第八話 間違ってる


 お庭のなすびがぱんぱんに張ってきた今日この頃。日差しの強さよりも空気の暑さの方が気になる時節に、珍しくもあたしは外出をしていた。

 青空には、随分と成長した入道雲が遙か遠くに。何に遮られることもなくぎらぎらと輝く太陽が、あたしを容赦なく攻め立てる。


「暑いー……」


 暑気の中あたしは、薄着をぱたぱたさせて、無理矢理涼を取っていた。すかすかの胸元がむせ返るような空気を吸い込んでも大して意味はないというのに、必死に繰り返し。

 どうにも恥じらいが足りないお年寄りっぽさが漂う仕草をしてしまうけれど、もう逃げ水を延々と追っかけるような年でもなしに、夏場に元気を出すことは難しい。

 と、いうよりもあたしの場合夏に加減を間違えると直ぐに熱中症で生死の境を巡ることになるのだ。

 何度思い出してもあの暑さを通り越したところの寒さにはぶるっとしてしまう。だからついあたしはバッグから水筒を取り出して、度々水分を採るのだった。


「しょっぱい」


 しかし、今口に入れたあたしお手製のジュースには致命的な失敗があって、そのためあたしは思わず舌をべーとしてしまう。そう、うっかりさんなあたしはレモン水の砂糖と塩の分量を逆にしてしまったのだ。

 塩っ辛さの主張が強すぎるのに、あたしはこれ血圧とか色々に悪そうだなと思いながら無理に呑み込む。

 何せ、子供の頃からのトラウマであるところの、もったいないおばけはあたしの天敵だから。菊子おばさんはよく言っていた。無駄に残す子は、もったいないおばけが骨も残さず食べちゃうんだからね、と。

 おばけさんのあまりの健啖ぶりに恐れを成したあたしが、食べ残しをしなくなるのは自然の成り行きだった。


「それでもあたし給食全部は食べられかったなあ。でも涙目のあたしを見かねた椿ちゃんが時々食べてくれたんだよねー。ん……それで椿ちゃんはあんなに色々と大っきくなったのかな?」


 そんなことを口にしながら、あたしは椿ちゃんの大人びた全身を思い出す。ふかふかなだけではなく、艶やかなラインまでもを兼ね備えた彼女。

 小さい子供と間違えられるあたしと逆に、大学生あたりに間違えられて中学生時代からよく知らないおにいさんたちにナンパされていた椿ちゃん。

 綺麗な見た目通りにたいそうおモテになるあの子が、誰かと付き合ったということはそういえば聞いたことがない。むしろ、色恋の方ではあたしの方が先行してしまったのかもしれなかった。


 それが、どうしてだろうかと、ちょっとあたしは考えてみる。よりどりみどりの中で選ばない心は、あたしには分からない。けれども、この人という好きな人が居たら、その人しか目に入らない気持ちは知っていた。

 だから、かもしたら椿ちゃんには片思いの相手でも居るのではないかな、とあたしは少し思ってみる。高嶺の花でも振り向いてくれない、そんな相手にどぎまぎする彼女の姿は妄想の中だって愛らしい。

 でも、虚しい空想の中だって椿ちゃんに幸せになって欲しいあたしは、早く結ばれないかなとも思うのだった。

 何しろ、想い叶った笑顔も白無垢だとかウエディングドレス姿だって、椿ちゃんにはとっても似合うだろうから。


「うーん。全部が全部あたしの妄想だけど、でも一応何か恋愛で困っていることあるか聞いてみるのはありかも」


 プールバッグをくるりと後ろ手に持ち替えながら、あたしはそう独りごちてみる。ビニールが汗ばんだ腕にくっついた感触を少し嫌だなあと思いつつも、そんなの無視して椿ちゃんを思った。

