第七話 傷


「そろりそろり……」

『すいすいー』


 妹に黙って幽霊を家に入れるという隠し事のために、百合は抜き足差し足忍び足。まとまりきらない薄色の髪の毛がそれに合わせて上下する。

 軽いその身をそろりとすれば、床に音など立ちはしない。綿のような総身をつま先に預けて、ゆっくり靴下に包まれたかかとを降ろして一歩一歩地面を進む。そんなこんなを百合はかくれんぼのように楽しんでいた。

 更に百合は連れてきたお化けの紫陽花にも、家の中はそっとねと言ってある。足音亡くした幽霊までもが忍んでいたら、二人の周りは自然一体全体足音響かぬ静かにはなった。


「はぁ……何やってんだか」


 とはいえ、百合が隠れる必要性に気付いたのが、玄関のドアを騒々しくもバタンと閉めてからであっては、その隠形は全くの無意味である。

 開閉の音を聞いて愛すべき姉を出迎えようとして出てきたアヤメが目撃したのは、必死に一歩一歩を丁寧にしようとしているよく分からない姉の姿と、その隣で同調しているよく分からない人っぽいモヤ。

 思わず、アヤメがなんだこれと溜息を吐いてしまったのも仕方のないことだったろう。頭を抱えながら、彼女は言う。


「おかえり、お姉ちゃん。……また変なの連れてきたでしょ」

「ただいま……うぅ、見つかっちゃったし、やっぱり分かっちゃう? さっすがアヤメ!」

「褒めたところでごまかされないわよ……なにその……女? また女の子連れてきて……」

『凄い、この子ボクが見えるんだ』


 妹のすごさを再発見して、にこにこしている百合に、対してアヤメは渋面。

 つい先日鬼のようなよく分からない女の好意を引き連れてきたと思えば、今度は人かどうかすらもよく分からない女をいたずらに家に入れようとしている。

 なんとも見境がない浮気性。これは、怒らなければならないだろうと、彼女も思う。思うが、その前に目の前の薄一枚のような存在の正体も気にはなる。

 それが何か口元を動かしたのを目ざとく見つけて、アヤメは百合に聞いた。


「……お姉ちゃん、この子、なんて言ってるの?」

「アヤメが見えたからびっくりしたって言ってるよー」

「私は見えるだけで、お姉ちゃんは聞こえもする、か……ノイズだらけなのか、それともこの子がノイズなのか……ま、なんでもいいか。それで、鬼に続いてこの子は何?」

「木ノ下紫陽花ちゃんっていう、お化けだよ!」


 ぽやぽやしている姉は、ふよふよしている薄いのを、えへんとしてお化けと主張する。

 なるほど確かに、宵に現れたこの分かり難いのは、幽かではあった。思わず人が化けて出られるのは精々この程度だよな、と納得してしまうくらいには希薄。

 とはいえ、そんなものと仲良くしているようである百合のことが、今度はアヤメには解せなくなる。彼女はつい先日、血みどろホラーちっくなコマーシャルを見たと布団の中で丸くなってぶるぶる震えていたことすらある、怖いの嫌いというのに。

 まあ、これだけ相手が薄ければそれが死に近いとかまで気にならないのかな、とアヤメは呑み込んで、一応はと問いただしてみる。


「お化け……幽霊のことかしら。幽霊……危なくないの?」

「紫陽花ちゃん、そこのところどうなの?」

『ボクは……お化けの中でも無能な方だから……出来るのはものを冷やしてびっくりさせることくらいかな』

「凄い、天然冷えピタだー! 紫陽花ちゃん、夏場大活躍出来るかもしれないね!」

「はぁ……その様子だと、大丈夫そうね」


 いや、天然だろうがなんだろうが冷えピタ――熱冷まし――が大活躍するようなうだるような夏なんて嫌だし、そもそも、幽霊が活躍するのは夏場が相場だろうに。

 そう内心で突っ込みながらも、お化けの言を聞いてむしろ元気になってしまう姉の暢気を見て取り、アヤメは内容聞き取れずとも納得した。

 まあ、怖がりが怖がらないということは、きっと大したことは出来ないのだろう、と。

 だが、幾ら危険がなくても、他人の目が日常に紛れ込むのは少女にとって嫌である。特に、姉以外は要らないと姉以外に公言して憚らないアヤメは、当然ながら目の前のモヤとの共同生活を望まなかった。

 その頼りなくすらある細い腰に手を当て、彼女は言う。


「で、幽霊拾ってきてどうすんのお姉ちゃん。まさか、一緒に暮らすとか言わないわよね」

「駄目?」

「駄目も何も……お金はかからなそうだけど……同居人が増えるっていうのはちょっと気持ち的に……」


 しかし、そんな反抗の気持ちもお姉さんが下からうるうると見上げてくるそのねだるような視線によって萎えていく。アヤメは、なんかもう幽霊とかどうでも良くて、ただ愛らしい百合をなでさすりたくなる。

