そしてこの子をもっとずっと大切にしたかった。


「ごめんな、百合」

「ん」


 そんな思いは言葉にならず、ただ一つの謝罪となって。やがて彼女は抱きつく少女の髪を撫で梳くことに懸命になるのだった。





 その後、しばらく。

 マンションから出て百合等の家へ菊子が同居をはじめて少し。

 夕飯時の団らんの時間。しかし、その場に会話は一切なかった。それは一人が、向けられた話を一切受け取らないから。

 ずっと不機嫌そうにしながら、アヤメはひとり、先に手を合わせるのだった。


「ごちそうさまでした」

「あー、美味かったかい? アヤメ」

「ええ。貴女も、不味いものを出したつもりではなかったでしょう?」

「なら、良かったが……」

「それではお姉ちゃん、叔母さん、失礼します」


 取り付く島もない態度で、アヤメは使った皿を洗いに持っていく。遠ざかる、深い色をした黒髪に覆われた背中。

 カチャリカチャリという水洗いの音を後目に、残った百合と菊子の二人は苦笑いを向け合うのだった。


「頑なだねぇ」

「あはは……アヤメったら人見知りだから。それとも、反抗期なのかな?」

「反抗期、にしては温いけどね。まあそもそもこれまで反抗する相手もなきゃ、作るバリアもこんなもんか」

「菊子さんの反抗期ってどんなのだったの?」

「あー。私の場合は何かあったら男に逃げてたから、別に親兄弟に当たりはしなかったっけなあ」

「わあ。流石菊子さん、アダルティだー」

「そういうのは不潔っていうんだよ……はぁ。仕方ない」


 下らない、自分の頼る相手を間違えた過去話を早々に流し、そうして菊子は腹を括る。

 面倒だと、正直なところ思う。けれども、そんな大変さが心地よくもあるのが不思議だ。

 ああ、これが曲がりなりにも親をやるということの楽しさなのだろうと思った菊子は口元に笑みを作るのだった。

 そんなどこか楽しげな様子のまま立ち上がる叔母の様子に、百合は首をかしげて聞く。


「どうするの?」

「なあに。一つ話をしてくるだけさ。親代わりとして、ちょっとね」

「……ありがとう」


 ありがとうに、手でそんなのいいさと返す。

 そして、少量を飲み込むのですら時間をかけざるを得ない百合を置いて食べた皿を片付けてから、菊子は去っていった妹がおそらく逃げ込んだ部屋へと向かうのだった。



 ノック三回。

 あれ、回数これで良かったっけと菊子が思い出したところ、部屋の主からの返答が返る。綺麗な声の持ち主は、酷く不機嫌そうに短く発した。


「なんですか?」

「あー……ちょっと話がしたいと思ったんだけどさ。今、話せるかい?」

「私は話をしたくありません」

「そっかい。なら私がここで勝手に話すよ」

「なっ」


 小さな拒絶。しかし、そんな程度のもので止まるほど、菊子は軟な女ではない。

 鍵のかかった部屋の扉の前にしばらく立って話すことを決め、真面目な声で彼女は話を続けた。


「そうだね。まずは、すまなかった、っていうのが一番先に言わなければならなかったことか。これまであんたらを放っておいて、申し訳なかった」

「それは……貴女にも、生活というものがありますし……」

「いや、でも私だってあんたらの父さんに頼まれてたんだ。代わりに、助けてやってくれってさ。百合は認めてくれてたけどさ、でもとても私がやってたことなんて、親代わりとしちゃ足りない」

「そう、かもしれませんね……」


 それには、アヤメも頷かざるを得ない。

 何せ、困った時に渡してきたのはお金だけ、自分が熱を出したときにも顔を出さず、私達の誕生日をそもそも知らないときた。

 そんな親代わりなんて、認められないのは当たり前。どうやら今は拙速にも歩み寄っているようだが、そんなものに身を預けることなんて出来ないのがアヤメの本音である。

 だが、そんな心を知りながらも、嫌われたままでいることを覚悟で、親っぽく菊子は厚顔にも語るのだ。


「でも、だからってこれまで通りじゃいかないんだ。何しろ……」

「お姉ちゃん、百合の命がもう直ぐに尽きそう、ということでしょうか」

「まあ、そうだ。その後あんたの身寄りは私一人で……」

「いりません」

「はぁ?」


 助けたい、と思う菊子に返っていたのはこれまでにない拒絶。

 それがどうしてかと考える彼女に、アヤメは本音を零すのだった。これまでにない、哀しみに浸った残念な言葉を、少女は溢れさせるのである。


「私には、百合、あの人が全てです。他の何も要らない。だからお姉ちゃんがもし亡くなってしまうのであれば、私も死にます」

「はぁ」


 そうだ。あの人の綺麗さに惹かれ、優しくされることに安堵して、そうして共にあることばかりに恋をした。

 ならば、そんな全てが失われるなら、この世に自分がある意味はあるのだろうか。

 そんな愚問に、大人は。


「この、馬鹿娘が」

「っ!」


 思わずどんと扉を叩いて、そう言い切るのだった。そして、間を開けることなく、菊子は続ける。


「そんな終わりをあの子が望むと、本当に思うかい?」

「それ、は……」


 私は死んで、妹はそれに続いて、アンハッピーエンド。そんなこと、誰も許さないし、何より当の百合が許さないだろう。

 そして、当然そんな甘えを親代わりだって許しはしない。

 今更本当に、心から思うことは一つ。自分より長く生きて欲しい。ああなるほど、親とはこういうものかと菊子は思うのだった。


「私が嫌いでも良い。悲しくったって仕方ない。でも、百合も私も……あんたには長く生きて幸せになってほしいと思うよ」

「そう、ですか……」

「まあ、直ぐには無理でも、少しずつでも変わっていけばいいさ」

「そう……なのでしょうか」


 逃げるのはいい、でも、死んでしまうのはあまりに情けない。それも、あんなに生きるために戦っている姉の頑張りをみて、それはダメだ。

 そんなこと、アヤメにだって分かっていて、でもどうしたらいいか分からなくて。

 でもだから、少しでも。なんだか変わったこの人でも信じてみるのはどうかと、少女は思い始める。


 だが、そんな時、にんまり笑んだ菊子は扉の外で語りだすのだった。


「にしても、あんた本当に百合にほの字なんだねぇ」

「う……ま、まあその通りですが。姉妹でおかしい、とは思っていますが……」

「なあに。これも血筋だろう。私だってあんたの父さんに熱を上げていた過去がある。私は、応援するよ」

「えっと?」


 なんだか話の流れがおかしい。私が姉に惚れているのは当然で。でもしかし、それをこの面倒な親代わりに知られたのはあまり良くない。

 でも、この人は何故か近親愛に対して鷹揚で。というか、父親と何があったか気にはなるが、そんなことよりも。


 アヤメは、応援という言葉に驚くのだった。だって、これは自分が墓場まで持っていかなければならない禁忌のはずで。


「あんたら姉妹、とっとと、恋仲になっちまえってことさ」


 だがしかし、親では決してない親代わりは、そんなもんどうでもいいと、間違って二人が幸せになることを望むのだった。

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