 何しろこれから向かうのは、椿ちゃんのお家なのだ。これからそこで贅沢にも二人でプールで遊ばせて貰うからには、思いやるくらいはしたいところ。

 特に何も出来ないあたしだけれど、せめて差し出されたものくらいには真剣ではいたい。友情には精一杯を返してあげたくなるのは、あたしの当たり前だった。


「椿ちゃんが痛いのなんて、嫌だものね」

「――ん? 貴女、ひょっとして椿……お姉さまの名前を口にしましたか?」

「え?」


 あたしがのろのろと歩きながら呟いていると、それを通りがかりのお隣さんが、拾って気にする。

 日差しを遮る日傘のレースがひらり。そこから覗く綺麗な顔にはどこか見覚えがあった。そして、その面の横でぷらぷらしている強固なカールには尚更に。

 あたしは、彼女の言ったお姉さまという文句から、白いワンピース姿の彼女の正体に察しが付いて、そのまま言った。


「うん、言ったよ。でもお姉さまってことは……貴女、椿ちゃんの妹さんだっていう、ひかりちゃん?」

「そうですわね。わたくしは月野光ですが……ふぅむ」

「どうしたの?」

「いえ。想像していたよりもずっと貧相だな、と。貴女、ご飯いっぱい食べています?」

「食べてるよ! まあ……お茶碗一杯はちょっと食べられないけど、半分くらいは」

「はぁ……その食に至るまでの細身。なるほど貴女が日田百合さんですか」

「椿ちゃん、ご家族にあたしをどんな説明してるの!?」


 よく分からないところであたしの照合して頷く光ちゃんに、ちょっとあたしは椿ちゃんを信じられなくなる。

 いや、確かにあたしは小中学の給食で無理してお世話して貰ってたけど、そういえばこれで太るのは嫌だなあとも言ってたけど、それであたしを細い細いと吹聴するなんて。


「ぷ」

「わ」


 あたし何時の間に椿ちゃんを怒らせちゃったんだろうと戦慄していたら、目の前の綺麗な子が吹き出した。

 驚くあたしに黒の視線を合わせ、椿ちゃんよりもツリ目がちなその眦を下ろして、光ちゃんは話し出す。


「申し訳ありません。貧富で人を測るのはわたくしの癖でしてね。……というより、お姉さまが叫んで叩き直す前までは月野家全体の悪癖でもありましたわね……と、まあお姉さまの説明は普通でしたわ。ただ、百合さんはとても線の細い子だと」

「うーん……線の細い……そうかなあ。あたし結構寸胴なんだけど」

「というよりも、全体的に薄い様子ですわね」

「そう?」

「ええ、まるで淡い輝き……わたくしよりずっと、柔らかな光の印象に近いですわ」

「……光ちゃん?」

「優れた審美眼に人は見えない……そんなことを言ったどこかの誰かが居るみたいですが、そんなことはなさそうですわね」


 光ちゃんは、首を傾げるあたしの前に意味深を並べた。おもむろに少女はひらひらのデコレーションが素敵なパラソルを閉ざす。当然のように、淡雪のような白い肌が眩いくらいに陽射しに照った。

 ばさりと纏まった髪が動きに沿ってざわめく。白に白を纏った彼女の黒は、鮮烈。深い暗闇の目にあたしを容れて、そうして光ちゃんは微笑んだ。

 あたしの目の前で艷やかな唇が、蠢いて形を変える。当然のように、無垢は残酷な言葉を紡いだ。


「おほほ……淡さが瞳に優しい、それはその通り。そして、貴女が優しいのもそれは自然。だって貴女は何の意味も持たないのだから」

「っ!」


 暗闇は何を呑んで、黒くなったのだろう。或いはこの世の全てを識って染まったのか。その言葉には、胸元にざくりざくりと突き刺さるものがあった。

 意味もない。そう、ただ痛みを引きずり皆にこうならないでと乞い願うばかりが個性のあたしは、確かに慰めにもならないのだろう。

 だが、でも、しかし。それでも、あたしは皆が辛くないのを望んでしまう。多くの幸せを。そればかり願ってしまうのだ。


――――ああ、そういえば。それを憐れだと葵も言っていたっけ。


 黒に白は映らない。けれども、大体を見通し哀れんで、光ちゃんはあたしに言うのだった。


「ああ。――――せめて、幸せにでもなってしまえば良かったのに」


 そう言って。彼女は振り返ることもなく、歩み去っていく。白い背中は、逃げ水に飲み込まれるようにして遠ざかる。

 あたしは、しばし呆然として、光ちゃんをそれっきり見失った。

 残るのは、蝉の声の騒々しさばかり。まるで彼女は蜃気楼の幻のようだった。




「大丈夫?」

「大丈夫ー……」

「これは、駄目そうね」


 大きな浮き輪に小さなお尻をはめ込んで、ぷかりぷかりと浮かぶ百合を見つめながら、椿は言う。そして、それに応答もしないぼんやりとした彼女の姿に、これは重症だなと感じる。

 小さくため息吐き、過干渉にならぬようにと椿は百合を真似て水中に身を預けて、水面に浮かぶ。胸元を双子の小島のように浮かべたその姿を認めた監視員役のメイドの一人は、お嬢様はんぱねえな、と思うのだった。


 そう、彼女らが浮かぶここは月野家、ではなく椿個人の屋敷に備え付けられた屋外プールの中。水面の凹凸美しく輝く一帯にて、椿は暇をしていた。

 大事な百合は上の空。こんな何時でも入れる水たまりなんかに浸かるのに、価値はそれほど見いだせない。ならば、無理に涼みにプールを使う意味はないのだった。思わず、椿は呟いてしまう。