 その威勢の衰え振りをチャンスと見た紫陽花はここぞとばかりに口を突っ込んだ。ぱくぱくと、アヤメの視界の端でモヤが蠢く。


『プライバシーは守るよ?』

「……なんて言ったの?」

「んー? アヤメの裸は見ないよって」

『!?』

「ならお姉ちゃんのは見るの……っていうか絶対言い換えてるでしょ! あ、ほらこの子も必死に頭らしき部分動かしてる……これ絶対に首振ってるわ!」

「あれ? おかしいなあ」


 首を傾げる百合。彼女にとって他に知られたくないことなんて、自らのちびっこい中の恥ずかしい姿くらいしかなかった。そして、他の人も大して変わらないと勘違いもしていたのだ。故のプライバシーという言葉の伝言ゲームの大失敗である。

 アヤメは混乱し、紫陽花はうっすらとその頬を染めた。


『おかしいのは百合ちゃん!』

「お姉ちゃん、なんかすっごい跳ねてるんだけど、この子……よっぽどさっきの言葉が見当外れだったのね……幽霊怒らしてどうすんのよ。祟られるわよ?」

「うーん……?」


 下手したら覗き魔のレッテルを貼られかねないと嫌がる紫陽花と怪訝な様子のアヤメを前に、百合は飴色の瞳をぱちぱち。

 音も立たない幽霊の地団駄を前に、そんなに自分は変なことを言っただろうかと、悩む。

 しばらく突っ込みの嵐の中で首を左右に捻り、肩が痛くなってきた百合。そこで彼女は考えるのを止め、ようやく結論づけて言う。


「そっか。皆で一緒にお風呂に入ればいいんだ!」

「は?」

『はぁ?』


 そう、百合は突然にも、裸の付き合いこそが最善と主張する。

 少女にとっては、湯船にあってを見せ合うことだけが恥ずかしいのだから、むしろそんな恥ずかしいを先に済ませてしまえばもう皆の関係に遠慮は要らなくなるだろうという判断からだった。

 だがしかし、そんな異次元な論法について行くのお化けも妹ですら無理である。二重まぶたを大きく開けて見せつけられる四つの宝石のような瞳を認めて、しかし百合は微笑んだ。

 それは、とても儚く淡い、笑みだった。光の如くに、彼女は歪んだ。


「だって、恥ずかしいところなんて、全部見せちゃえば、もう気にならないでしょ? ほら……あたしの場合はこんな傷痕とか」


 そして、傷だらけの少女はおもむろに、半袖の裾を際どいところまでめくりあげる。電灯の光に、白い肌が輝く。

 そのまま続け、百合は自分の弱みである、整いきらない身体を無理に揃えんと手を入れたことで出来た表の傷を披露した。


『っ』

「あ……」


 思わず息を呑む、二人。その前で笑みは何一つ変わらずに、綺麗なまま。傷痕を撫で付けた。

 その太いピンク色した瘢痕は、彼女に刻まれた数多の手術痕の一つ。少女はその一つ一つによって生かされてきたことを知っている。だが、大事な臓器の周辺を主として体幹を巡るその数々を恥じてもいたのだ。