「もう、折角の二人きりなのに……」


 近くに親が雇ったメイドさんが常に三人以上控えていたりするのだが、生まれた時から家中に自然とあるそれらを無視して、椿はここを自分と百合の世界と思っている。

 もはや彼女らを塵芥と考えることすらないが、しかしあれらは日常の一。決して気にする対象ではないのだ。いやむしろ、気に入りすぎて安心を置いていると言っても良い。

 だからこそ、そんな最中で最愛の百合がぼやっとしているのは残念だ。勿論、椿にとっては少し緩んだスイミングキャップに包まれた小ぶりな顔ですら愛らしく映りはする。しかし、その中の瑪瑙の瞳に、自分が映っていないは、減点だ。

 ぶくぶくと気持ちとともにちょっと全体沈ませてから、ざばりと椿は立ち上がった。


「百合ちゃん」

「んー? わわっ」

「こっち見ないと、ちゅーしちゃうよ?」


 百合が全身預けた浮き輪の上に新たに乗りかかり、椿はふざけたキス宣言。頬をぷくりと膨らませる。

 漫ろな百合の前で拗ねた椿は子供に似た。いや、元より高校生なんて年代が大人とは言い切り難いところがある。

 とにかく好きな人を慌てさせたくて、女子に対しては役に立たない豊満を椿は寄せ付けた。それに慌てたのは、百合である。

 意識していなかったからこそ、相手がここまで寄っていたことに驚くもの。びっくりと、彼女はわたわたした。


「急に椿ちゃんがドアップに……わぁ!」

「あ、百合ちゃん!」

「ぶくぶく」


 そして、頭から水面に真っ逆さました百合は、ぶくぶく。泳ぎ方も忘れて突然の水に慌てて溺れる。

 脂身少ないぺったんこな彼女は、あまり水に浮かない。このままでは百合は、友達の家で溺死という憂き目にあってしまうことだろう。

 もっとも、そんなことを椿が許すことはない。それこそ彼女は百合より余程慌てて、水の中で可憐な魚となる。

 一つ水を掻いて近くに寄り、もう一つで百合を引き寄せて、抱っこをしてそのまま岸へと上がった。水も滴る美少女二人が、ざばんとタイルに。二人のそんな様子を見て自然、メイドの一人が急ぎ寄ってくる。


「お嬢様! 日田様も、大丈夫ですか!?」

「大丈夫! 私が百合ちゃんを助けるから!」

「あ、ありがとう椿ちゃん。あたしもう大丈夫……」

「えっとこういう時は確か漫画だと……マウストゥマウス? うう、恥ずかしいけど仕方ないわ……」

「全然聞いてな……もぐっ!」


 恋しい人の危機と、慌てに慌てた椿は百合の無事にすら気付かない。

 そして、蘇生の際には人工呼吸より以前に前胸部圧迫による蘇生法の方こそを試みるべきであることを無学により知らなかった――もっともこの場合は心臓マッサージまでしなくて良かったが。下手をすれば百合の肋骨が無残に砕けていた可能性がある――のだ。

 だから、ぷるんとした唇が百合の薄い口元に重なる。そしてそのまま、むぐぐとなる彼女の口いっぱいに、椿の息が込められた。


「ふーっ!」

「うぐぅっ」

「お嬢様! 意識も自発呼吸もある日田様に人工呼吸の必要はありません! お嬢様!」

「え?」


 過度に息を吹き込まれてパンク寸前となった百合を見かね、水着で監視員をしていた長身のメイドさん――田所さん――が助け舟を出す。

 その内容を聞き取り、疾く自分がやらかしたのだと理解した椿は、百合からそっと口を離す。二人の唇の間を、透明な橋が出来て輝いた。

 そして、離しきらなかった百合の体躯は目の前に。そのスクール水着の端々から覗く傷痕すら克明な近距離に気づいて、ぼっと、椿は顔を紅くさせる。


「ケホケホ……こんな強引なキス、初めてだよ……うぅ」

「ご、ごめんね、百合ちゃん! わ、私はそもそもキスってはじめてだよ! 下手だったらごめんね!」

「下手とかそういう次元じゃ……うん。まあいいや。これ以上あたしが何か口にしたら、後で椿ちゃんが反省することが雪だるま式に増えちゃいそうだから、止めるね」

「うぅ……本当に、ごめんなさい……」

「大丈夫、気持ちは有り難かったよ。こっちこそ無視しちゃってごめんね。よしよし」

「うぅ……」


 優しく濡髪を撫で付けられながら椿は大反省をした。まずは自分の行動で、そして次は言動。どれもが赤面ものの過ちばかりで、そして幼子の見た目の百合にあやしてもらっている今ですら恥ずかしい。