 どうにも鏡で見て取る自分が不格好なパッチワークに見えてしまい、引け目となって。


 けれども、そんな恥ずかしいものということで唯一考えてしまうそれを披露することが、円満へと繋がるのならば、百合は躊躇なんてしない。

 心の痛みを構わずに安心させるための笑顔を見せる彼女を前に、察した彼女たちは言う。


『もういいよ……百合ちゃん』

「参ったわ……もう、この子が居座るとか気にしないわよ。だからお姉ちゃん。いたずらに自分の傷を見せないで」

「うん。分かった」


 さっと、半袖を戻して無理な笑顔を止めてくれた百合に、二人は安心する。

 だがしかし、そうしてほっと一息吐いたところで、また少女は元気になって続けるのだった。今度は痛みを披露するのではなく、楽しみとして彼女は二人に向き合う。


「でも、ホントに今日のお風呂は皆一緒に入ろうねっ! 久し振りにアヤメと一緒するのも紫陽花ちゃんと一緒するのも楽しみ!」

「え……」

『うぅ……ボク、服とか脱げないんだけど……』

「そのままでいいよ! あたしは気にしないから!」

「私は色々と気になるんだけど……まあ、仕方ないか」


 姉との浴場での一幕を考え、なんとも気恥ずかしくなったアヤメは癖で、黒くて艷やかな長髪に指を通す。

 そして、柔らかな感触に安堵を覚えてから、ひとまずは姉が恥を呑み込んでまで容れようとしている目の前のモヤの存在を認めるのだった。

 なんだか勢いに乗せられてしまったようでもあるが、まあこれも何時もの事かと、どこか安心して。


 そう、そんなだからアヤメは死の縁を歩み続けている者と、死の向こう側にあるものが共になることの危険性をすら、考えなかった。

 そして、ただの霞に見えていたからこそ、分からなかったのだ。まさか、紫陽花が想いに濡れて溢れんばかりの色を湛えた瞳をしていたことなんて。


『ふふ……』


 幽霊は、ただ一人の理解者を、たとえ彼女が死んだところで離す気はない。




「くぅ……」

『あぁ……可愛いなあ』


 夜の闇の中。花の寝顔を見下ろしながら、ひゅう、どろどろ。どろりと、心がうねる。

 幽霊の正体見たり枯れ尾花。しかし、彼女はこれっぽっちも枯れてなどいない。そう、木ノ下紫陽花は、数あるお化けの中でも殊更華であった。

 容姿端麗がずぶ濡れのまま亡くなって、終わりの形で彷徨い歩く。その整い振りには知り合いの、口の裂けた女の人や、トイレで怨念揺らがす女の子に、背が高く歪んだ女の人等にも羨ましがられたものだった。


 だが、偶にこの世に消化されきることのなかっただけの残留思念の塊は、思う。自分はお化けの出来損ないだと。

 他のバケモノのように他を損ねて生きることすらなく、ただ衆生を恨めしく見つめるばかりの幽かな存在。紫陽花はそれこそよほど相性の良い人間相手でもなければコミュニケーションすら取れないのだった。

 もう人ではなく、お化けとしても失格で。ならば、自分はなんなのだろうかと、紫陽花は雨具の中で考え続けた。

 短冊の大祭が街から忘れられて、赤子の笑顔が皺に埋もれて消え去っても、ずっと。幾ら悩もうが中々、答えは出ない。

 死んだままで、生きている。だがそれだけで何に影響与えられもしない。果たしてただ想うだけのモノに価値はあるのだろうかと、少女は悩んだ。

 だから、紫陽花は自分と同じように自分を恨んでいる少女の願いを叶えることで、自己の存在に価値を見いだそうとしたのだけれども。


『――貴女が、貴女であるだけで、あたしは嬉しいから、かぁ……』


 紫陽花は彼女を真似て、独り言つ。そう、当の少女。ちんちくりんの百合は紫陽花を見上げながら、そんな風に言ってくれたのだった。そんな一言が、彼女にとってどれだけ意味のある言葉だったかなんて、言うまでもない。

 だから、紫陽花は、どんなことがあっても、想い続けるだろう。

 その幽かな身に滴る露に意味は無くとも、それを綺麗と言ってくれた彼女の想いを肯定するためにも。

 何もかもを恨んでいたその心を曲げに曲げて、愛とする。そうしたら、それはそれは大輪になったのだけれども。


『でもボクは、百合ちゃんを助けてあげられないんだよね……』


 けれども、紫陽花の胸をただ温かくしてくれるその愛で、何を変えられる訳でもない。

 自分はとっくに死んで終わっていて、百合は相変わらず何時死んでしまってもおかしくないまま。お風呂で見つめた彼女の胸元にて上下していた桃色の傷痕を癒やすことだって不可能。

 今も起こしてしまかねないからと、冷たい手で彼女に触れられないまま、紫陽花は自分は命に愛されていないと思うのだった。


『だったら、いいや』


 そして、紫陽花は命について考えることを止める。何せ、彼女を濡らす雨は止まないのだから。

 雫滴る顔に紅色の兆しはもうなく、ただ白地が広がるばかり。感情は内へと沈み込んで、澱となって蠢き出す。

 凝った思いは暗く、闇へと似通う。そして、そのまま彼女は安直にも少女の死を想った。


『それならボクは傷になるから』


 一歩離れた紫陽花は、傘を振る。暗中に雫が舞って、無意味に消えた。

 そのことに満足してから、彼女は濡れそぼったベリーショートの合間から、幼くしか育つことの出来なかった少女を見つめる。


「うーん……」


 深淵に覗かれた矮躯が、もぞりと、動く。


『――何時か、ボクが百合ちゃんの命を侵してあげる』


 そしてその奥の、可愛い魂を覗き込んで、早くそれを抱いてあげたいと願うのだった。


 痛みを昔に忘れた幽霊は、痛みに生きる少女を、ただ可哀想としか思えない。だから早く死なしてあげようと思うのは、紫陽花なりの愛し方だった。



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