 何か近くでよく見知ったような大人の女性の声で尊い、とか聞こえたような気がするが、そんなことはどうでも良かった。

 折角、あまり人前で傷が残っている肌を出したがらない百合に二人とメイドさんだけならとプールで安らいで貰うことに成功したのに、自分の手で台無しにしてしまうなんて。

 当の百合が既にこれっぽっちも気にしていなさそうなのが、また悲しい。というか、乙女的にそこは気にして欲しかった。本当に、口と口で誰かと接触するなんて物心ついてからはじめてのことだったから、今もドキドキして止まらないというのに。

 だが、これ以上そんな自分の心の勝手で百合に迷惑をかけたくはない。優しさから退こうとする椿。


「ごめんね、百合ちゃ……え?」


 すると離そうとしたその身体に、どうしてだか百合が身を預けてきた。そのまま、彼女は椿の胸元に収まる。

 びくり、と椿はなだらかな全身を震わす。胸元の音が間違いなく聞こえているだろう距離に、薄い布地一つしかない間に彼女が。そして、この全身に感じる柔らかな矮躯の全てが愛すべき人の温度で。

 そう思うと、椿の顔はもう紅潮を越えてのぼせてくるのだった。何か声をかけようと口をぱくぱくさせる少女に、百合はぼそりと言う。


「椿ちゃん……あたしって、間違ってるのかな?」

「百合、ちゃん……」


 その言葉を聞き、椿ははっとする。彼女はぶるぶると震える百合の身体を抱きしめることをためらわなかった。

 胸元で、僅かな身じろぎを感じる。だが、その拒絶の動きも無気力に止まった。それを受けて、更に抱擁を強めてから椿は言った。


「間違ってる、かもしれないね」

「やっぱり、そうなんだ……」


 日田百合は間違っている。そんなこと椿は勿論知っているし、それ以外の彼女をよく知る人間だって理解できるだろう。

 辛いからと、他所の辛さを認めたがらないのは間違っている。果たして対人距離の理解が出来ない不備でもその心にあるのだろうか。或いは自分と他人の区別もできないほどに百合は未熟なのかもしれない。

 どちらにせよ、人のためにこそなれ自分のためにならない特徴は、長所ではなくただの欠点である。認めるべきではない、と椿は心の底から理解している。


「でも、そんなこと、どうだっていいでしょ?」

「え?」


 だがしかし、そんな小利口な当たり前なんて、くそったれ。

 月野椿は、そんな間違った日田百合が好きだった。間違って、自分に優しくしてくれた彼女が大好きでたまらなくて、愛おしくてはちきれそうで。

 ぽたりと、雫が落ちる。それは、ただの水滴か否か。そんなことすらどうでもいいと、熱に浮かされたように、椿は語る。


「私は、そんな百合ちゃんを愛してるんだから。……百合ちゃんも、そんな自分が好きなんでしょ?」

「うん……」

「なら、いいのよ。最低でも私だけは、そんな百合ちゃんを認めるから。百合ちゃんもそんな自分を認めてあげて」


 思う。想う。愛おしさは果たしてどこまでが限界なのか。きっと、それに果てなどないのだ。

 だって、いくら思い伝えても足りないと心は叫んで、どれほど力を入れて抱いたところで表現しきれていないと脳裏は軋む。

 掬うように持ち上げられる、こんな小さな体で人を殺して余りある痛みに耐え続けている。それがどんな偉業なのか、それこそ百合本人以外に分かることはないだろう。そんな彼女が少しぐらい壊れていたところで、愛嬌だ。

 そう思って、見上げる瞳に微笑みかける。必死過ぎて醜いかもしれないとも思えたその笑顔に、百合はくしゃくしゃな笑顔で返した。


「あは。そうだね。うん……あたしは、あたし。そうするよ」


 ぽたりぽたりと二人の足元に、雫が二つ。笑顔の隣でミルククラウンの花冠が開く。

 よく分からないけれど感動だと泣いている長身メイド、田所恒美の見守る中。二人は笑顔のまま零した。


「ありがとう」

「どういたしまして」


 そして、百合と椿は弾けるように離れて。


「あたしも、椿ちゃんのこと、愛してるよー!」

「ふふ、私はもっともっと、愛してるからねっ」

「なにおー!」


 そう言い合い、戯れるのだった。






「尊い……」

「田所さん、大丈夫ですか!」

「ヤバいねこりゃ、手遅れになりかねないよ……」


 そんな二人の影で大量の鼻血を零し、貧血になって倒れ伏した田所恒美(32才)はメイド部隊によって無事救出されていた。


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